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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

うつろいと美 —ゲーテ



 河津桜、という品種の桜がある。静岡県の伊豆半島にある河津町というところが原産(といっても園芸品種だが)ということで、この桜を植えているところは静岡には少なくない。

 この桜の特徴としては、何より早咲きであることがあげられる。二月の初めにはもう咲くので、梅よりもよほど早い。また、その濃いピンク色の花は、とても長く咲き続ける。本場河津町で毎年行われる、「河津桜まつり」のホームページによれば、「2月上旬から咲き始め3月上旬までの約1ヶ月に渡り咲く早咲きの桜です」とある。

 これはこれで美しい花であり、まだまだ寒風厳しいなか、冬枯れの風景のなかに色鮮やかに咲き乱れる様は無論一興ではあるのだが、やはり私は、ソメイヨシノが好きである。

 鼻先に春の香を覚えるとともに咲き綻び、一気に満開、そして、まるで開花を促した春風に吹かれて散るような、一打ちの休符もはさまぬ儚さをもって、春の盛りも待たずに去っていく、あの二度寝の朝の夢のような美しさ。

 比べるべきではないのだろう。同じ桜といっても、我々日本人がこよなく愛でるところの「桜」とはやはりソメイヨシノなのであり、その美意識に適うところの「桜」と、河津桜とは違うもので、河津桜は河津桜として楽しむべきものなのだろう。梅や桃が違うものであるように。

 日本人の美意識というもをよくあらわすとされる、桜。確かにその通りだと私も思う。で、その桜の美なるものを思うとき、浮かぶのはこの詩句である。今回の「人生を凌ぐ一行」。

    
 「いかなればわれは滅びゆくぞ、おおツォイス?」と美はたづねぬ。
 神は答へぬ。—「われはただ滅びゆくもののみを美となしぬ。」

 (竹山道雄訳 岩波文庫版『ゲーテ詩集』第二巻)


 ちょっと古風なので、もう少し現代的な言葉使いの別訳も。

 
 「何ゆえ、私は移ろいやすいのです?
 おお、ジュピタアよ」と、美がたずねた。
 「移ろいやすいものだけを
 美しくしたのだ」と、神は答えた。

 (高橋健二訳 新潮文庫版『ゲーテ詩集』)


 詩集『四季』のなかの一節(ただし、岩波文庫版では訳者の意向で『ヴェネチア短唱』のなかに収録)。ヨーロッパの美術は、美しさを「留めおこう」とする傾向が強いと、私は思う。油彩画にしろ、銅像や大理石像にしろ、石材による建築にしろ、ある「美しさ」を確固とした形に定着させようという意図が感じられないだろうか。あくまでもこれは日本の美術と比べた時の、相対的なものの印象ではあるのだが。

 そうしたヨーロッパ的文化のなかにあってのこのゲーテの言葉であるからこそ、私は大きな意味があるように思う。しかもゲーテはヨーロッパ文化の中心のひとつであるドイツ語圏の、重鎮ともいえる存在であり、本道から外れた異端的な種類に属する芸術家ではない。

 そのゲーテ、ヨーロッパ的美意識の中心にあり、その形成に大いに貢献したゲーテが、「移ろいゆくものの美」を感じ取っていたということ。あるいは逆に、そういう感性をもったゲーテを自らの中心に据えることができるということに、ドイツ文学の懐の深さをみることができる、ともいえるのではないだろうか。

 
  己を快楽で賺すことが君に出来たら、
  それが己の最終の日だ。
  賭をしよう。

  (『ファウスト』第一部「書斎の場」 森鴎外訳)


 ファウストはこう言って、悪魔と契約を交わす。


  己がある「刹那」に「まあ、待て、
  お前は実に美しいから」と云ったら、
  君は己を縛り上げてくれても好い。

  (同上)

 この、いかにも「ヨーロッパ的」な、「美しい刹那」に向けての、「とどまれ」という欲求。他ならぬ上述のような美意識をもったゲーテの、畢生の仕事の主人公のセリフだからこそ、深い意味をもってくる一言だといえよう。さらには結果的にファウストが、いかなるものに向けてこの契約の言葉を発したのか、それを思うとより考えさせられる言葉である。

 ただ、儚いものを愛でる日本人の美意識は、やはりゲーテのそれとは似ているようで少々違うように思う。ゲーテは、「移ろいやすいものだけが美しい」という。しかし日本人が例えば桜に見出している美とは、「移ろう」ことそれ自体の美しさ、なのではないだろうか。

 ソメイヨシノの開花時期は短い。しかも咲いたそばから散っていくように、ひとときも留まることをせず、満開を迎えると同時にその終焉の様を見せ始める。枝を若葉にゆずり、花はひとひらずつ舞い落ちて下草の新緑の影に朽ちていく。我々は桜花のビジュアル的な美しさもさることながら、こうした移ろう様にこそ心惹かれている。

 だがきっと桜は、顕著で象徴的ではあっても、そうした「移ろいの美」の一例でしかないのだろう、とも思う。美術作品の表現方法をみても、伝統的に、対象となる事物の、姿形を正確に捉え、あらわそうというよりは、時間的な動きのなかに、そのものの姿を捉えよう、という意図を感じる。極端に云ってしまうならば、デッサンの狂いをも厭わずに、動いているものを動いているままに描こう、という具合だ。それはもう、桜に限らず日本の文化そのものの中核に根ざす、ある本質的な傾向なのだろう。

 ここらあたりのことを詳しく述べようとすれば、もう一大美術論を書くことになってっしまいそうなので、ここではこれ以上深く立ち入らないけれど、美を永遠のものとしては求めず、かえって、移ろい、過ぎゆき、消え去るさだめにあることこそを美の絶対条件とみなす、そんな日本人的感性の象徴として、あの桜という花はあるのだ。

 今回の、「人生を凌ぐ一行」が読める本。



ゲーテ詩集 (一) (岩波文庫 赤 406-4)ゲーテ詩集 (一) (岩波文庫 赤 406-4)
(1952/09/25)
ゲーテ

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ゲーテ詩集 (1951年) (新潮文庫〈第180〉)ゲーテ詩集 (1951年) (新潮文庫〈第180〉)
(1951)
高橋 健二

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 ついでに、こちらも。



森鴎外全集 <11>ファウスト (ちくま文庫)森鴎外全集 <11>ファウスト (ちくま文庫)
(1996/02/22)
森 鴎外

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 なんだかんだいっても、やはりゲーテはゲーテである。詩の一節でもいい、ときどき、読みたくなる。『ファウスト』なども、ゆっくり読み返す時間があったらなあ、と思う。何度かは読んでいるが、未だ、理解しきれていない部分が多くある。読み返したなら、きっとまた新しい何かを教えてくれるはずなのだろうけれど……。


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