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再度、メメント・モリ —ヘルダーリン


 不幸というものは、どういう訳か、続くものだとよくいわれる。先日、友人のお父さんが亡くなって、そのことについて少し書かせていただいたが、最近になって、今度は私の伯母が亡くなった。

 私は今、四十二歳であり、子育て世代のど真ん中である。それはつまり、社会的には、新しい世代を産み育てる役割を担うと同時に、そろそろ、自分たちの上の世代を送り出すという役割をも担う、ということなのだなと、そんなことを思った。

 言い換えるならばそれは、生まれてくる者たちと、死に逝く者たちとの間にあって、その「交代劇」の仲立ちをする、ということである。平均寿命は八十歳、すなわち生と死とのちょうど中間にある我々世代に、その両方に否応なく関わらなければならない、そんな順番がまわってきたのだ。

 そう、死を想うということは、結果的に生について考えることをも意味する。有名な「memento mori(メメント・モリ、死を忘れるな、の意)」も、だから歴史的には、死そのものよりも、その死に終わることを前提とした生というものをいかに生きるのか、という視点で考えられてきたようである。こうした観点から読んでみると、なかなか興味深いのは次の一文であろう。今回の、「人生を凌ぐ一行」。



 童子には平和がある。童子には未だ迷ふということがない。富は童子にある。童子はその心の不足、生活の缺乏を知らない。童子は不死である。死については何も知らないから。
(第一章 渡辺格司訳)



 ヘルダーリン唯一の散文小説、『ヒュペーリオン』。「ドイツ語で書かれた最も美しい散文」などとも称されるこの作品であるが、その特徴として、登場人物の「抽象性」があげられるだろう。つまり、ゲーテの描くような「なまなましい」人物たちではなく、いかにも思弁的な作家の頭から生み出されたような、そんな「理念的」な人物たちばかりが登場するのである。

 だから、ここで謂われる「童子」すなわち子供というものも、我々が現実世界で知る子供ではなく、ある種の「理想化」された、いってみれば新約聖書で謂われる「幼な子」の如きものとでも捉えるべきだろう。そしてその上で、上記の一文の所謂「童子の不死性」についても、考えてみるべきだろう。

 すなわちそれは、「子供」である、というよりは、「大人に非ざる者」ということではないか。「理想化」、あるいは「神格化」された存在である。

 ただ、逆にいうならばそれは「非現実的」というネガティブな意味を含むだろう。あくまでも「童子」と呼ばれることにはそれなりの意味がある。その「理想像」がもつのは、無知故の平和、無知故の充足、そして無知故の不死性、である。未熟、という言葉がきっと一番ぴったりくるだろう。

 つまり、「無知」の内に安住する者への憧れが、上記の一文なのである。こう考えると、これはひとつの皮肉と読むこともできるだろう。誰にあてた皮肉かといえば、無論、子供たち、ではない。成人してもなお「死については何も知らない」我々現代人に、である。

 そう、私には、上記の一文は、「死」については何も想いもせず、ただ生きることにばかり夢中になる我々現代人は、知るのはただ「生き方」ばかりで、本当は「生」についてもまた何も知らないのだと、そういっているようにも想われる。

 最も若い世代を導き育てつつ、最も古い世代を見送る役割を担う、人生の折り返し地点辺りにいる我々中間世代。学ぶべきものはまだまだたくさんあり、そして、学び得るものも周囲にはたくさんあるようである。

 今回の「人生を凌ぐ一行」が読める本。



ヒュペーリオン―希臘の世捨人 (岩波文庫)ヒュペーリオン―希臘の世捨人 (岩波文庫)
(1997/03)
ヘルデルリーン

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 ただ、この版は残念ながら絶版なので、現在手に入れやすいのはこちら。



ヒュペーリオン ギリシアの隠者 (ちくま文庫)ヒュペーリオン ギリシアの隠者 (ちくま文庫)
(2010/07/07)
ヘルダーリン

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 こちらのほうが文体も新しく、読みやすいだろう。私は、以前にも書いた通り、上の岩波文庫版を愛読しているので、そちらの方がよいのだけれど。

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