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『社会契約論』

社会契約論 (岩波文庫)社会契約論 (岩波文庫)
(1954/12/25)
J.J. ルソー

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義務としての自由

 この本を知らない人はいないだろう。何せ中学校の歴史の教科書に出てくるほどの本なのだから。この書物が『人間不平等起源論』と並んで、フランス革命の呼び水となり、思想的骨格となった、というふうな感じで教科書には書かれていたような憶えがあるが、実際はどうなのだろう。

 私もごく若い頃には、それを信じていた。教科書のいうことを鵜呑みにして、というばかりではなく、ひとりの天才的人物の著作が、人間を文字通り革命的に進歩させる、という文化英雄的な力をもち得るのだということを、読書好きな少年らしく無邪気に信じていたのだ。

 実際、この書物があの革命に全く影響を与えなかったということはなかっただろう。しかし、この書物がなければ革命も起きなかった、などということもなかったはずだ。王制という前時代的な国家形態は、市民階級の台頭によってすでに限界にきており、市民革命への機運というものは、もうフランスに盛り上がりつつあったのだろう。

 この書物は、そうした時代変化の流れのなかから生まれ、そしてその流れに、形と論理的方向性を与えることで、実際の革命が起こるための大きな助力になったと、こんな形ではなかったかと今では考えている。

 大体、教科書の記述には、なんだか無理があった、というか不自然さがあった。フランス革命を、絶対君主の支配という軛に対する、民衆と民主主義の理想との勝利だと位置づけるためには、なるほど『社会契約論』はまさしくその論理的裏付けたるに相応しい書物だが、しかしその民主主義革命の後に、なぜか突発的に、ナポレオンが登場するのだ。

 バスティーユ襲撃に始まる革命が、なぜナポレオンの帝政につながるのか、中学校の教科書は、ほとんどなにも語っていない。恐怖政治だのクーデターだののスッタモンダは、フランス革命を神聖視する民主主義教育には相応しくないと、まあ、そんなところだろう。しかしこれでは、もうひとつの歴史的大事件であるナポレオンの登場に、なんの説明も与えられない。これではほとんど歴史の改竄に近い。嘘は語らずとも、語るべきを語らないのであれば、この場合悪質な情報操作といわれてもしかたがないのではないか。

 そして、こんな形で革命のバイブルにされてしまった『社会契約論』こそいい迷惑だ。フランス革命に興味を抱いた中学生が、自分で詳しくこれを調べ、あのほとんど内乱といっていいほどの大混乱を知ったならば、その革命をリードしたと教科書が語る『社会契約論』までもが、なんだか胡散臭くみえてしまいかねない。

 しかしまあ、中学校の教科書で、歴史と書物との関係を学ぼう、というほうが無茶な話なのだろう。そして、その書物の何たるかを知るに、歴史的背景を知ることもさることながら、やはり実際に読んでみること以上の方法はあり得ないだろう。

 と、いうことで実際に読んでみた、のは、もう遥か昔のことだ。もう、いつ読んだのか、どころか、最後までちゃんと読んだのかすら忘れてしまっていた。そこで、今回もう一度読み返してみた、というところだ。

 もしも我々が、民主主義というものの正当性を、単に他の政体との比較や、あるいはただ、それが正しいに決まっている、というようなミもフタもない決めつけによるのではなく、論理的に証明し得るものだとし、そしてその論拠の全てなり一部なりをこの書物に求めようとするならば、今現在の我が国の民主主義というものは、どうも、かなり不完全、というか、ほとんど似非民主主義じゃないかといわれても仕方ないような、そんな有様だとも思えてくる。

 それぐらいに、ルソーの所謂社会契約に基づく民主主義国家というものは、その構成員に、様々な点で高くを、そして多くを求める。例えば、次の一文。

「専制君主は彼の臣民に社会の安寧を確保する、というひともいるであろう。いかにも。しかし、彼の野心が臣民たちに招きよせる戦争や、彼のあくことなき貪婪や、彼の大臣どもの無理難題が、臣民たちの不和がつくり出す以上の苦しみを与えるとしたならば、臣民たちは何のうるところがあろう? もし、この安寧そのものが臣民たちの悲惨の一つであるならば、彼らは何のうるところがあるだろう? 人は牢獄のなかでも安らかに暮らせる。だからといって、牢獄が快適だといえるか?」(第一編 第四章)

 ルソーのいう「社会契約」とは、人民の自由を前提とし、そして人民の自由を保障するものとされている。だからこそ、この書物は民主主義の論拠ともいい得るのだが、しかし、大切なのは、その人民が自由を欲しているか否か、というところだろう。

 人は自由を求めるか。この問いには、我々が普通思うほどには、あるいはルソーがいうほどには、簡単に答えは出せないのではないだろうか。なぜなら自由とは、心細く、不安定なものだからだ。ある専制君主がもし、主権の譲渡と引き換えに、生活の安寧の絶対的保証を約束してくれたとき、人々は彼の提案を必ず拒絶するといえるだろうか。

 その君主が良き君主であったなら、その国の人民の生活をより善く守ってくれるのは、全ての人民の意見が一致することは決してあり得ない民主主義政治よりも、間違いなく、明確で統一された意思をもった専制政治の方だろう。つまりは賢人統治だ。

 勿論専制政治は、独裁者による最悪の恐怖政治に陥る可能性を常に孕む。しかし一方において、常に不安定で、衆愚政治に陥る危険を孕むのが民主主義だ。そして実際、民主主義国家だからといて、その全ての国が、よく治められ、全国民の幸福を実現している訳ではないことは、現在の世界情勢をざっと眺めてみただけでも明らかだろう。

 さらにいうならば、社会情勢が不安定になると、人々は手厚い社会保障や雇用の安定、そして政治家の強いリーダーシップなどを強く求めるようになるものだ。例えば、先に少し触れた革命の混乱からのナポレオンの台頭などは、まさに、人民というもののこんな心理、つまりは政治的自由よりも平和で安定した生活を求める傾向を、証明していないだろうか。

 政治的に自由である、ということは即ち、様々な社会的問題を、自分たちの力で、自分たちの責任において解決する、ということだ。そのために人々は、単にその国の人民であるというだけで、何の金銭的報酬を与えられる訳でもなく、大きな責務を負うことになるし、その責務を果たすために、多くを学ぶ必要も生まれる訳だ。

 ならば「その道に長けた人物」に、政治のことなど任せてしまって、自分の日々の生活の方に力をそそぎたいと人々が考えたとしても、無理もないことだし、自然なことだともいえるのではないだろうか。

 しかしそれでもなお自由を求める人々だけが、少なくともルソーのいうところの民主主義国家の人民たるに相応しいのだ。換言するならば、人民が政治的に自由である権利は、その人民が、いかなる生活の安寧を保証された形での隷属よりも、自由を欲するものである限りにおいて、正当な権利といえる、ということだ。

 私はここに、ヨーロッパ的精神にとっての、自由というものの尊さ、というものを感じる。ルソーは他にも、民主的国家の存立の条件として、私有財産の大きさについてのだとか、立法者のほとんど神懸かり的な能力だとか、もう民主主義国家なんてただの空想上の理想国家にすぎないのでは、と思われるほどに厳しいものを幾つも挙げているが、その大前提、というべきものが、この自由を尊ぶ精神、なのだろうと私には思われる。

 勿論、ヨーロッパ的なものが、なんでもかんでも我々よりも優っている、という訳では全くない。しかし、我々日本人は、自由のために蜂起し、自ら血を流して民主主義国家をうち立てたわけではない。この点については、やはり素直に市民革命の歴史を持つ国々を尊重すべきではないだろうか(アジアのフィリピンもそうだが)。自由の尊さは、きっと彼らの方が重く感じているはずだろうから。

 どんな政体でもそうであるように、民主主義国家にも弱点があり、限界がある。しかしそれらは、政治的に自由な人民に主権がある民主国家である以上、本来その構成員全員の責任において、全員の努力によって、克服されるべきものなのだと、この有名な書物は、そんなことを我々に訴えていると私には思える。そうでなくては、「自由な人民」である資格はないのだ、と。そして自由とは、権利であるよりはむしろ義務であると。

 それは理想論だろうか。確かにそうだ。だが、理想とは目的であり、目的があってこそ、方向も定まるというものだ。生活上の雑事に振り回され、一体何がどこへ向かっているやらわからなくなる日々を送るなかにあって、たまにはこの『社会契約論』でも読んで、理想国家といものの姿に想いを馳せてみるのも、決して無駄ではないと思うが、どうだろうか。

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