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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

旅への憧れ —ボードレール

 この時期になると、かつてオートバイで長旅をした、夏の北海道のことを思い出す、なんてことを、以前も書いたことがある。これはもう、毎年のことだ。どうしても、私の暮らす静岡の晩春の気候が、私をしてかの地の夏を思わせるのである。

 と、いうところで、「彼の地への憧れ」を詠った詩、というと、ゲーテのミニヨンの歌を思い出すのであるが、これは最近とりあげたことがあったので、もうひとつの「憧れの歌」を、今回はご紹介させて頂く。


  かしこには、ただ 序次(ととのひ)と 美と、
  榮耀(えいえう)と 靜寂(しじま)と 快樂(けらく)。
   
   (鈴木信太郎 訳)


 ボードレール、『悪の華』、マリー・ドーブラン詩編のひとつ、『旅のいざなひ』の一節。これは、私が一番最初にこの詩を読んだ、岩波文庫版のものであるが、手元にはあとふたつほど、別訳があるので、ついでに、そちらも。


  彼処(かしこ)では、すべてがただ秩序(ととのい)と美しさ、
  奢侈(おごり)、静けさ、そして逸楽。

   (阿部良雄 訳。ちくま文庫)


  ああ、かしこ、かの国にては、ものみなは、
  秩序と美、豪奢(おごり)、静けさ、はた快楽(けらく)。

   (堀口大学 訳。 新潮文庫)


 それぞれ、私は好きである。三訳とも、日本語としての美しさをきちんともっているのがよいと思う。ただ、一番親しんでいるのは、やはり最初に読んだ鈴木信太郎訳ではある。ちなみに、これが原文。
 

 Là, tout n'est qu'ordre et beauté,

 Luxe, calme et volupté.



 このボードレールの詩と、ゲーテのミニヨンの歌。どちらもが、「彼方への憧れ」を詠った詩でありながら、決定的に違うのは、ミニヨンの歌が、異国の地から「自分が本来あるべき場所」を想い、詠われているのに対し、ボードレールの詩は、パリという自身に宿命づけられた地から、いわば「理想郷」への憧れを詠っている点にある、と私は思っている。

 実は、この詩で詠われている「かしこ」とは、オランダである、とされている。フランスからオランダであるから、そんなに遠くもなく、太古のアルカディアか何かのように詩に歌い上げるほどのこともないではないか、という気もする。少なくとも、幼少の身で異国の地に置かれながら、アルプス山脈の彼方の陽のあたる国であるイタリアに焦がれる少女ミニヨンよりは、ボードレールのほうが条件的には恵まれていそうだ。

 しかし残念ながら、ボードレールは立派な成人男性とも、常識的な市民ともいい難い男であった。若い頃の放蕩による散財で、準禁治産者として法定後見人をつけられた、社会的に自立したとは到底いえない男であり、しかも明らかに母親依存から抜け出せない所謂「マザコン男」で、精神的にも自律しているとはいい難かった。その上に最も重要なことは、彼の詩の世界というものは、パリという街とわかち難く強く結びついていた。

 ようは、ボードレールは実質的に、オランダどころかフランスの国内旅行でさえ、ほとんど不可能な状態の生活をしていたのである。実際その表現においても、オレンジやレモンの花、月桂樹などに彩られたミニヨンの歌の即物的な具体性に比して、ボードレールの詩の表現は明らかに抽象的であり、それを象徴するかのような上記の一節においては、それはもう理念的というべきものですらある。

 この一節についてアンドレ・ジッドがいっていることは、このことをよく説明してくれていると思う。岩波文庫版の注より。



 私はここに藝術作品の完璧な定義をみる。(中略) 私はこれらの語をそのままに、一美學論の各章の表題にしてみたいと思うくらいだ。

 第一章 序次 (論理、各部分の合理的配列)
 第二章 美  (作品の線、躍動、輪郭)
 第三章 榮耀 (規律のある豊饒)
 第四章 靜寂 (騒擾の鎮静)
 第五章 快樂 (官能性、素材の麗しい風情、魅力)




 どうやらボードレールが焦がれているのは、オランダどころか詩神の国に等しいような、この世のものならぬ超越的な場所であるようだ。「Any where out of the world」、この世の他へならばどこへでも、と、後の散文詩に詠ったボードレールである。

 で、顧みて私自身の「憧れ」はどうかというと、ミニヨン型、つまり「本来的な自分への憧憬」というよりは、やはりボードレール型、すなわち「不完全で厭わしい現実ではない、理想の世界に生きる全く別の人生を生きる自分への憧憬」のほうに近いようだ。

 かつて旅した北海道。800kmの彼方、とはいえ国内であるし、再びそこへ赴くことは極めて現実的、ではあるのかもしれない。しかし私にとっての北海道とは、あくまでも「二十一歳の自分が旅をした1993年の8月の北海道」、なのである。

 換言するならば、それは今現在、北海道民のみなさんが暮らす2014年の北海道ではない、のみならず、そこを旅し、それを感受するべき私自身もまた、今の四十過ぎのオッサンではなく、二十一歳の若者であったかつての私である、ということである。すなわち、客体としての世界も、私というそれの認識主体も、唯一無二の現実たる今現在のこの世界の有り様とは全く違う「別世界」だ、ということである。

 それは二度目の旅のときに、すでに思い知らされた現実だった。1997年、私は再び北海道を旅した。他でもない、最初の旅のことが忘れられず、もう一度、あの「素晴らしい日々」を生きるために。だが、それは不可能だった。その旅はその旅なりの素晴らしさがあった。しかしやはり、それは最初の旅とは違った。北海道はすでに1997年の北海道であり、そこを旅する私もすでに二十五歳の私であった。求めていたものは、得られなかったのである。

 そう、私が毎年の春風の中に想う北海道とは、もうどうあがいても行くことのできない「理想郷」なのである。だから、この時期の私の脳裏に去来するのは、ミニヨンの歌ではなく、やはり、ボードレールなのである。

 今回の「人生を凌ぐ一行」を読める本。せっかく三つの訳を読んだので、三冊、ご紹介。


悪の華 (岩波文庫 赤 537-1)悪の華 (岩波文庫 赤 537-1)
(1961/04/05)
ボオドレール

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ボードレール全詩集〈1〉悪の華、漂着物、新・悪の華 (ちくま文庫)ボードレール全詩集〈1〉悪の華、漂着物、新・悪の華 (ちくま文庫)
(1998/04)
シャルル ボードレール

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悪の華 (新潮文庫)悪の華 (新潮文庫)
(1953/11/03)
ボードレール

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 芥川の言葉を俟つまでもなく、「ボードレールの一行」は、私なんぞの平々凡々たる人生など易々と凌駕する。だが私も、私なりに生きている。なんでまた私は、その1993年の旅をここまで理想化してしまったのか。そのあたりのことについて、近いうちに考えてみようと思う。私のその平々凡々な人生にも、少しは、皆さんの気晴らしや暇つぶしぐらいにはなりそうなことが含まれている、かもしれない。


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『ニーチェ・コントラ・ボードレール』 道躰章弘 「詩の受肉」
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コメント


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こんばんは、いつも楽しく拝見しています。

もう二度と訪れない空気感、良く判ります。

その風が吹くと「あ、また来た」と思います。
自分の中では全く違うシチュエーションで吹いた気持ち良く懐かしく親密な風に似た物を感じる時がある気がします。

新しいんだけど良く似た物という感じでしょうか。

もう訪れる事は出来なくとも、思い出せるだけで半分訪れているみたいで、思い出す行為にしかない感慨がありますね。
 

sixpence | URL | 2014-07-01(Tue)19:40 [編集]


Re: sixpenceさん

sixpenceさん、こんにちは。

風というものは不思議なものです。「ゆく川の流れ」と同じく、吹く風は常に新しく、吹き去った風は二度と再び戻らないのに、おっしゃる通りまるで過去からやってきたかのように思い出に満たされていることがあります。

ときには、見知らぬ風のなかに、無理にでも既知のにおいを嗅ぎ分けようと試みてみたり。

過去に帰ることはできませんが、せめて、そんな思い出のにおいのする風に出会ったときには、それを逃さないような感性だけは、殺さずにいたいものですね。

コメント、ありがとうございました。
またおいでください。

静磨 | URL | 2014-07-02(Wed)17:48 [編集]