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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『地下室の手記』

地下室の手記 (新潮文庫)地下室の手記 (新潮文庫)
(1969/12)
ドストエフスキー

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過剰な自意識をごまかす現代的方策

 この本を最初に読んだのがいつで、今回で何度目なのか、もうわからない。ただ、読むたびにいつも、何だか嫌な気持ちにさせられる。つまり、この本はそれだけ優れた現代文学だということなのだと、私は理解している。

 自意識の過剰。私はこれこそが、現代文学というものを特徴づける大きな主題だと思っている。逆にいうならば、この主題に触れようとしないものは、現代文学の名に値しないと思っている、ということだ。なぜか。

 端的にいってしまうならば、つまりは「Cogito, ergo sum」、あの有名な「我思う、故に我あり」なのだ。本当に、すごい言葉だと思う。それは人間が、地上で唯一、自らを「思う」ことによって自らの存在を証明し得る存在であることの宣言であり、神々だとか、自然だとかいう、太古的支配者に対する凱歌である。

 そう、デカルトは確かに、近代以降の人間というものを、この「コギト」によって正確に位置づけた。人間の精神は、太古的、集合的なものから離れ、自我をみつめ、自我から発し、自我へと還る路を見出し、歩き始めた。

 しかしそれはまた、人間が地上で唯一、自らを「思う」ことによってしか、自身の存在を確かめられない、ひどく孤独な生き物になってしまった事をも同時に意味した。近代における「自我の発見の喜び」は、やがて、肥大化し、しかも寄る辺のない自我、という「現代的病理」となった。

 この「現代的病理」との対決こそが、現代文学だと私は考える。そしてこの病理に、あまりにも誠実に、真摯に、馬鹿正直にぶつかっているのが、この『地下室』、という訳だ。私がこの本を読んで、「嫌な気分になる」のは、この本が、我々が何とか触れずに済ませてしまいたい、しかしどうしても逃れられない自分の暗黒面を、この主人公の姿をもって手加減なくさらけ出してしまうからなのだ。
 
 この物語の主人公の言葉、「あまりに意識しすぎるのは、病気である。正真正銘の完全な病気である。」。これが全てだ。この自意識の過剰によって、どうにも身動きが取れず、右往左往し、結果、地下室にこもる他はなくなってしまう。これがこの物語の全てあるし、そしてこれこそが、「現代的病理」の姿なのだ。

 ボードレールはその詩のなかで、酒にであろうと、詩にであろうと、徳にであろうと、何にであってもいいから、とにかく常に「酔って」いろ、といった。これもまた同じく、過剰な自意識からの逃避願望だと、私は解する。覚めた自意識は、我々をただ押しつぶすばかりで、生きる、ということをさせてくれなくなる。そう、我々の主人公のように、だ。

 時流に乗って出世しようという友人がいれば、素直に祝福するどころか、素直に羨み嫉妬することすらできず、ただ暴走する自尊心にひきずりまわされ、半狂乱の自己嫌悪に終わるばかり。そして何よりも、愛することができない。ただもう、自分をも相手をも苦しめ、傷つけ、取り返しのつかない事態に自分を追い込み、そして、あとは「地下室」に逃げ込み、恥辱と後悔に我が身を震わせる。

 つまり彼は、「市民的価値観」を信じることも、恋の酩酊に身を任せることも、逆にそれを疑うことも、拒絶することも、とにかく自意識というものに邪魔されてできないのだ。勿論、彼は極端な人間だ。しかし我々が彼をみて醜悪だと思うとしたら、それは他でもない、現代人である我々自身の醜悪な部分が、極端に強調された姿だからだ。

 それが、デカルトの「コギト」と共に、太古的集合的なもの、つまりその象徴である神というものと決別する路を選び、そして「神の死」を宣言するまでに至った我々現代人の宿命というべきだろう。思考の迷宮に入り込み、抜け出せなくなったその姿こそは。

 かつては、神々が人間を導いてくれた。いってみれば人間は神々とその律法に、即ち伝統だとか習慣だとかに、かわりに考えてもらっていたのだ。神々は人間を戒律によって縛りつけるかわりに、人間を迷わないように導いてくれていた。人間はその神々の束縛を厭い、自ら歩むことを選んだ。人間は自由を手に入れた。しかし同時に、自分が荒野の真ん中に、牧人のない羊の群れのように、心細くたたずんでいることをも見出した。

 神々に歯向かい、荒野に出たからには、狼になるか、あるいは自ら神になる以外に路はなかった。近代人は「理性」が、「我思う」ことが神々のかわりになると信じた。しかし結果をみるならば、「理性」は神々にはなれなかったのだ。19世紀の真の知識人達、ボードレールやこのドストエフスキー、そしてニーチェ等は、いち早くそれに気づいていた。そして生まれたのがこの「地下室の住人」なのだ。

 20世紀に入り、二度の世界大戦、アウシュビッツと原子爆弾までを経験し終えてようやく、我々も「理性の無力さ」に気づき始めた。しかし我々は、その寄る辺なき自我、出口なき自意識を、手近なものでごまかしてしまう。大きなところでは東西冷戦を形作ったふたつのイデオロギーだとか、卑近なところでは勤め先での役職など、とにかく、身の支えとなりそうなものならば何にでもしがみつき、自身の自意識に宿命づけられた孤独を紛らわそうとする。

 そう、何にでもだ。市場原理、新興宗教、ファッション雑誌の記事、何とかいうアメリカの経済学者の御説、新築一戸建て、新しいメディアとしてのインターネット、夢の年収一千万円、テレビの情報番組で紹介された何とやら、国粋主義、趣味人になること、今だからこその社会主義、やっぱり家族が一番、自然環境保護、実践的で即戦力になれる知識、何でもいい、とにかく、この迷子の不安に押しつぶされそうな自意識を支えてくれそうなものならば、すぐにとびつき、しがみつき、ほっと胸を撫で下ろす。

 いや、時代の流れを見極め、そこで生きていく方策を見出していくことは決して悪いことでも無駄なことでもない。我々は誰でも、生きていこうと思うならば環境に適応しなければならないし、そのためには、あたかもデカルトの「暫定的道徳」の如く、何かを受け入れ、時には妥協し、小手先の方便であると知りながらもある価値観に従うことは、どうしても必要なことだからだ。そしてボードレールのいう通り、そうしたものに「酔って」いなければ、我々は現代社会のなかで生活することなどできないのかもしれない。

 しかし勿論、それが根本的な解決に、つまり精神の荒野に新しい自意識の居場所を自ら造り上げることになるわけではなく、逆に、まるで沈みゆくタイタニック号から海に投げ出された人たちのように、皆が皆、我先にと浮き袋がわりになりそうなものを奪い合い、しがみつこうとするものだから、混乱はますますひどくなるばかりなのだ。

 そして我々の荒野はますます荒んでいく。我利我利の生存競争だけが続いていく。それでよい、というならば、まあ、このまま進むとしよう。しかし疑うことを忘れない、真に現代的というべき批判的精神が、そこに何か疑問を感じるならば、やはり、この「地下室の住人」から眼をそらすべきではないだろう。そして忘れるべきでないのは、彼の醜悪さは、他でもない、彼の精神が、我々よりも誠実で、優れているがゆえのものだ、ということだ。

 主人公は、我々読者に問いかける。
 「安っぽい幸福と、高められた苦悩と、どちらがいいか?」
 我々はどう答えるべきだろうか。


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コメント


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先日、本書を読了しました。
なるほど、嫌悪感満載でしたね(苦笑)
単調な筋書きではありましたが、
哲学的な深みはありました。

絶対的な宗教や『善』への批判のようでありながら、
絶対的な『善』への回帰を促している作品であると
いえます。ニーチェの手法に少し似ています。

自分にとっても、
何回も、読み直す文学作品の
ひとつになりそうですね。

kappamama | URL | 2012-03-17(Sat)20:22 [編集]


Re: kappamama さん

kappamama さん、こんにちは。
古い記事を読んでいただいて、ありがとうございます。

これは、ドストエフスキーにしてはかなり小さい作品ですが、確かに、「ドストエフスキーを解く鍵」というに相応しいと思っています。
ただ、私はこの作品に限らず、この作家のものを研究しよう、というようなつもりはないのですが、ときどき、読みたくなるのです。毎度嫌な気がするんですけどもね(笑)
一個の文学作品として、それだけ優れたものだということだと、理解しております。

やはり、すごいですねえ、ドストエフスキーは(笑)
それでは。

静磨 | URL | 2012-03-18(Sun)22:25 [編集]