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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『読んでから死ね!名著名作』

読んでから死ね!名著名作読んでから死ね!名著名作
(2006/07/28)
久我 勝利

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未読の本

先日、本屋に行き、驚いた。本のバーゲンセール、などというコーナーがあったのだ。新品の本が、格安で売られていた。そこに並んでいるものは、まあ、売れ行きのよい本ではないことは確かだろうが、私はベストセラーの新刊本には(意地でも)見向きもしないようなアマノジャクなので、店頭の平積みの山よりは、そういう棚に興味を惹かれる。

 そのバーゲンセールのなかに、この本をみつけた。定価1500円が、たったの580円とお買い得。ぱらぱらと目次を眺めて、ちょっと面白そうだったので買ってしまった。初版発行が2006年とあるから、「名作や名著を中心に」というこのブログのテーマからは外れるような気もするが、しかし、書名にずばり「名著名作」と入ってるし、その内容も、ようするに名著名作との付き合い方が書かれている訳で、無理矢理、よし、ということで、今回はこれをとりあげてしまうことにする。ただ、ジャンルは「雑記」にしてしまいます。

 ざっと読んだところの感想をいわせていただけば、わざわざ活字にするほどのこともないかな、といったところか。それこそ、読書関連のブログを探してみれば、すぐにみつけられそうなくらいのことしか書かれていない。そうした意味では、580円でも高いような気がする。しかし、なんだかこの著者、私に似ているのだ。

 読書には、ひとそれぞれのやり方、というものがある。そのやり方が、どうも私に似ている。だから、何というか、「読書環境」とでもいったものも、自然と似てきてしまうようだ。著者は、私よりもかなり年配の方ようなので、私よりもたくさん読んでいるし、蔵書も多いようだが、その本との関係性が、多分この先、私もこの著者と同じようになるんだろうな、と思えるのだ。

 例えば、「自分の本棚を見て、これが死ぬまでに全部読み切れるだろうか、と暗澹たる気持ちになった。」、という一文。これは多分、新刊本よりも、名著名作を好む読書家にはよくあるパターンなのかもしれない。書店で、「いつか読むだろう」と思って買うのだが、その「いつか」がなかなか来ないのだ。

 つまり、名著名作好きの読書家にとっては、「これは読んでおかなくちゃ」という本が多数存在するのだ。これは私の場合だが、これぐらい読んでないと、とか、これは有名だから、とか、そういう理由で買ってしまう本があり、それがどんどんたまっていく。なぜなら、そういう本と同時に、そのときに興味をもち、すぐにでも読みたい、という本もやはり買ってくるからだ。

 で、当然すぐ読みたい本から読み始める。それを読み終えるころには、また別の興味がわいてくるので、その興味にかなった本を探しに出かけてしまう。「いつか」は来ず、結果書棚には、いまだ手垢のつかない世界的名著がずらりと並ぶことになる。特に、たっぷりと時間をかけなければ読み通せない大作の類いが、そういう運命を辿ることになりやすい。

 この本の著者は、そういう「積ん読本」の典型例として、プルーストの『失われた時を求めて』を挙げる。著者はこの超大作を購入してから、なんと30年後に、約半年かけてようやく読み終えたのだそうだが、これは私には笑えない話だ。なにを隠そう、わたしの本棚にも、ちくま文庫版の『失われた時を求めて』が全十巻、ずらりと並んでホコリをかぶっているのだ。

 もちろんこれだけではない。岩波文庫版の『千一夜物語』も、最初の何冊かしか読んでいないし、『ローマ帝国衰亡史』も手つかず、『マハーバーラタ』も読んでいないし、『日本書紀』も、という具合で、いくらでもある。

 未読の本は、こういう大作以外にもかなりある。哲学書を読み始めるには、やはりかなりのモチベーションが必要で、後回しにされやすい。今、ざっと眼につくものを挙げてみると、プラトンの『法律』、スピノザの『国家論』、ハイデガーの『ヘルダーリンの詩作の解明』、等々、なんだか面白そうだが面倒くさそうなものがズラリ、だ。だからといって文学作品はそうでない、という訳でもない。クライスト、ノヴァーリス、フローベール、デュマ、ジイドなどなど、読んだら面白いのはわかっている作家のものなのに、どうして読まないのか、我が事ながら不可解だ。

 その一方において、何度も読んでいる本も少なくないのだ。太宰は新潮文庫のものは全部そろっているが、それを今までに最低三回はまとめて読み返しているはずだ。芥川も、持っている本は全て何度かは読み、時々拾い読みもしている。サン=テグジュペリの『人間の土地』も2回は通読しているし、大作では、トールキンの『指輪物語』は3回読んだ。他には、鴎外訳のアンデルセンの『即興詩人』、ヘッセの大半の作品、ドストエフスキーの『罪と罰』等々、みな2回以上読んだ。

 こうした具合だから、やはり私も、この著者と同じく、意識的に「蔵書を全て読もう」というつもりで、計画的に読んでいくべきなのかもしれない。本当に、これぐらいは「読んでから死ね」と、自分にいいたくなるような本がたくさんあるのだから。

 そう、たくさんだ。しかし一体、私は何冊の本を持っているのだろう。数えたこともないが、数千冊ぐらい、一万冊にはまさかとどかないだろう、とは思っているが、どうだろう。文庫本がとにかく多いので、もしかしたら、思った以上にたくさんあるのかもしれない。

 一度、わが愚妻が卒業した、とある国立大学の図書館に行ったことがあったが、少なくとも岩波文庫の赤帯に限っていえば、私の書棚の方が、大学のものよりもラインナップが充実していた。岩波文庫の赤帯、といえば、どれほどの価値ある名著名作がそろっているのか、もう自ずと明らか、というものだ。本当に、積んでおくなんてもったいない話なのだ。

 まだ読んだことのないものは勿論、ごく若い頃に背伸びして読んで、さっぱりわからないままになっているものも、これからちゃんと読んでいきたいと思っている。こうしたブログを続けることも、その目的達成のための一助にでもなるとよいのだけれど。

 で、この580円の本、本当にこれから、私が性根をいれかえてちゃんと名作に取り組むことになったなら、そのときは、きっと定価1500円以上の価値をもつ本になることだろう。本というものは、読み手によってもその価値が変わる、ということだ。さすがの世界的名著でも、ただ書棚に並んでいるだけではカビの苗床にしかならないものなのだから。


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