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『自殺について』

自殺について 他四篇 (岩波文庫)自殺について 他四篇 (岩波文庫)
(1979/04)
ショウペンハウエル

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自殺の合理性

 この本は、ショウペンハウアの『パレルガ・ウント・パラリポーメナ』の一部を訳出したものだ。この哲学者の書いたものは、その主著である『意志と表象としての世界』に展開される彼の哲学体系を、一通り理解していないことにはどうも理解しづらいという難点がある。

 まあ、この『パレルガ・・・』というのが、訳者が解説してくれているとおり、翻訳すると「付録と補遺」といった意味であり、ようするに主著の「おまけ」みたいなものなので、それも仕方がないのではあるが。

 私はこの哲学者が好きだ。「世界は私の表象である」という、最も極端な主観主義を第一命題とするこの人の哲学体系は、極論ゆえの傲岸さがある一方において、極論ゆえの単純明快さがあって面白い。文章も、上手なたとえ話があちこちにあって、あまり哲学書を読んでいるという堅苦しさを感じないで読める。また、好き嫌いのはっきりした人で、嫌いな対象にぶつけられる皮肉たっぷりの毒舌も、読者を楽しませてくれる。

 そしてショウペンハウアといえば、徹底した厭世主義で有名で、「人生なんてものは始めてしまったのがそもそも大きな間違いだ」というのが彼の基本姿勢なのだが、その彼の哲学が、自殺を否定しているというのもまた、興味深いところだ。

 この点について詳述することは、つまり彼の形而上学について細かく説明することになってしまうので割愛するが、まあ、ざっくりいってしまうと、「生きんとする意志」を否定することを、ひとつの理想、というか目的として挙げるのが彼の哲学なのだが、自殺はその「生きんとする意志の否定」にはならない、ということになる、そうだ。

 だた彼は哲学者らしく、論拠なく自殺を否定するような姿勢をも否定する。つまり、生きるということは苦しみの連続に過ぎない、とする彼としては、ただ卑怯だだとか、不正だだとか、まともじゃないだとか、そういう感覚的、感情的嫌悪だけで自殺を否定するな、といいたいわけだ。

 彼にいわせれば、「自殺はこの悲哀の世界からの真実の救済の代わりに、単なる仮象的な救済を差出すことによって、最高の倫理的目標への到達に反抗することになる」からダメだ、ということになるらしいのだが、ナンノコッチャである。同じく人生の苦しさからオサラバできるのなら何でもよさそうなものだが、さすがに哲学者となると、いろいろと注文が多い。

 そこで彼の教説に対抗して、という訳ではないが、自殺を合理的に肯定することはできないか、少し考えてみたい。ひとことで自殺、といっても様々ある訳で、実際に自殺をした人たちは決して少なくはなく、そしてそういう人たちは、合理的か否かはおくとしても、とにかく自殺という行為を肯定する、という結論を得た訳だ。

 それは確かに、軽視すべきでない結論だろう。それに賛同するにせよしないにせよ、こうして自殺せずに生きている我々の立場に、真っ向から対立する、小さからざる一群がたしかに存在する以上、やはり一度は考えてみるべきなのだと私は思う。

 ここは主に文学作品を扱うブログなので、一応、その守備範囲でみまわしてみると、やはり眼につくのは、あの有名どころだろう。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』だ。主人公の自殺に終わるこの物語だが、そのなかに、自殺について議論する場面があったのを、憶えておいでだろうか。

 これはその物語の結末に、正当性よりは必然性を与えるために、ゲーテが挿入したエピソードだ。だから、自殺の合理的な正当化よりはむしろ、その性格に相応しい主人公の考え方を披露する演出に主眼がおかれており、結果、ウェルテルの感動しやすい性質そのままの、「苦しみが耐え難いのだから自殺も仕方がない」という、合理的であるよりは大いに感情的な主張になっている。

 勿論合理的であることばかりが正当性を証明する訳ではないけれど、今回は一応哲学書を扱う回なので、これは充分でない、ということにしよう。ひとつだけ、ゲーテはあの有名な、ハーテムとズライカの「死して成れ」の詩をかいた人だ、ということを付記しておく。

 では、これはどうだろう。ヘルマン・ヘッセの『荒野のおおかみ』。これのなかに、「荒野のおおかみについての論文」というものがでてくるが、そこで、「自殺者」というものが語られる。ただヘッセは、ここで「自殺は正当か否か」という議論をしている訳ではなく、「自殺者」と呼ばれる人間について語っているだけだ。 

 で、その「自殺者」とよばれる人間は、「個体化は罪であるという感情に襲われた人間」で、人生の目的は「自己の解体、母への復帰、神への復帰、全体への復帰」と考える、と定義されているが、これはほとんどショウペンハウア主義者といってしまっていいだろう。

 そして彼らは、自殺という手段を、「いつでも用意されている非常口」だと考えている、とされる。実際に自殺するか否かは別として、常にそれはそこにあると意識されているということだ。つまりそれは、選択肢のひとつとして少なくとも肯定されている訳で、私はここに注目したい。

 人生というものは、絶えざる選択の連続から成り立っている、と私は考える。我々は日々何らかの選択をしながら、自分の進むべき方向を決めている。選択肢が多ければ、人は自由を感じるだろうし、選択肢が少ないか、あるいはひとつしかなければ、人は不自由で抑圧されているように感じるだろう。

 夕飯を何にするのかだの、何時に起きるかだのといった些細な日常的なものから、どの大学に進むのかだの、どの会社に勤めるかだの、どの異性と結婚するのかだのといった、人生の大きな方向を定めかねない重大なものに至るまで、選択の機会というものには、いつでも、どこででも我々は遭遇する。その選択肢のなかに、自殺を含めるということ。Aか、Bか、それとも自殺か。こういう形での自殺の肯定に、合理性はみとめられるだろうか。

 確かにこれでは、自殺それ自体の正当性の合理的な説明にはなってはいない。所謂「自殺者」であるかどうかは、ほとんどその人の気質によるところが大きいからだ。しかし、この「選択肢に自殺を含む」という姿勢、についてはどうだろうか。この姿勢には、合理的な正当性があるだろうか。

 その合理性、というものが、形而上学的に説明がつくことをいうのだとしたら、勿論正当性の証明などは簡単にはできないだろう。しかし、それが実際に生きていくうえでの、ある種の合目的性と合致することによって、合理的だといいうるものであるとするならば、私はこの姿勢の正当性を信じる、といいたい。

 Aか、Bか、それとも自殺か。こういう形での選択肢からAなりBなりを選ぶこととは、選択肢に自殺を含まない場合と、何が違うのだろうか。後者が、単に生き方を選んだに過ぎないのに対し、前者にあっては、どんな形であれ死ぬことではなくて「生きること」を選んだ、ということを意味しないだろうか。

 つまり、ただ現在自分が生きているのだという事実だけを根拠に生きているのではなく、生と死とを天秤にかけたうえで、自ら生きることを選んで生きる、ということなのだ。それは、自殺というものを、大した論拠もなく感情的に毛嫌いし、選択の可能性すら否定してしまうのではなく、自らの自殺の可能性を積極的に認めてしまったほうが、逆説的に、生きることに対して能動的な姿勢を取り得る、ということだ。

 ひとつ、例証を挙げてみよう。勤めていた会社が倒産し、失業者となった45歳の男がいたとする。家族は、妻とまだ小学生の子供がふたり、住宅ローンも抱え、途方に暮れる。職安にいってみても、生活を維持できそうな収入を期待できる仕事などみつからない。男の脳裏に、俄に自殺という方法が浮かび上がる。

 それは単に、この苦境から手っ取り早く逃げ出すため、などではなかった。経済的にみて非常に合理的な方法だった。生命保険は家族にまとまったお金を残してくれるだろうし、そのうえ、住宅ローンは自分が死ねばそこで支払いの義務はなくなり、おまけに大人の男一人前分の口減らしまでできる。自分がどこかの会社に苦労して就職し、定年まで少ない給料を稼ぐよりも、ずっと楽な暮らしを、少なくとも金銭的には家族にさせてあげられるのだ。

 こうして、自殺は彼にとって充分な現実味を帯びている。しかしそれでもなお、彼が生き、生活していくことを選ぶためには、少なくとも、失業前の生きることが当たり前だった頃よりは、大きな勇気が必要だろう。そしてさらには、彼は以前よりも、自分が生きていることの意味を、嫌でも考えさせられることになるだろう。

 つまり彼は、自殺の可能性を自らに認めることによって、生きることへの積極性、能動性を、実践的にも心理的にも高めることとなる訳だ。勿論、彼が自殺という選択肢を選ばなかった場合に限った話ではあるのだが。

 人間とは地上で唯一、自らの意思によって自らを殺すことのできる存在者だ。だからこそ、我々が生き続けようとする意思は、動物的な生存本能などよりもはるかに尊いのだと私は思う。ヘッセの描いた「自殺者」や、ショウペンハウアの「生きんとする意思の否定」とは違う方向を向いてしまうことにはなるが、この自殺の逆説的な肯定こそが、私にとっての「自殺の合理性」だ、ということなのだ。

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