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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

「ジャンヌ・ダルク』その2

宗教的偏見と、宗教への偏見

ジャンヌ・ダルクは、最終的には敵の手に落ち、裁かれ、火あぶりにされた訳だが、その場面もまた、実に「感情」的な舞台だった、ということができる。

 イギリス軍としては、なんとしてでもジャンヌを「魔女」として火あぶりにしなければならなかった。なぜなら、彼女が「魔女」ならば自分たちが神の恩寵にあずかっていることになるが、彼女が「聖女」ならば、自分たちが神の意思に反するもの、ということになってしまうからだ。

 そしてさらには、彼女によって聖別されたシャルル七世の王位の正統性を、手っ取り早く否定することにもなる。多分、イギリス側にとってはこれが最も重要なことだっただろう。なにせこの戦いは、他ならぬ王位継承権を争う戦いなのだから。

 ジャンヌは裁判にかけられる。神学に通じた名だたる「パリサイ人」たちが、読み書きすらできず、信仰については羊飼いの両親から教わったことの他は何も知らない田舎娘を問いつめる。裁く者たちの背後には、イギリスの剣がつきつけられているのだから、もう判決は最初から決まっているも同然だった。

 その裁判の様子については、記録としてかなり詳細に残されている。邦訳もされている。そしてその「パリサイ人」たちとジャンヌの問答を眼にするものは、胸の感動を禁じ得ないだろう。善良さ、というもののために、いったい何が必要なのか。学識なのか、素朴さなのか。権威なのか、素直さなのか。ジャンヌの言葉は、実際、彼女を裁く高位の聖職者だの、神学の博士だのといった連中を、少なからず感嘆させ、感動させずにはいなかった。

 ミシュレの描写も、このあたりに最も深い同情を込めているように思われる。そして確かに、ジャンヌの人間性、というものの魅力は、オルレアン解放の偉業などよりも、この裁判中の言動にこそ如実にあらわれてはいないだろうか。戦場の指揮官ではない、ただ祖国の戦乱を悲しむ心優しい田舎娘、それがジャンヌなのであり、だからこそ、その物語は人々の心を震わせるのだ。

 そしてその最期。予定通り、ジャンヌは火刑台の煙となった。ミシュレは、彼女を処刑したイギリス方の人々の様子を描くことで、このクライマックスを実に印象的に仕上げている。「異端者」ジャンヌの処刑という、このうえない見せ物の見物に集まったイギリス方の指揮官や兵士たちは、神を疑ったり、呪ったりする言葉をジャンヌが口にすることを期待していた。しかし炎にまかれたジャンヌが叫んだのは、ただ「イエスス」の名前、そればかりだった。

 「もうだめだ、我々は聖女を焼き殺してしまった!」。あるイギリス王の秘書の言葉で、物語は幕を閉じる。彼らはつまり、恐れていたのだ。ジャンヌはもしかしたら本当に天に遣わされた女であり、自分たちは天の意に背いて戦っているのではないのかと。だから、どうしてもジャンヌを異端者として焼き殺さなくればならなかったのだが、その敬虔な死に様に、すっかり畏れ入ってしまったのだった。

 ある心理学者の言葉を、私は思い出した。「感情にも、思考と同じくらいの権利がある」。ジャンヌの愛情に、「論理」はたびたび立ちはだかった。シャルル七世の政治的判断の影で彼女は敵に捕らえられ、学者たちの神学的正義によって裁かれ、イギリスの政治的利害によって処刑された。しかし彼女はその全てに「感情」によって勝利し、「救国の聖女」となったのだ。

 ミシュレの『ジャンヌ・ダルク』は、つまり彼女を、何やら特別な、まるで円卓の騎士の一員ででもあるかのような女傑としてではなく、一貫して「愛すべき田舎娘」として描いている点で、優れていると私は思うのだ。なぜなら、事実ジャンヌは、ただの田舎娘に過ぎなかったからだ。そう捉えてこそ、我々は、彼女の本当の姿に近づけるのだろう。

 そういう訳で、私はこの本が好きだ。だが勿論、立場が違えば彼女への評価も違ってくる。例えば英国人であるシェイクスピアが、その『ヘンリー六世』のなかで、ジャンヌを悪霊に取り付かれたひどい女として描いているのは有名だ。一方においてシラーなどは、その『オルレアンの少女』で、史実などおかまいなしにジャンヌを理想化している。

 その他、ヴォルテールだの、バーナード・ショウだのといった有名どころから、現代の世界中の研究者に至るまで、様々な人々が、それぞれの視点から彼女を描いており、それぞれが、ルネサンスや宗教改革の先駆者だとか、フェミニズムの象徴だとか、脳障害患者だとか、いろいろな役割を彼女に押し付けている。

 そうしたなかにあって、ただジャンヌの素朴さや、その意図の美しさへの愛着によって描かれたこのミシュレのジャンヌ伝は、ジャンヌに興味を抱いたひとが、まず最初に読む本としても優れていると思う。そしてまた我々にとっては、宗教というものを考えてみるよい機会にもなるのではないだろうか。

 カルト教団の凶行だとか、中近東あたりの紛争やテロのニュースなどが、我々に宗教というものに対して警戒感を持たせているのか。確かに「宗教的偏見」が、大きな、そして往々にして悲劇的な出来事を引き起こしているといえる部分は小さくはない。しかし、これは少し冷静になってみたならばすぐにわかることだが、問題の本質は、異なる宗教同士の争いなどではなく、単なる利権の争いでしかないのだ。

 宗教は、あるいは様々なイデオロギーもそうだが、結局利権争いの道具にされているのだ。だから必然的にそれは争いの種として我々にはみえてしまう。パレスチナ問題もしかり、アフガニスタン問題もしかり、チェチェン問題もしかり、某国の反日教育もしかり、さらには東西冷戦の構造、旧ユーゴの悲劇、ベトナム戦争、第二次世界大戦、もう、挙げ始めたらきりがない。

 宗教的あるいはイデオロギー的大義などは、民衆という、兵隊として突撃させる連中を、まるめこんで納得させるための口実にすぎない。素朴な信仰心、母を想うような愛国心は、権力者達に利用され、対外的な敵意にすり替えられる。

 こうした図式のなかでジャンヌの事跡を眺めてみると、また違う側面が見えてくる。結局ジャンヌは、ふたつの王家の争いのなかで、その信仰心を利用されただけだったのかもしれない。しかしキリスト教という巨大な宗教の支配する世界で、宗教の暗黒面、スコラ的な律法主義や、俗権と癒着した権力志向、排他的で不寛容な独善などに対して、彼女は、協調や博愛、献身や義侠心、廉恥心や慎ましさなど、素朴で土着的な宗教というものがもつ、本来あるべき姿を、我々にみせてくれた。

 それは、伝統的な本物の宗教がもつ、ある社会を持続可能で、より暮らしやすいものにする機能というものの、象徴的な形だといえる。だからこそジャンヌの物語は、これほどに無神論的な現代にあっても、人々の興味を惹き、「異教徒」たる我々を感動させるのだと思う。そしてその普遍性こそが、我々の「宗教への偏見」を、矯めさせる力になるのではないだろうか。


魔女〈上〉 (岩波文庫)魔女〈上〉 (岩波文庫)
(2004/10/15)
ミシュレ

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この本を読むと、ミシュレの「ジャンヌ観」が、よりいっそう理解しやすくなるし、勿論、この本自体、ヨーロッパの宗教観、あるいはヨーロッパのキリスト教受容の歴史などもわかり、とても面白いので、一読されることをお勧めします。

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