FC2ブログ

乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

身延街道・由比筋 その1


 身延街道・由比筋
 その1 その概要と歴史



 久々の旧街道めぐりとして、旧身延街道の「岩淵筋」を走り終えた私であったが、国道52号線をそのまま南下すれば帰宅できるにもかかわらず、再び、「岩淵筋」の途上にあった内房の集落に向かった。そして、




IMG_0158_convert_20181209103050.jpg

 またこの「祥禅寺」の門前にやってきた。ここに、「岩淵筋」と「由比筋」との分岐点があるのだ。どういうことかというと、





minobu4kai1_2_convert_20171209090811.png

 「岩淵筋」のスタート前に掲載した地図を再び。ご覧の通り、静岡県内、すなわち旧駿河の国を通る身延街道には、みっつのルートがあるのだ。すなわち、「興津筋」、「由比筋」、「岩淵筋」である。

 「興津筋」は、東海道の興津宿を起点としていた。江戸幕府のもと、道中奉行の管轄下にあって公式の脇往還とされていたのはこのルートであったようで、当時の正式名称は「駿甲脇往還」、現在の「身延街道」であるところの国道52号線も、この「興津筋」とだいたい重なる。このルートは、小島、宍原を経由して駿甲国境に至る。

 前回記事で走った「岩淵筋」は、東海道の富士川渡船場の西の船着き場でもある岩淵を起点として、松野、内房を経由して、駿甲国境で「興津筋」と合流する。

 そして、真ん中の「由比筋」である。東海道の由比宿を発して、そのまま内房に至る山越えのルートである。歴史的には、まずこのルートが主に使用され、その後に、他の2ルートがこれに替わって発展した、ということのようだ。

 甲斐国内においては一筋に伸びている身延街道であるのに、どうして、駿河国内においてはこんなことになっているのか。この身延街道の歴史を概観してみると、どうやらその理由が見えてきそうだ。「興津筋」、あるいは「岩淵筋」のときの記事内容と少々かぶる部分もあるが、その歴史を今一度振り返ってみる。

 富士川河口から興津川河口に至る駿河湾岸と、甲府とを結ぶこの道がいつ頃から通じていたのか、それは定かではないけれども、最初に街道としての整備が進んだのは、上述のように真ん中の「由比筋」であった。その様子が史料的にはっきりしてくるのは、中世、戦国期に入ってからのようである。これはすなわち、軍事的必要性が、街道の発展を促したことを意味する。天文二十一年(1552年)に、今川義元の娘が、武田信玄の当時の嫡男義信に輿入れした際にも、この由比筋を通って駿河から甲府を目指したようだが、特筆すべきは、やはりその後の永禄十一年(1586年)に、駿河への侵攻を開始した信玄の軍勢が、この道を通ったことだろう。  

 私は静岡の人間なので、身延街道というとどうしても静岡から山梨へと向かう道としてみてしまうが、山梨から静岡へと南下することを想定してこの街道をいわば「逆から」みると、信玄がこのルートを選ぶのは自然であるように思える。

 甲府から駿河への道のりは、とにかくずっと山中を抜けてこなければならない。しかし武装した大集団が山道を連なって歩くことは簡単なことではなかっただろう。できればなるべく早く、海岸線の歩きやすい東海道に出たいと考えるはずではなかろうか。身延街道を南下してきて駿甲国境に至ったところで、さて最も短い距離で海岸線に至ることができるのはどのルートか、と考えて地図を眺めるならば、これは間違いなく「由比筋」なのである。

 無論、由比の東に蒲原城があったので「岩淵筋」からではこの城が障害になること等の戦術的な理由、あるいは、信玄が事前に今川方の諸将に寝返り工作をしていたので、それを前提として展開される戦略的理由も、進軍ルート選定を左右しただろう。ただ、甲相駿の三国同盟を破棄しての駿河侵略だったのだから、北条の後詰めは当然予想される訳で、信玄が最短、最速のルートを選んだことは想像できるのではないだろうか。

 いずれにせよ、その後駿河中部を勢力下においた信玄は、本国と駿河との連絡のために身延街道に伝馬制を整備した。直接的にこの街道沿線の支配を采配したのは江尻城主となった穴山信君(梅雪)であったが、この信君は武田氏滅亡後も織田氏に臣従してそのまま領地を安堵されたため、身延街道もまた「由比筋」を本道としたまま整備が進んでいくこととなった。

 しかし天正十年(1582年)の「本能寺の変」によって日本の歴史が大きく動いたとき、身延街道にも直接的で大きな影響が及んだ。その当時信君は、信長に謁見するために西国におり、事件のドサクサのなかで命を落としてしまったのである。これを機に、「由比筋」は衰退していく。

 信玄の駿河侵攻以来、諸勢力の係争の舞台となっていた駿河中部も、戦国の世が終焉に向かう中で平穏を取り戻し、街道を取り巻く環境も変化した。かつて信玄が、甲府から駿府をめざして軍を進めた街道だったが、日蓮宗の流行が全国に広まるにつれ、今度は、東海道を歩いてきた巡礼者たちが、身延山をめざすこととなった。今度はつまり、街道を静岡から山梨の方に眼を向けてみる必要がある訳だ。

 例えば江戸からやってきた巡礼客は、富士川を渡った後、わざわざ由比まで行こうとは思わないだろう。富士川沿いをそのまま甲府へと向かう「岩淵筋」が目の前にあるのだから。また西国からやってきて、興津宿に辿り着いた巡礼も、由比まで行こうとはしないだろう。興津川の手前で、そのまま北上すれば、やはり甲府に行けるのである。街道の担う主な役割の変化によって、「由比筋」が廃れ、他のふた筋が発展するのは自然なことだったのである。

 ということで、今度はこの「身延街道・由比筋」を、「岩淵筋」との分岐点である内房から由比へ、北から南へとカブ110で走ってみよう、というわけである。ただ、その正確な旧街道の道筋にははっきりとはわからない。かつての街道沿いにあったであろう場所を経由しつつ、内房と由比とを結ぶ道は現在も通じている。それが現在走ることができる、旧街道に最も近い道筋であろう、と考た訳である。




IMG_0159_convert_20181209103114.jpg

 では、出発しよう。「祥禅寺」の門前を流れる廻沢川という清流の対岸あたりにから、川沿いを山間に向かうこの道を行く。「芭蕉天神宮」への案内看板があるが、とりあえずは、この神社を目指す訳である。というところで、次回へ続く。



「旧街道めぐり」関連の記事
カブのこと 1・県道396号線 その1・富士、蒲原
カブのこと 4・鎌倉街道(徒歩0分)その1・梶原一族最期
カブのこと 6・旧東海道、静岡市内
カブのこと 8・旧東海道 安倍川から大井川
カブのこと 10・旧東海道 大井川から掛川宿
カブのこと 15・旧東海道 富士川東岸、吉原宿
カブのこと 16・旧東海道、原宿、沼津宿、三島宿、三嶋大社
カブのこと 17・旧東海道、箱根
カブのこと 26・田沼街道
カブで史跡めぐり 4・旧東海道 掛川市、袋井市
カブで史跡めぐり 10・宇津ノ谷峠
カブで史跡めぐり 13・旧東海道 磐田市
カブで史跡めぐり 27・旧東海道 浜松市から湖西市
カブで史跡めぐり 36・塩の道 相良から掛川
カブで史跡めぐり 46・北街道
カブで史跡めぐり 72・塩の道 掛川から春野町
旧東海道 富士川西岸から由比宿、再訪
旧東海道 薩埵峠から興津宿、再訪
姫街道
身延街道(興津ー境川)
旧東海道 日本坂峠
下田街道 三島大社から韮山
身延街道・岩淵筋


にほんブログ村 バイクブログ カブ系へ
にほんブログ村

スポンサーサイト



PageTop