FC2ブログ

乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

身延街道・岩淵筋 その1


 身延街道・岩淵筋
 その1  起点・岩淵



  11月の最後の週末。珍しく三連休ということになったので、久しぶりに「スーパーカブ110で行く早朝史跡めぐりお散歩ツーリング」に出掛けることにした。先日の駿府城の発掘現場見学を抜きにするならば、8月に旧下田街道と韮山城に行って以来である。しかしもう随分日が短くなり、日の出は6時半、となると、あんまり遠くへは行けない。ということで、




IMG_0002_convert_20181130145724.jpg

 やってきたのはここ、富士川橋西岸、である。時間は6時20分ぐらい。ここから、身延街道の古道を走る。背後の雲を纏った山は、いうまでもなく富士山である。

 去年の今頃にも、身延街道を走った。そのときは、旧東海道の興津宿から北上したのだった。そのときの記事(こちら。「身延街道(興津ー境川)その1」)にも書いたのだが、旧東海道から分岐して、駿河と甲斐との国境へと至る区間の身延街道には、ルートが三つある。西から、興津宿からのルート(興津筋)、由比宿からのルート(由比筋)、そして、富士川の渡船場のある岩淵(岩淵筋)からのルート、である。




minobu4kai1_2_convert_20171209090811.png

 地図でみると、こんな感じ。去年は1番の「興津筋」を辿った、という訳だが、今回は地図上の黒い矢印、3番の「岩淵筋」を走る。




iwa1kai_convert_20181130150403.png

 これが、今回走る予定ルート。




minobu1_convert_20171209090706.jpg

minobu2_convert_20171209090725.jpg

 そして今回も無論、こちらを参考にします。静岡県教育委員会文化課の編集、発行による、『静岡県歴史の道 身延街道』と、その付録の地図です。

 まず「由比筋」において発達したこの身延街道であるが、戦国時代の終焉によって、街道の役割から軍事的な意味合いが薄れ、一方において日蓮宗信仰広まりに伴って身延山への巡礼路としての意味合いが強まると、東海道を西から来て身延をめざす巡礼は「興津筋」を、東からの巡礼は「岩淵筋」を利用するようになり、このふた筋が「由比筋」にかわって発達していった、ということのようだ。

 ただ、岩淵から富士川西岸に沿って甲斐へと向かう道筋自体は、平安時代にはすでに通ってはいたようで、鎌倉時代に日蓮が弟子とともに身延を目指したのもこのルートだ、という。海に面した地方と、内陸部とを結ぶ街道には、通商の道、すなわち所謂「塩の道」としての役割が当然あるので、古い歴史を持っていることは意外なことではないだろう。ただ、この通商の道としてのこの「岩淵筋」の存在意義、という点でいうと、近代以降に歴史的に大きな出来事があった。上掲の写真にみられる常夜燈の横に、その辺りのことが書かれた解説板がある。




IMG_0003_convert_20181130145759.jpg

 これである。一部を転載。


  角倉了以翁の紀功碑
 京都の豪商、角倉了以(一五五四~一六一四)・素庵(一五七一~一六三二)の父子は、慶長十二年(一六〇七)、同十九年(一六一四)両度にわたり、幕府から富士川の開さくを命じられました。その水路は、岩淵河岸(現在地付近)から鰍沢河岸(山梨県鰍沢町)の間約十八里(七一キロメートル)で、大変な難工事の末、完成しました。これにより、富士川水運は明治四十四年中央線が開通するまでの約三〇〇年間、甲信地方と東海道を結ぶ交通の大動脈としての役割を果たし、岩淵河岸は「下り米、上り塩」の中継地として繁栄しました。
 (後略)



 静岡県中部および東部の旧国名である「駿河」の名の由来を、水量が多く流れも早い富士川の様子からである、とする説がある。その富士川を、舟による水運が可能な形にする工事であるから、角倉の苦労は推してあまりあるというものだ。しかしそのおかげで、甲信地方からの江戸への廻米輸送も、駿河湾沿岸部からの海産物の輸送も、この富士川を利用できるようになった。

 慶長年間にすでに幕府が命じていた、ということは、幕府が富士川の水運利用について、早くから重要視していたということだろう。駿甲を南北に結ぶ身延街道は、いくつもの山を越えなければならない険しい街道であり、物資の大量輸送にはやはり苦労していたのだろう。

 そしてこの富士川水運によって繁栄したのが、身延街道岩淵筋の南の起点である、岩淵村であった。上掲の解説文にあるとおり水運の中継地であるばかりでなく、富士川を横切っていく東海道の渡船事業も、岩淵村が担っていたのだ。すなわち、東西南北の物流、交通の交差点であった訳である。

 そしていうまでもなく、東海道と身延街道との分岐点でもあった。では、そろそろ出発しよう。

 旧国道1号線である県道369号線は、東から西へ富士川を渡河したところの「富士川橋西」の交差点で、富士川西岸沿いを北上する県道10号線と分岐する。この交差点のそば近くに、




IMG_0007_convert_20181130145823.jpg

 こんな脇道が。これは、旧東海道である。まずはこちらへ進む。




IMG_0008_convert_20181130145845.jpg

 坂を登り、




IMG_0010_convert_20181130145904.jpg

 道なりに右に曲がると右側に脇道。こちらが旧身延街道になる。すなわち、ここが身延街道岩淵筋の起点、ということになろうか。




IMG_0012_convert_20181130145924.jpg

 雲が晴れて富士山が姿を見せた。




IMG_0013_convert_20181130145949.jpg

 自動車一台通るのがやっとの路地だが、これが旧街道。




IMG_0015_convert_20181130150010.jpg

 右手に「常夜燈」。刻名等はなく詳細不明。




IMG_0017_convert_20181130150029.jpg

 さらに、「光栄寺」入り口の「題目道標」。表面は「南無妙法蓮華経」、右面に「身延山道、北松野江一里半、万澤江三里半、南部江三里、身延江三里」。享保十六年(1731年)の建立。




IMG_0018_convert_20181130150050.jpg

 道は起点から150mぐらい続いて、




IMG_0019_convert_20181130150141.jpg

 ここへ。本来身延街道はさらに真っ直ぐ続いていたのだが、みての通り失われている。仕方がないので、




IMG_0020_convert_20181130150203.jpg

 右折して県道へ向かう。すごい急坂。




IMG_0021_convert_20181130150234.jpg

 富士川沿いの県道を北上。この県道10号線が、いわば「現」身延街道岩淵筋、ということになろうが、この道を「身延街道」と呼ぶことは、地元でもほぼ皆無である。現在、「身延街道」といえば、それは「興津筋」の後身といえる、国道52号線のことである。




IMG_0023_convert_20181130150255.jpg

 道路脇に、「水神宮跡地」の碑。架橋技術の向上は渡し船を、鉄道の開通は富士川水運を過去のものにした。利便性の向上が、もし、いにしえの水神信仰までもを過去のものにしてしまったのだとしたら、それはやはり、寂しいことである。
 



IMG_0026_convert_20181130150317.jpg

 その先にみえてくるのは、東名高速道路の富士川サービスエリアと、併設された道の駅「富士川楽座」の観覧車。この辺りの旧街道の道筋が失われている原因としては、この高速道路の通過があることは確かだろう。これまた、新しいものによって古いものが失われたことの一例である。が、街道とは、人々の生活や活動と不可分に結びついた実際的、実利的なものであって、観光施設や遺跡ではない。それは必然的な変化、なのだろう。

 ということで、次回に続く。



「旧街道めぐり」関連の記事
カブのこと 1・県道396号線 その1・富士、蒲原
カブのこと 4・鎌倉街道(徒歩0分)その1・梶原一族最期
カブのこと 6・旧東海道、静岡市内
カブのこと 8・旧東海道 安倍川から大井川
カブのこと 10・旧東海道 大井川から掛川宿
カブのこと 15・旧東海道 富士川東岸、吉原宿
カブのこと 16・旧東海道、原宿、沼津宿、三島宿、三嶋大社
カブのこと 17・旧東海道、箱根
カブのこと 26・田沼街道
カブで史跡めぐり 4・旧東海道 掛川市、袋井市
カブで史跡めぐり 10・宇津ノ谷峠
カブで史跡めぐり 13・旧東海道 磐田市
カブで史跡めぐり 27・旧東海道 浜松市から湖西市
カブで史跡めぐり 36・塩の道 相良から掛川
カブで史跡めぐり 46・北街道
カブで史跡めぐり 72・塩の道 掛川から春野町
旧東海道 富士川西岸から由比宿、再訪
旧東海道 薩埵峠から興津宿、再訪
姫街道
身延街道(興津ー境川)
旧東海道 日本坂峠
下田街道 三島大社から韮山


にほんブログ村 バイクブログ カブ系へ
にほんブログ村

スポンサーサイト



PageTop