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犬居城 その2 


 犬居城 その2





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 現地の見取り図。




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 「物見曲輪」の展望台からの眺望。城下の様子が一望できる。「塩の道」、すなわち、この城がその役割を果たしていた時代に相応しい呼称でいうところの「信州街道」が、ここを通っている訳である。




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 こんな道標があった。上の見取り図でいうところの右方向、城の搦手の方向に行けば、秋葉神社に通じている、という訳である。私は「塩の道」から上がって来て、大手側、つまり図の左側から入城した。すなわちこの城は、信州と遠州とを繋ぐ街道と、二方向でつながっている訳である。上記の眺望と合わせて、武田、徳川双方にとってこの城がどれほど重要な位置を占めていたか、容易に想像がつくというものである。




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 まず、その搦手方向へ進んでみる。尾根上に曲輪を連ねる連城式の山城は、大概背後の守りが手薄になりがちなものだが、こちらから攻め登るのは少々辛そうな斜面である。




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 ほどなく「堀切」に辿り着く。こちら側はここまで。「物見曲輪」に戻る。




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 「物見曲輪」から大手方向へ。この辺りが「本曲輪」から「二の曲輪」辺りになろうか。




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 「二の曲輪」北側。写真ではちょっとわかりにくいが、実際にみると細長く曲輪が伸びているのがわかる。「帯曲輪」と呼ぶべきか、「腰曲輪」と呼ぶべきか。




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 この辺りが「東曲輪」。周囲のハイキングコースの解説図が設置されてある。




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 その「東曲輪」の東側にある「空堀」。写真奥が、この城跡への入り口になる。つまり、最初にみた堀を逆方向から見ている訳だ。形としては、「三日月堀」といえるだろう。土塁の跡とおもわれる盛り上がりも確認できた。




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 その「三日月堀」の北側には、「竪堀」跡も。そしてその向こう側に、




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 もうひとつ曲輪が認められた。この辺り、天野氏が武田氏側に移った後に、所謂「武田流築城術」によって改修されたと考えることに無理はなさそうである。

 この交通の要衝を固める城としては、少々規模が小さすぎるようだが、天野氏はこの周囲に幾つかの支城を築き、その全体によって防御を固めていたようだ。この辺り、先日行った「安倍城」などと通じる部分があるかもしれない。立地の共通点(たくさんの尾根筋が連なりあった、山の深い場所であることなど)を考えあわせると、ちょっと面白い気がする。

 今川氏滅亡後の遠江における、武田・徳川の力関係の最中において、一度は徳川につくものの、最終的には武田側に臣従することを選択した天野氏。少なくとも元亀三年(1572年)に、武田信玄による所謂「西上作戦」が開始された段階では、その選択は正しかった、とすべきだろう。

 もし徳川に義理立てしていたとしたなら、多分、青崩峠を越えて遠江に侵入した武田軍は真っ先にこの犬居城を攻めただろうし、そうなれば、天野氏の為に後詰めを出す余裕などなかったはずの家康に見捨てられたまま、天野氏は滅ぼされていたかも知れないからだ。だがしかしその「正しさ」も、信玄の死によって雲行きがあやしくなる。

 二俣城から三方原へと、家康をほぼ一方的に打ち負かした上で、さらに西進した信玄の「西上作戦」の最終目標が、さて織田氏攻略だったのか上洛だったのか、あるいはその両方だったのか、またあるいは遠江・三河を徳川から奪うことに限られていたのか。今となっては最早わからないが、いずれにせよ信玄の病死によって中断されてしまった。

 これで命拾いしたのは家康であろう。義元を失った今川氏のときのように、一気に形勢逆転、という訳にはいかなかったが、少なくとも、信玄の跡を継いだ勝頼と、遠江の覇権を争い続けることは出来た訳だから。そして天正二年(1574年)四月、家康は反攻に出る。その攻撃目標こそがこの犬居城であった。

 家康自らが出陣し、先方は大久保忠世が務めた。一度は徳川に臣従したにもかかわらず武田に寝返り、屈辱的な三方原の戦いを呼び込んだともいえる天野氏に、家康が立腹していたとしても不思議はなかろう。家康は三倉川に沿って進軍したというから、少なくとも天方城辺りからは、私がここへ来るまでに辿って来た「塩の道」を進んで来た、ということになろうか。

 しかし折からの大雨のために兵站の確保が困難になり、家康は道半ばにして撤退を余儀なくされた。そこへ、当時の犬居城城主天野景貫は城から打って出て襲いかかった。この辺りのことは、ここへの途上、「権現森」のあたりでちょっと触れたが、家康は散々な目にあって天方城まで兵を引くこととなった。

 だが無論これであきらめる家康ではなかった。天正四年(三年?)、今度は「堀之内の城山」等、付け城を幾つも築いて、犬居城とその支城からなる天野氏の防御陣を囲い込んで再び攻城を開始する。籠城によってこれに対抗した天野氏であったが、今度ばかりは耐えきれず、天野氏は甲斐に逃れ、犬居城は落城。それきり、天野氏がこの地に戻ることはなかった。

 さて、掛川から「塩の道」の古道を辿ってここまでやってきて、こうして犬居城まで見学した今回の史跡めぐりも、これで終了である。ここまできたのだから、本当に、秋葉神社も観て帰りたいのだが、時計をみればもう午後一時をまわっている。給油のために走り回ったおかげで体力も時間も失ってしまったし、おまけにスマホのバッテリーもついに空っぽになって、立ち上がらなくなってしまった。また今度、ということにして、帰路につこう。それでは、また。



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