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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

日々の出来事 29


 駿府城址見学 その1


 お盆の連休。今年は仕事上のいろいろな都合で、なんと六連休という、私としては常識はずれな長期休暇となってしまったのだが、パートタイムとはいえ官庁関係に務める妻は、基本的にお盆休みというものがなく、暦通りのお休みだけ、ということで、私の連休初日すなわち「山の日」の休日から、夫婦間での、なんというかこの休みに相対する姿勢とでもいったものに、顕著なる温度差がみられた。

 即ち、元来夏が苦手でバテ気味だった私としては、ようやく辿り着いた連休の初日ぐらいは家でのんびりしたいのであるが、妻としては、貴重な休日なんだからどこかへ出掛けるなどして有意義に過ごしたい訳である。

 こうした場合、我を通して居間に寝転がってテレビなんか眺めたりなどするべきではない。なぜなら、妻との意見対立が鮮明化してせっかくの連休全体が台無しになる恐れがあるからである。最悪の場合、ご飯を作ってくれなくなるという、ある種の経済制裁に近い仕打ちを受ける可能性も考慮しなければならない。ただ妻の方も、私の疲れを勘案して、朝早くから出掛けたいなんてことは云わずにいてくれたので、こちらも妥協して、午後からどこか行こうか、なんて柄にもない優しい言葉をかけてあげた。

 しかし無論、午後からのこのこ出掛けるのであるから、遠くへ行こうとすればそれは単に交通渋滞にハマりに行くだけの愚行に終わる可能性が大であることは、夫婦の共通認識としてあったので、近場でどこか、ということで、じゃあ、駿府城跡にある駿府公園に、という結論になった。

 もちろん私としては、「駿府城址」に「史跡めぐり」のつもりで行きたいのだが、妻は、お散歩を楽しみつつ、公園で子供等を遊ばせて疲れさせ、夜に早寝をしてくれることを狙っているのであり、という具合で、実はその目的はまるきり違うのであるが、手段の一致がみられたのである以上、何の問題もないという訳である。

 このクソ暑い中、公園を散歩しようとはなかなかの酔狂振りではあるが、すんなり意見が一致したので、「ええー、ウチでテレビ観たい」などとちっとも乗り気でない子供等を無理矢理リアシートに押し込んで、間もなく総走行距離が10万kmになんなんとする排気量1500ccのハイスペックエンジン搭載の高級ファミリーカーを走らせた。

 で、走る事15分から20分ほど、本当ならば、城跡内にある市民文化会館の駐車場にクルマを停めたかったのだが、満車だったので近所のコインパーキングに駐車。そこから歩く事数分、




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 ここから、駿府公園、即ち「駿府城址」にはいる。ここは、「横内門跡」である。位置的には、外堀の北東の角から、すこし南下した辺り、前述の市民文化会館のすぐ横である。一枚目の写真の堀は「外堀(三ノ丸堀)」、二枚目写真の正面にみえるのは、「中堀」の石垣、水色ワンピースの子供はウチの長女である。

 


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 中堀に突き当たり、北の方向を眺める。この日はなんだかお堀の水量が多かった。この堀のことを、地元では、城の外周を形作る外堀の内側にある堀、ということで、「内堀」と呼び慣わしており、私も普段はそう呼んでいるが、正しくは「中堀(もしくは二ノ丸堀)」である。本丸を中心に、それを二の丸がぐるりと囲み、さらにその外側を三の丸が取り囲む「輪郭式」の城である駿府城には、三重の堀があり、この堀はその真ん中の堀であるからである。よって本当の「内堀」は、さらに内側にあることになる。




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 で、その「中堀」を南へ進むと、みえてくるのは「巽櫓」、および「東御門」である。




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 これが「巽櫓」。巽(辰巳)、すなわち二の丸の南東の角にある櫓、である。




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 そして、「東御門」。巽櫓に隣接する、おもに重臣たちが利用したといわれる門、である。ここから、二の丸および本丸跡である駿府公園に入れる訳だが、その前に、このお城の歴史をおさらいしておきましょう。

 旧東海道の宿場でいうと、この付近にあったのは府中宿である。府中、すなわち元々、ここは駿河の国の国府があった場所、ということになる。ただ、その正確な所在地、というと、不明であるらしいのだが、過去の発掘調査のよると、どうもこの駿府城址が、その有力候補、ということではあるようである。

 では、ここを本拠とした最初の大名は、というと、やはり今川氏であるようだ。室町幕府の創設と共に、建武五年(1338年)、今川範国は駿河の国の守護に命じられた。すなわち、名門駿河今川氏の始めである。正確な年代は不明なようだが、今川氏はこの地に館を築き、領国支配の中心とした。これを今川館と呼ぶ。しかしご存知の通り、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いの敗戦と、当主義元の討ち死にを機に、今川氏は弱体化、駿河に進出してきた武田信玄に追われる形で、今川氏は館を捨て掛川城へと逃れた。府中を占領した信玄は館を利用する事なく、焼き払ってしまう。

 その後、となると、天正十三年(1585年)の話になる。徳川と武田による、駿河・遠江の覇権争いは、武田氏の滅亡によって決着、さらには織田信長の死、またさらに小牧・長久手の戦いをも経て、豊臣時代へと時流が急速に向いつつある中、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五カ国の大名となった徳川家康が、ついに駿府城の築城に着手する。この天正期の駿府城については、ほとんどわからない事だらけのようだが、小さめの天守があったようである。ただ、天正十八(1590)年には秀吉が小田原の北条氏を滅ぼしたことに伴い、家康は北条氏が支配していた関東へと転封となり、駿府城へは秀吉の家臣中村一氏が入城することとなった。

 家康が江戸から駿府城に戻ったのは、将軍職を秀忠に譲って大御所となった後のことである。慶長十二(1607)年、天下人の隠居所に相応しい城とすべく、全国の大名に工事を命じる所謂「天下普請」によって、家康は駿府城の大改修に着手、そして完成したのが、現在こうしてその広大な城跡を残す駿府城、であった。

 


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 これが、その縄張り。綺麗な輪郭式の形である。大きさとしては、正確な数字がみつけられなかったので地図から大体読み取った限りでは、本丸を囲む「内堀」、つまり一番内側の四角形の一辺が200から250mぐらい、「二の丸」及び「西ノ丸」の外周である「内堀」が大体一辺400mぐらい、一番外側の「三ノ丸」を囲み、城全体の外周を形作る「外堀」が、一辺600mぐらい、といったところか。この数字から、城の大きさを云々できるほどに私はたくさんの城を観ている訳ではないけれど、当然ながら、これまで観てきた中世の山城なんかとは比較にならない大きさである。




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 では、実際に城跡をみてみよう。「東御門橋」を渡り、「高麗門」を入ると、




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 そこはL字型の枡形になっている。ここから城内へ攻め入ろうという者は、どうしてもこの閉鎖空間に入り込まなければならず、その上で、もうひとつ門を破る必要もある。その間守り手の方は、最大四方向の、しかも敵のはるか頭上にある小さな窓から、足の止まった敵に集中攻撃を加えることができるという訳だ。




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 この「櫓門」をくぐって、漸く二ノ丸に入ることができる。橋からこの門、そしてふたつの「多聞櫓」を総称して、「東御門」と呼ぶ。これと、隣接する巽櫓は、内部を見学することができる。入場料は大人200円、子供50円。他の施設との共通入場券を買えば、少し割引されます。




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 その入り口あたりから、城跡を眺める。中堀の内側、本丸と二ノ丸は、基本的には全て公園、つまり駿府公園として整備されている。ちなみに三ノ丸には、学校や病院、裁判所、県庁等、公共施設がずらりと並んでいる。

 では次回、門と櫓の中を見学してみましょう。
 
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