FC2ブログ

乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

日々の出来事 26


 田中城下屋敷、あるいは、
 またしてもカブで行かない史跡めぐり



 ホンダ・スーパーカブ購入を機に、何となく成り行きで始まった私の史跡めぐりも、始めてから約一年が経った。で、その一年の史跡めぐりを振り返って、何というか、不満点というか、心残りな部分があるとすれば、とにかくほぼ夜明けとともに始められるので、朝早すぎて施設内に入れないことが多々あった、ということである。

 無論、ツーリングの時間帯をずらせば解決できる問題ではある。だが、休日の日中は子供の面倒をみなければならない、ということ以外にも、やはり空いている時間帯に一気に移動し、城跡でもなんでも貸し切り状態で、朝の美味しい空気を吸いながら見学するあの爽快感、勝手気まま感には、容易に捨て難い魅力があるのである。

 しかし石碑だとか、城跡の堀の跡だとかを眺める分には時間など関係ないのだが、資料館だとか、中を見学できる歴史的な建築物だとかは、朝の5時だの6時だのから開いているはずもなく、もどかしい思いをしてきたのも確かであった。

 そこで、そうした所に開場時間中にもう一度出掛けて、ちゃんと中をゆっくり見学する機会を探していたのだが、先日、その機会というものを得る事ができた。つまりは結局、家族連れで出掛ける他はないのだが(笑)

 田中城は、静岡県藤枝市にあり、旧東海道藤枝宿はその城下町であった。築城は、例によって今川氏、もしくはその命を受けた配下の豪族、一色氏によるらしいが、詳細や正確な年代は不詳。元々は「徳一色城」と呼ばれていた。桶狭間での敗北の後、弱体化した今川氏が徳川家康と武田信玄の挟撃を受け、急速に勢力を失うその過程において、永禄十一年(1568年)、徳一色城は武田氏の手に堕ちる。

 信玄は徳一色城を大幅に改修する。本丸を中心として、同心円状に四重の堀をめぐらせた、典型的に「円郭式」と呼ばれる形であり、また、所謂「武田流築城術」の特徴である三日月堀と丸馬出しが六ヶ所も配置されていて、その縄張り図は整っており非常に美しい。




image1_convert_20160723205601.jpg

 こんな感じ。名前が「田中城」に改められたのもこの時である。残念ながら、城跡はそのほとんどが住宅地になってしまったが、城があった場所の現在の地図をみると、見事にその形が道となって残っているのが、一目でわかって面白い。




map_convert_20160723210042.png

 こんな感じである。もう、どこが城であったのか、上の見取り図と見比べてみたならば説明するまでもないだろう。

 で、今回訪れた「下屋敷跡」は城の南東部にあり、一色氏やその後裔である古沢氏の屋敷跡だと伝えられている、という。これまた残念ながら、その屋敷等、遺構が残っているという訳ではないのであるが、庭園などを復元した上で、城にゆかりの建物を移築した、そういう施設となっている。入場無料。日曜の昼間であったにもかかわらず、我々家族のほかには誰もいませんでした(笑)




image2_convert_20160723205530.jpg

 今回は家族づれということで車で行ったので、駐車場側の入り口から入ったが、表門は別にある。




image5_convert_20160723205617.jpg

 中の様子。「庭園を復元」というから、綺麗な日本庭園がみられるものとちょっと期待していたのだが、御覧の通り、お世辞にもよく手入れされているとはいえない状態。




image6_convert_20160723205635.jpg

 みえてきたのは「茶室」。


 

image7_convert_20160723205654.jpg

image8_convert_20160723205714.jpg

 何やらあちこちに移築、そして改装されて現在に至るようだが、元々はこの下屋敷にあった茶室であるらしい、とのこと。市指定有形文化財。




image9_convert_20160723205755.jpg

 「仲間(ちゅうげん)部屋・厩」。本来、田中城内にあった建物。「安政六年」(1859年)と書かれた板材がみつかっているため、その頃に建てられたものと考えられる、とのこと。仲間部屋、納屋、厩が一緒になった建物で、こちらも市指定有形文化財。




image10_convert_20160723205817.jpg

 厩だから馬がいます……




image13_convert_20160723205851.jpg

 「長楽寺村郷蔵」。郷蔵とは、江戸時代の、村毎に飢饉等の非常時のための米を保管した蔵だ、とのこと。よって、これは田中城にあったという訳ではない。ただ、現存する郷蔵はとても貴重であるらしい。これまた、市指定有形文化財。




image14_convert_20160723205911.jpg

 で、こちらが正面入り口。




image11_convert_20160723205835.jpg

 「田中城本丸櫓」。元々本丸にあった建物。中に入ることもできる。




mokei_convert_20160723210102.jpeg

 一階には、城の復元模型がある。「まるい」形がよくわかる。手前のごちゃごちゃは、藤枝宿の街並。下方の一直線が東海道である。




image16_convert_20160723205931.jpg

 二階。




image17_convert_20160723205950.jpg

 二階からの眺望。北西側、東海道と藤枝宿のある方向をみたところ。この建物が元々建っていた田中城本丸も、だいたいこの方向にあった。

  武田氏による駿河の国支配の重要拠点として機能したこの田中城。天正三年(1575年)の長篠の戦いの後、駿河における武田の勢力が次々と徳川によって削がれていくなかでも、この田中城は長くもちこたえたが、天正十年(1582年)二月に至ってついに開城、徳川の領有するところとなった。同年三月には織田信長が天目山において武田勝頼に勝利、これを滅ぼしているから、本当に武田氏滅亡の直前まで、この城は耐えていたことになる。

 関ヶ原の戦いの翌年には、酒井忠利が一万石で入封。ただ本丸は、その後駿府城に隠居した家康が、鷹狩りの際に使用する「田中御殿」として整備、使用される。しかし家康は、この田中城において鯛の天ぷらを食べ過ぎて腹痛をおこし、そのまま恢復せず死んでしまった、といわれる。

 その後この城は、江戸時代を通じて代々譜代大名の居城となった。明治に至って廃城となった後には、城跡は民間に払い下げられ、現在に至る、というわけである。

 と、いうことで、前回にはただ閉じられた門の前にカブをおいて写真を撮っただけだったこの田中城下屋敷について、まがりなりにもこうしてひとつ記事を書く事ができた。やっぱりこういう施設はちゃんと入場して見学したいね。他にも何カ所か、開場時間内に再訪したいところがある。なんだかんだと家族を言いくるめて、昼間に行ってみようと思っている。では、また。 


関連記事
カブのこと 8・旧東海道、安倍川から大井川 その1

にほんブログ村 バイクブログ カブ系へ
にほんブログ村

PageTop