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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

私とオートバイ・その10 GSX1100S


 到達点 #4 (1992-1994年)




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 北海道上陸後、初めて撮った写真。牧場だの牛だのが珍しかったのだろうが、無論、数日後には牛など見飽きることとなる。



 1993年7月12日、奥尻島沖の日本海海底で地震発生。マグニチュード7.8。震源に近い奥尻島には地震発生から数分後に津波が到達、その遡上高は島西部で30メートルを超え、死者及び行方不明者数が、奥尻島だけで合わせて200名を超える大惨事となった。(数値データはWikipediaより)
 
 またこの年は記録的な冷夏であった。特に東北地方以北での稲作が、日照不足や低温によって深刻な冷害にあい、その秋には後に「平成の米騒動」と呼ばれることになる、全国的な米不足が発生するほどであった。

 私が初めて北海道を訪れたこの年は、すなわち北海道の方々にとってはまさに試練と受難の年であった訳だ。実際、フェリーが接岸した真夜中の函館は不安になるほどに寒かった。北海道の夏は涼しいとはいっても、初めての北海道である私にもさすがにこれは異常だとすぐにわかるような、晩秋か、あるいは大袈裟でなく静岡の初冬、といってしまってもよかろうような寒さだった。

 そして、地震の傷跡。さすがに奥尻島へは行かなかったが、道南の日本海側にも、私が訪れた8月にもまだ、崖崩れ等で全面通行止めの国道が幾つかあったし、長万部あたりの道路も、場所によっては路面が波打っていたように記憶している。

 1993年夏の北海道は、だから元来からして「例外的」で「異常」な状況にあった訳だが、私にとっては尚更に、特別なものとなった。

 それはひとつの「結論」といえた。DJ-1というスクーターから始まった私のオートバイライフ、のみならず、それ以前から始まっていた、私の、月並みでクサい言葉だが、きっと最も正確で最も美しい表現で謂うところの「青春」というものの、決着点であった。十代前半のある時期から、あの8月に至るまでの期間。四十数年という私の半生と比しても決して長くはない、だがこれ以上に私の人生を左右することはないであろう、極めて重要な意味を持つあの十年足らずの時間の、到達点であった。あの若い日々に、努力の末にか偶然にか私が手にしたもの、あるいは、怠惰の故にか不運のためにか失ったもの、そうした全てが、あの夏にいわば決算のときを迎えたのだ。

 だから今あのロングツーリングの日々を振り返るとき、それは出来事の記憶というよりは、ひとつの象徴として、私の脳裏に去来する。端的にいうならばそれは私の「若さ」だ。決して充実したものとも、喜びに満ちたものともいえない、どちらかというならばつまらなく味気なく、憶えていたいことよりは忘れたいことのほうが多そうな、我が人生の最初の二十年だとしても、その全てを、私は「あの8月」というフィルターを通して振り返ることができる。その全てが、「あの8月」のもとに収斂したのだ、という思いが、私をしてその二十年に首肯させてくれる。全ては、あそこに至る路であったのだから、まあ、よしとしようと思わせてくれる。

 ただそうはいっても、あのツーリング自体からして、全てが善き愉しきものだった、などといえるものであった訳では勿論ない。北海道の人が驚くほどの寒さと、連日の悪天候のなか、ツーリング初心者にありがちな不手際、持っていて然るべきだが持っていないもの、使わないままバックの底で場所だけ取り続ける無駄なもの、そんなものを引き摺ったままに走り回っていた。しかしそんな足枷が何であろう。さらに先へ、未だ知らない土地へ、北海道の真っすぐな道が続く限りどこまででも走り続けようというような、あの故知れぬ焦燥に駆られたような、若者らしい脇目もふらぬ「走り」に充ちた日々。ただ、オートバイで走り続けることに充たされた日々。……

 求めていたものを、得られたと思えた。あてもなく、しかし留まることも知らない旅の日々を充たしていたもの、あの遥けき景色、自分と同じよう旅をする若者達の聲、雨かぜの匂いや、熱せられたエンジンのメカノイズ、家畜小屋の温気、テントやシュラフの化学繊維の感触、下草の湿気や気化ガソリンのにおいに至るまで、それら全てが渾然一体となって生み出されたあの8月に、私は溶け入るように同化し、浸っていた。こここそが、自分のあるべき場所だと思われた。求めたものは、得られたのだった。

 旅の一日一日を刻んだ、個々の出来事、それも無論記憶に印象深く残されてはいる。しかしやはりあの旅は、全体として意味するものこそが重要だった。そしてその全体は、旅も終わりに近づいた頃にたどり着いた、ある景色のうちにさらに象徴化されている。いや、あの景色にたどり着いたからこそ、あの旅は終わることができたのだ、というべきなのかもしれない。何の変哲もない、ある景色。




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 これが、その景色だ。8月25日、朱鞠内湖付近で出会った、本当に、何てことの無い、ある静かな蕎麦畑だった。あの旅を共にした友人が帰路に着いた後も、ただひとり旅を続け、もう一度最北端をめざしたその途上に、偶然みつけ、なぜだかひどく心惹かれてバイクをとめた。夕刻、山の端にすでに隠れた夏の陽の残光が、大気を金色に染めるなかにひろがっていた、あの蕎麦畑。

 まるで自分は、ここに来るためにはるばる走ってきたのだと思われた。この景色に出会うためにこの旅は始められ、続けられてきたのだと思われた。そして今、当時のことを思い出しても、やはりまずはこの景色のことが思い出される。あの旅の象徴として、あの美しく静けさと単純さに支配された黄昏の景色が、思い出される。

 ここに至って、私は自分が充分に走ったことを自覚した。無論、あの広大な北海道の、ほんの一端をしか自分はまだ見ていないのだ、とは思っていた。しかしそれでも、私は満足した。自分は充分に走り、充分に長く旅を続けた、と思えた。そして、そこで初めて、旅を終え、帰ることを具体的に考えた。そう、なんのあても目的もない旅、というものは、始めることよりも終えることの方が難しい、ということもあり得る。私はこのきっかけを得たことで、何というか、再び日常生活に戻る踏ん切りが着いたのだった。




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 8月30日、大沼公園にて。稚内から気の遠くなるような南下を始めた私が、その途上、北海道で最後に撮った写真。

 静岡の自宅に帰り着いたのは、8月31日の午前中だった。25日間、全走行距離6993kmの旅が終わった。こうして数字だけでみると、自分でも意外なほどの短期間、短距離であるように感じる。実感としては、何年もかけて、十万kmぐらい走ったような旅だったが、何にせよ、それは単にあのツーリングが終わったというばかりではく、私の人生における「ある時期」が終わりを迎えたとき、であった。




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 おまけ。サロマ湖畔にて。ここでのある出来事については、以前、記事にしたことがある(こちら。「サン=テグジュペリ『人間の土地』 思い出話」)。ただ、その出来事は2005年のことである。1993年のこのとき、二十一歳の私は、2005年に再び、のみならず、2008年の新婚旅行の際にみたび、ここに来ることになろうとは無論思ってもいなかった。
 
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他、「旅のおもいで」カテゴリーの記事にも、この北海道ツーリングに関する記事があります。よろしかったら、どうぞ。


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