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私とオートバイ・その9 GSX1100S


到達点 #3 (1992-1994年)




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 1993年8月8日。東北自動車道、青森インターにて。やっとここまできた、という写真。しかし旅は始まったばかり、であった。




 1993年7月初頭のある日。バイト先からの帰り道、静岡市内の国道一号線をダラダラとカタナで走っていると、私鉄の高架橋をくぐった先の脇道から、私の眼の前に普通自動車が飛び出してきた。高架の橋脚のせいでとても見通しの悪い場所であり、お互いがお互いを確認できなかったのだ。車の運転手が私のバイクを視認し、ブレーキをかけたときにはすでに、自動車は私の車線を完全に塞いでしまっていた。

 私は、というと、何となく、その交差点の死角に変な雰囲気を感じ、ブレーキはかけないまでも、スロットルは全閉にしていた。ただ、車が眼の前に現れたときには、とてもではないが安全に停止できる距離は残されていなかった。フルブレーキをかけながら、車の前方の空きスペースに向けて懸命に方向転換を試みた。

 ドスッという鈍い音と、衝撃。カタナの大きく横に張り出したエンジンが、相手の車のバンパーにぶつかった。しかし多分、その当たり方が良かったのだろう。その接触の衝撃は、ほとんどが車のバンパーを車体からもぎ離す方向に作用し、私は転倒すらせず、カタナの盛り上がったガソリンタンクの後端に股間を打って少々痛い思いをしながらも、そのままよろよろとバイクを路肩に寄せることができた。

 乗用車(確かセドリックだったように記憶している)のフロントバンパーがほとんど外れてしまうような事故だったにもかかわらず、転倒を免れたカタナのダメージは軽微で、クランクケースカバーに小さな穴が開いてオイルがじんわりと滲んできた程度だった。事故相手のドライバーは、バイクとの事故だということで私の身体を心配してくれたのだが、本当に身体は(股間も)なんともなかったので、そのクランクケースカバーを相手の保険で交換してもらうだけで、事後処理は終わってしまった。

 ただこの事故によって、私は、何というか、気を引き締めるきっかけを得たのだった。というのも、実はその二年前、ゼファーを廃車にした事故(詳しくはこちら 「私とオートバイ・その2 ゼファー」)によって、私は北海道旅行に行きそびれていたのだ。

 そう、あの事故は、ある友人ふたりと共に計画していた、「青春18切符」を利用した北海道列車旅行の数日前に起こしたのだった。つまり私はあやうく、再び北海道行きを交通事故によって台無しにしかけたのである。これには、そろそろテントだの寝袋などを買いそろえ始め、少々浮かれ気分だった私も、気を取り直した。

 やはりバイクは気を抜けば痛い目を見る乗り物だった。クランクケースカバーの修理のついでに、バイク屋さんに長距離ツーリングに出掛けることを前提に、各部の点検をお願いした。日常点検ならば自分でもできたが、やはりプロの眼でみてもらいたかった。未経験の長距離走行であるから、機械的なトラブルのリスクはできうる限り排除しておくべきだった。だがもっとも重要なのは、そのバイクを扱う乗り手、であった。ひと月足らずの期間に、数千kmを走るはずだった。その距離を走破し、無事帰ってこなければならない。考えるほどに、それは簡単なことではないと思われた。

 その未体験の長距離走行に向けて、確かに、あの事故はよいきっかけとなった。そうだ、あの交差点のような、見通しの利かない危険な場所を、これから何千となく通過しなければならないのだ。私は遥か北方に向けて、深呼吸するような思いで決意に満ちた一瞥を送った。

 そして迎えたのが、ハイライトが200円から220円に値上がりした1993年の8月だった。7日の午前3時の暗闇のなか、旅の荷物を満載したセンヒャクカタナに跨がり、私は出発した。

 東名高速道路。延々と連なる大型トラックの車列のなか、リアシートの大荷物にふらつきながらも東へ。そして、この旅の最初の難関である、東京、首都高速道路。ジェットコースターのコースにしか思われないような、狭く曲がりくねった道を、トラックだとかタクシーだとかが猛スピードで走り抜ける、恐ろしくなるような道路だ。しかも、迷路のような分岐をひとつも間違えず、選択していかなければならない。ならば首都高など使わず、一般道を走るか。——バカな。東京都内の一般道など、田舎者にはそれこそ悪意ある巨大迷路そのものだ。まともに走れるはずはない。あの首都高が、それでも一番マシな選択なのだ。

 何とかかんとか、無事に首都高を抜け、東北自動車道に入った私は、ふらふらと最初のサービスエリアである蓮田サービスエリアに逃げ込み、ベンチに横たわった。もう夜は明けていた。都内の朝の混雑が始まる前に、東京を抜けよう、という当初の目的を果たしたところで、なにやら力が抜けてしまい、眠り込んでしまった。しかしいうまでもなく、旅は未だほとんど始まってすらいなかった。

 東北自動車道。日本地図をひらき、この名をもつ道路を指でなぞってみてもその長さに驚かされるが、実際に、特にバイクなどで走ってみたならば、この日本という国がいかなる広さをもっているのか、それを存分に思い知らされることとなる。

 まず、スタートの川口から宇都宮までが遠い。だがその宇都宮を通過した時点でも、未だ仙台までの道程の三分の一も消化していないのだと知り、愕然となる。郡山、福島と抜けて、その仙台に漸くたどり着く。もういい加減身も心もくたくたになりながらも、どこかパーキングエリアで地図上の現在位置を確認する。確かに仙台を過ぎた。しかし仙台はまだ、東北自動車道の中間地点に過ぎないのである。延々と続く、単調な高速道路、単調な景色。私はもう、今自分がどの辺りを走っているのか、そんなことを考えるのをやめてしまった。次の100kmを走りきることだけを考えた。そうでなくては、気が遠くなりそうだった。

 初日、私は結局、青森にはたどり着けなかった。日没を迎え、ある、便所しかないようなパーキングエリアで、本当は無論いけないことなのだが、テントを張って寝てしまった。もう高速道路走行が嫌になってしまい、半分ふて寝の有様だった。

 初日からこんなに疲れてダイジョウブか、と我が事ながら心配になるようなテイタラクだったが、そこは二十歳の若者である、一晩寝たならばすっかり元気になり、翌朝はしっかり早起きして、東北道の最後の100kmを走りきり、無事、終点青森インターに到達した。さあ、いよいよ函館港からフェリーに乗り、北海道に上陸だと、意気込んでフェリーターミナルに乗り込み、そして、窓口で出鼻を挫かれた。

 朝もまだ早い時間だというのに、もうその日のフェリーは、最終の20時20分発しか空きがない、といわれたのである。きけば、ねぶた祭からの帰り客のために、フェリーは大混雑だ、とのこと。見回してみれば、確かに、私と同じくフェリー待ちとおぼしきライダー達が大勢、もう諦め顔で、そこらの空き地で思い思いに時間つぶしをしている。これはもう、どうしようもない。

 仕方がないので、私は青森を少し走ってみることにした。地図をひらく。竜飛岬、という文字が眼に入る。石川さゆりの、ごらんあれが竜飛岬〜〜の、竜飛岬である。行ってみることにした。途中、ホンダのモンキーという小さなかわいらしいバイクでツーリング中のひとに話しかけられ、一緒にラーメンを食べなどしながら、二台で竜飛岬に着いた。太宰治の文学碑なども興味深かったが、何といっても、岬の高台から、対岸の北海道がみられたのがよかった。

 北海道へ行きたい。ただその一心で、私はここまで走ってきた。しかし、北海道へたどり着くことは、単なるスタートに過ぎなかった。津軽海峡の向こうに、その大地はたしかにあった。これから、自分はあそこに行くのだ。あちらへ渡ってからのことは、何ひとつ、決めていなかった。つまり、これから何でも好きなように決めて、どこへでも行けるのだ。私は胸の高鳴りを覚えた。これから、自分はあそこを走るのだ。

 函館に戻った。途中居眠りなどしたにもかかわらず、まだ午後三時過ぎだった。しかたなく、街へ出て本屋を探し、どういうつもりかトランボの『ジョニーは戦場へ行った』を買ってきて、暇をつぶした。(ちなみに、この過疎ブログの一番最初の記事が、この『ジョニーは戦場へ行った』についてのものです。おヒマなときにでも、読んでやってください。)

 日没とともに、風が強まった。津軽海峡は荒れ、フェリー埠頭に真っ黒な波を打ち寄せた。出港の時間が迫り、乗船予定のツーリングライダー達が、それぞれのバイクにまたがり、船の搭乗口付近に並んだ。風が冷たい。私もまたその列に加わり、そして、黒々と波立つ海をみつめた。

 この海の向こうに、北海道があるのだ。GSX1100Sカタナと、自分。ここまできた。確かに、我々は今、本州の北端に立ち、海を渡ろうとしていた。

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