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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

私とオートバイ・その8 GSX1100S

  到達点  #2 (1992-1994年)




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 1992年12月3日、朝霧高原にて。



 カタナ購入のための下取り車として、それまでの愛車Z400GPをバイク屋にもっていったのが、8月31日。GPの車検の最終日であった。カタナの通関に時間がかかり、車検切れに納車が間に合わなかったのである。

 帰りの足が無くなってしまうので、友人のYに車で一緒に来てもらっていたのだが、その我々ふたりに声をかけたのはバイク屋の社長さんだった。これからちょうどスズキの営業所にカタナを取りにいくので、ちょっと一緒に来て手を貸してほしい、とのこと。社長さんからみたならば、私などは100万を超える買い物をしてくれるお客さん、というよりは、自分の店に出入りしているバイク好きの小僧、といったところだったのだろう。坊主、ヒマなら付き合え、といった具合である。無論私はよろこんで承諾した。

 社長さんの軽トラックに、Yの車でついていくこと数十分、スズキの営業所で我々を待っていたのは、輸送用の大きな箱に入った我が新たなる愛車であった。スチール製のフレームに段ボールをかぶせた、その大きく重い箱(カタナの乾燥重量は220kgほどである)を、我々とスズキのひと数人がかりで軽トラックの荷台に持ち上げ、乗せた。フォークリフトかクレーンはないのかと、ちょっと疑問に思いながらも、私はそのずっしりとした重量を我が身に感じつつ、その作業を手伝った。

 箱に書かれた、「GSX1100SL」の文字。バイク屋のピットで、その外箱がはずされると、スチールのフレームに前輪を外された形でボルトで固定された、カタナの姿が現れた。そこから、納車整備が始まった訳だが、書類の通関にまた時間がかかり、実際に納車されたのは9月9日になってからだった。

 ところで、誰の人生にも、転機、というものは多かれ少なかれあるものだろう。ただそれがはっきりとしたものとして短期間の内に劇的な変化を産むのか、あるいは、わずかずつの変化が長期にわたって続くことで、結果として人生の様相を一変させるものとなるのか、そのあらわれかたには、人により状況により様々あることだろう。

 私は基本、自分の生活習慣を変更することがあまり好きではなく、変化というものを可能な限り避ける傾向にあり、比較的平穏無事というか、平々凡々というか、変化に乏しいつまらぬ日々を送っているのであるが、そのせいか、変化が訪れるときには一気にやってくる傾向にある気がする。

 たとえば我がつまらぬ人生における最初の転機は、小学校3年生になるときの、引っ越し、転校であった。それは単なる環境の変化というに留まらなかった。それまでの、小学校二年生までの私は、幼稚園児から何となく年月だけ過ぎたような、幼少期の意識の薄明かりのなかにいまだぼんやりと過ごしているような、そんな子供だったのだが、この引っ越しが、一気に私を「少年」に変えた。

 ようするに、一転した環境への適応の必要が、私の成長を促した、ということなのだが、その半ば強制的な変化は、私の、それ以前の幼少期の記憶というものを極端に薄れされる、という副産物を産んだ。そう、私は、例えばある幼稚園に通っていた、という大まかな記憶はあるが、そこで起こったことについての記憶がほとんどない。友達もいたのだろうけれど、誰ひとり名前を覚えていない。顔も思い出せない。ただひとり、顔を覚えているクラスメイトは、田んぼの用水路に落ちて死んでしまった、あの小柄な男の子だけであるが、その子の名前は覚えていない。

 しかしまあ、それは余談である。本題にもどろう。このカタナに乗り始めたその一年後にもまた、私の人生における幾度目かの、ある転機を迎えることになる。つまりカタナを納車したその日から、私はその転機に向けて、知らず知らずのうちに準備を始め、そして進み始めていた訳である。ただ無論、当時の私は、そのときに自分の人生に起こりつつあったことになど少しも気付かず気にもせず、その日その日を暮らしていたのだったが。

 納車され、ついに我がものとなった「センヒャク・カタナ」。新しい相棒の第一印象、それは、「金属の塊」、それだけだった。GPにあまりに強い親和を感じていただけに、まるで違うカタナというバイクに覚えた違和感たるや、最初のバイクたるゼファーに乗り始めたときのあの「よそよそしさ」など、問題にならないレベルのものだった。

 セパレートタイプの低いハンドルとバックステップが生み出す、強い前傾姿勢を強制されるライディングポジション。だが車体は、そんな窮屈な姿勢で扱うにはあまりにも重い、空冷の四気筒エンジンとスチール製のダブルクレードル型フレームからなる、前時代的バイクそのままである。ようするに、元来からして扱いやすいバイクではないのである。そんなバイクに、バイク歴一年、大型バイクは初めての初心者ライダーが乗ったのだから、乗りやすく感じられるはずはないのである。

 私には乗馬の経験などないが、聞いた話だと、馬というものは乗り手がヘタクソだとナメてかかるそうである。私はカタナにバカにされているような気がした。「お前さんにはまだ早いよ」と、そういわれている気がした。私の操作に応えてはくれる。しかし文字通りそれは「機械的」な反応だった。GPに感じていたような親和性は、そこにはなかった。不安を覚えた。限定解除試験に合格し、こうして大型バイクを手に入れたが、私の最終目標はさらに、このバイクで北海道へいくことにあった。しかしこのバイクでは、北海道にまでは辿り着けるような気は少しもしなかった。

 ただ、そんなことは端から見たならばわからないこと、ではあった。周囲から見たならば、私は弱冠二十歳にして「限定解除」をし、名車GSX1100Sに乗るライダーだった。当時、特に静岡のような地方都市で、街で大型バイクを見掛けることなど滅多になかった。大型二輪の免許取得が容易になった今では、初めてのバイクがドカティですとか、ハーレーですとか、そんな話は珍しいことではないし、実際、休日に伊豆や箱根といったツーリングスポットに出掛けなくとも、日常的に、近所の幹線路を大型バイクが走っている姿を眼にする。そんな今とは、当時の状況は全く違っていたのだ。

 すなわち、単に大型バイクに乗っている、というだけでそれは「大したこと」であった、ということだ、少なくとも、バイクに乗っている者達の間にあっては。この事実は重要だった。若者にとって、自尊心が満たされる、ということ以上に、重要なことなどあるだろうか。

 だから当時の私が、そこにひとつの「満足感」を得ていたのは確かだろう。結果、それまでのひたむきさ、というか、「上昇志向」が失われた、というものまた事実だった。運転技術の未熟さは、上述のように自覚していた。上手くなりたい、とは思っていたし、練習目的で走ることもあったのだけれど、GPで限定解除試験合格を目指していたころのような貪欲さ、生真面目さはなくなっていた。

 それでも、当時バイクしか「足」をもたなかった私が、通勤にも買い物にも何にでもカタナを使っていた、というのもまた事実で、少しずつだが、カタナというバイクに慣れていった。交差点で砂に乗ってスリップして転んだり、タイトなカーブの続く東伊豆の海岸線の道で大きく重い車体に四苦八苦、後ろからきた250ccのバイクにあっという間に追い抜かれたりなどしながらも、私はカタナで走った。バイクは感覚的な乗り物だ。結局、上達のためには、「乗る」という方法以外にはないのである。

 このバイクで、本当に北海道にまでたどり着けるのか。その不安が払拭されることはなかったけれども、秋は過ぎ、冬がきて年は開け、1993年となった。北海道へ行きたい。不安よりも次第に欲求の高まりのほうが、強く私の胸を支配いていった。

 そう、二十歳にしてセンヒャクカタナに乗る、ということから得られる自己満足に浸っていられることは、心地よいことだった。そして当時非常な「人間嫌い」であった私には、ただひとり、その心地よさのなかにいられる「バイクに乗る時間」というものが、この上ないものと感じられた。だがそれが自分にとって心地よいものであればあるほど、実生活の味気なさ、下らなさ、居心地の悪さとのコントラストが際立つことになった。

 煩わしい人間関係と、本来ならば全く私とは無関係であるような、つまらない事物の動向に右往左往しなければならない実生活の多忙の空虚さ。オートバイに乗っている間は、そんなものからは遠く逃れられた。ならば、その「バイクに乗る時間」だけが、ずっと続く「旅の日々」とは、どんなに素晴らしいものだろうか。
 
 北海道へ行くこと。それは唯一の道であるように思われた。そこにだけ、答えがあるのだと思われた。


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