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私とオートバイ・その5 Z400GP



 アイデンティティ #2 (1991-1992年)



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 1991年11月11日、御前崎港にて。ビキニカウル、段付きシートなど、「リトルローソンレプリカ」などとも呼ばれた、限定車としての特徴が見て取れる写真。



 寝床に横たわると熱が出た。そしてはじめて涙がこぼれた。どうしても考えられなかったことは、愛人が私を愛するのをやめたということではなくて、私を欺いたことだった。(中略)私は人間が戀において嘘をつけるとは思っていなかった。
 (アルフレッド・ド・ミュッセ 『世紀児の告白』第一部第三章)



 それは当時の私には、ひとつの象徴的な出来事だと思われた。

 高校卒業後、予備校中退というなんとも情けない形でドロップアウトし、所謂フリーターというものになって、まがりなりにも社会に出た、というより社会にこぼれ落ち、そのまま一年半を過ごした、19歳の私。社会、といっても、確かに、そんなに広くはなかったかもしれない。それでも、それは私を失望させるには充分な広さをもつ世界だった。

 各人の利害が見極め難く入り組んで交差する、実社会での人間関係。我々はそこで、付き合う相手を自分好みに選択することを許されない。学生時代との最も大きな違いはここだろう。ある会社組織のある部署に、たまたま集まった人間達と共同して、顧客だとか、取引先だとかの、これまたたまたま出くわした人たちと関わりながら、活動を続けていくなかで、気に入った相手とだけ仲良くして、他の連中とは関わらない、などということは不可能だ。

 気に入らない相手とも日常的に会話しなければならないし、尊敬どころか軽蔑することしかできないような相手に、頭を下げなければならない。そんなことは無論誰でもが社会生活のなかで耐えていかなければならないことに過ぎないが、当時の私はそれを何やらおかしな具合に受け止め、悩んだのだった。

 そうした無差別的な人間関係のなかで、それでもなお息づく人間の「善性」のごときものを見出していくこと、それができたならば人は人を愛せるだろう。愛せないまでも、許せるだろう。だが私は違った。私は人間に過大な期待をかけすぎていた。よほど、それまでに私の周囲にいた人たちが、よい人たちばかりだった、ということか。いや、やはり学校という世界では、人間関係を選択的に築くことができる、ということなのだろう。

 「よい人たち」に囲まれながら、そこで組み上げてきた私の「人間観」。私は、人間とは根本において「善きもの」だと思っていた。十代の中頃に新約聖書に夢中になり、その後何やら「似非新プラトン主義」的な世界観を抱くようになり、「絶対善」としての「一なるもの」じみた何事かの存在を確信するに至った十代後半の私にとって、絶対多数の人々は当り前のように「善意」によって行動している「善人」であり、世に悲劇を生み出すところの「悪人」がいるとしても、それは「例外中の例外」であるはずだった。

 だがそれは所詮、対象について、「自分の見たいものだけ」を見て、自分に都合良く概念化しただけの「勉強部屋の思想」に過ぎなかった。シェイクスピアをいくら読んでも、本当の悲劇とは、悪意なきまま、人々の互いの善意がすれ違うときに最も悲惨に顕現するということに気付けないくらいに、人間を知らない者の「理想」に過ぎなかった。

 そんな「初心で純真」な眼には、現実の人間たちの醜い部分ばかりが際立って見えた。社会とは、人間達が、生きるために生きる場所だった。理想のためにいきる場所ではなかった。互いの利害が、大義が、複雑に絡み合い、ぶつかり合う場所だった。だから確かに、人々に悪意はなかったとはいえるだろう。そこにあるのは悪意でも善意でもない。「自分とは違う何か」の錯綜、なのである。

 しかし若者は、それでもなお、自分の間違いに気付けず、自分の考えを矯めようとはしなかった。それどころか、「自分の考えたものと違った」という理由で、人間に失望したのだった。そこへきて、失恋、であった。詳しくは述べない。面白くもない話である。記事冒頭のミュッセの一節が、ぴったりの出来事だったとだけいえば充分だろう。私はそれを象徴的な出来事だと受け止めた。人間とは、恋においてさえこの有様なのだと、そう思った。

 私は人と深く関わることをやめてしまった。社会の一隅で生きていくことを可能にする程度の人間関係だけを保ちつつ、私はひとりでいられる場所、すなわち、オートバイの上に自分の居場所を見出そうとした。しかしその「人間関係を保つ」ということのためにも、私も例外なく上述の如き「社会人として当り前の対応」をしなければならなかった。自分の嫌いな「人間達の社会」で、そこでのルールに則り、下劣な軽口や愛想笑いで他者のご機嫌を伺いながら、自分の居場所を作り、確保しなければならなかった。その場に相応しい「私」でいなければならなかった。その結果産まれたのは、どうにもならないほどの自己嫌悪だった。

 私は人々の間にある自分を嫌悪した。私の失望した「人間」というものには、私自分も含まれていたという訳だ。その分だけ、ひとりオートバイに乗る自分は純粋でありたいと思った。ひたむきに、その世界にのめり込みたいと思った。おかげで私は、実に真摯にあのオートバイという乗り物に向うこととなった。具体的には、私は「限定解除」を目標と見定めたのである。

 現在の免許制度では、「普通自動二輪免許」の取得によって400cc までの、そして「大型自動二輪免許」によってそれ以上の排気量のエンジンを持つバイクの運転が許される、という形に大別されているが、以前はこれとはちょっと違っていた。50cc以上のバイクを運転するために必要な免許は、基本的に「自動二輪免許」というものがひとつあるきりだったのだ。じゃあ、この免許さえ所得すれば、ナナハンだろうが1100ccだろうが何でもOKだったのかというと、そんなに甘くはなかった。この「自動二輪免許」のなかに、小型限定(125cc未満まで)、中型限定(400cc未満まで)という形の制限が設けられていたのだ。

 当時の常識的な免許取得の手順は、まずは「中型限定」の「自動二輪免許」、所謂「中免」というものを取る、というものだった。なぜ最初から「限定」無しの「自動二輪免許」を取らないのか、というと、これがとんでもなく難しく、バイクの運転経験のない者がいきなり取得することは、法的には問題ないのだが、現実的にはほぼ不可能だったのだ。

 まずそれは、普通自動車免許や「中免」のように、公認の自動車学校で取得することはできなかった。運転免許試験場に赴き、試験場のコースで行われる、所謂「一発試験」に挑み、合格する必要があった。750ccの乗り馴れない大型バイクにいきなり乗せられて、走ったこともないようなコースで、「中免」の試験よりも数段難度の高い課題走行をさせられるのだ。しかも、その採点基準の厳しさといったら、もう試験官は、「いかにして不合格にしてやろうか」と、それしか考えていないんじゃないかと思われるぐらいで、合格率は全国平均で一割以下、といわれていた。

 何年もバイクに乗っているようなひとでも、ちっとも合格できず、十回以上も受験して漸く合格できた、などという話だって全く珍しくもなんともなかった。よって、バイク未経験の初心者は、おとなしく「中免」を取り、それで満足するか、どうしても大きなバイクに乗りたければ、自分で練習して、その超難度の試験に挑む他はなかった。そしてこの試験のことを、「中型限定」を「解除」するための試験、ということで、「限定解除」、と呼んでいたのである。

 どうしてその所謂「限定解除」が、そんなにも難しいものとなってしまったのか、というと、1970年代の暴走族最盛期に、昔は本当に「何でもOK」だった「自動二輪免許」を取得した十代の若者達が、最高速度は時速200kmを超えようかという当時のナナハン(750ccのバイクの通称)を乗り回して無茶をし、大量の死亡者が出たことが理由だ、というのが一般的である。そのために、運転が未熟な者はナナハンなんかには絶対に乗れなくしよう、ということで、免許制度が改革され、試験が超難関になってしまったという訳だ。

 ちなみに現在、自動車学校に通えば、「限定解除試験」と比べるならばお話にならないほどに簡単に「大型自動二輪免許」が取れるようになったのは、自国の大型バイクを日本市場で売りたい諸外国(特にアメリカ)からの外圧があったからだ、というのが通説である。それが本当か否かは別として、大型バイクに乗りやすくなった、というのはまぎれもない事実である。つまり、ライダー達の自由度が増した、と言い換えることができる訳だが、これからのライダー達が、簡単に高性能な大型バイクに乗れるのをいいことに、無茶な運転をして交通事故が増加するようなことになるならば、お上はまた規制にのり出さざるを得なくなるだろう。ここでも、「自由」にはいつでも「義務」が伴うことを忘れてはいけないのである。

 まあそんな誡めはともかく、十九歳から二十歳になろうという私が、最も大型バイクに乗るのが難しい時代にぶち当たってしまった、というのは確かだろう。だがしかし、当時のライダー達は、無論与えられた環境を当然のものとして受け入れ、そこで走る方策をそれぞれ見出していた。そして私は、「限定解除」に挑戦することを決めたのである。それはきっと、社会のなかで揺るがされた「自分」というものを、なんとかして再び取り戻すための、私なりの努力、あるいは抵抗、だったのだ。

 社会で生きるためには「自分」というものを捨てなければならなかった。しかし、自分の大好きなオートバイ、というものについてだけは、「自分」を譲りたくはなかった。そこでだけは「中型限定」いう制限を許容したくなかった、というよりも、「限定解除」を可能にするぐらいの「完成度」を求めた、といったほうがよかった。その「完成度」によって、私は「自分」が「自分」であることを証明し、また確認したかったのである。私は、「限定解除」のために走る、ということを始めた。


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