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私とオートバイ・その3 ゼファー


 インフレーション #2 (1991年)



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 1991年6月27日、静岡県榛原郡川根本町の寸又峡への、記念すべき初ツーリングのときの、写真の写真。




 5月の陽光に、きらきらと輝くパリパリの新車。梅雨入りを眼の前に、ゼファーは私の元にやってきた。とうとう手に入れたオートバイ。しかも、今度はアニキのおさがりなんかではない。自力で手に入れた、正真正銘まっさらな新車である。

 しかし納車にきてくれたバイク屋さんのトラックが帰ってしまい、ピカピカのゼファーとひとり向き合ってみると、なんだか、不安になってきたことを覚えている。諸経費を含めて50万円を優に超える買い物など、生まれてはじめてのことであった。そんな大金を払って手に入れたバイクだったが、どうにも、自分のものになった、と思えなかった。まだ実感がわかない、というものとは違っていた。一台の400ccのオートバイの所有者たる、自信がなかった、というほうが合っていた。

 新車のゼファーは、未だ自分は誰のものでもないのだといわんばかりの、冷たい工業製品然とした顔をして、私の目の前に佇んでいた。そのよそよそしい重い金属の塊が、私の手にゆだねられたのである。なんだかとんでもない買い物をしてしまったんじゃないかと、私はそんなふうに思った。そんな自信喪失感を無理にでも払拭しようというように、私はエンジンに火を入れ、ヘルメットをかぶり、バイクに跨がった。

 オートバイは、バランスの乗り物である。自転車やスキーみたいなものである。感覚的な部分が大きいので、乗り馴れないバイクにはどうにもならない違和感を覚える反面、乗り馴れたバイクには文字通り自分の手足のような親和を感じることができる。ようは、乗れば乗るほどに、「自分のもの」になっていくのがバイクというものである。

 私はゼファーに乗りまくった。DJ-1のとき以上に乗りまくった。どこへ行くにも、というばかりではない、わざと遠回りしてでも乗っている時間を増やし、毎日買うタバコは20km先のコンビニまで買いに行った。おかげで日に日にゼファーは「私のもの」になっていった。棒状の金属製の部品でしかなかったブレーキレバーが、やがて自分の指先にしっくりと馴染み、エンジンの振動が自分の呼吸や鼓動と同調していくようなあの感覚は、きっと、ライダーならば知らない者はいないだろう。

 それは同時に、運転技術の進歩をも意味した。これまた自転車やスキーと同じく、乗れば乗るほど上手くなるのがバイクというものである。あの納車の日、おっかなびっくり走り出した私であったが、一ヶ月後には、もう交通の流れに乗って走ることに何の不自由も感じなくなるぐらいには、きちんとバイクを操れるようになった。高速道路も走ってみた。かつて50ccのスクーターでの時速60kmに恐怖してブレーキをかけた若者は、400ccのバイクで時速100kmを超えた。最初はやはり怖かった。しかしその恐怖は、走行感覚からというよりは、スピードメーターが3桁の数字を指したことからくる、おかしないいかたではあるが、「倫理的」な恐怖感だった。「わ、俺、百キロも出しちゃったよ」、といったところである。ゼファーはそんな私のことなど気にもとめず、安定を保ったまま何の問題もなく、高速道路を時速100kmで走った。そして、さらに速い速度でも。

 排気量400cc、46馬力のオートバイが、次第に、自分の身体に馴染んでいく。その胸のすくようなスピードが、次第に、当り前な移動速度になっていく。そう、オートバイのある生活が、自分の日常になっていく。すると若者はまた錯覚する。その乗り物の力が、「自分の」力であるのだと。

 オートバイは、バランスの乗り物である。サン=テグジュペリはその『人間の土地』のなかで、「本然」というものについて語った。


 「やがてその日が来る、その日、きみは、彼女(羚羊)たちがその小さな角で、砂漠の方角に向って、柵をしきりに押しているのを見いだすだろう。
  (中略)
 彼女たちは、羚羊になりきり、自分たちの踊りが踊りたいのだ。時速三十キロメートルのスピードの、まっしぐらな遁走が味わいたいのだ。(中略)金狼どもが待ち伏せているぐらい、なんのその、もしも羚羊の本然が、恐怖を味わうことにあり、恐怖だけが、余儀なく自己を超越させ、最大の跳躍を成就させるものであるなら! ライオンどもが待ち伏せていようと、なんのその、もしも羚羊の本然が、白日のもと、猛虎の爪の一撃に引き裂かれて果てることにあるのなら!」

 (サン=テグジュペリ 『人間の土地』第八章2節 堀口大學訳)


 そのもののあるべき姿にあるときだけ、きっと、そのものは自身の有り様に満足できる。そのために、そのものはいかなる状態にあろうとも、意識的にであれ、無意識的にであれ、自身の「本然」の実現を求めるのである。少々大袈裟な言い方になったが、オートバイがバランスの乗り物である以上、そのバランスの乗り物たるを最も強く体感することのできる「コーナーリング」というものに、ライダーたちが夢中になるのは必然、といってしまってよいのかも知れない。

 車体を大きく傾けてカーブを抜けていく、バイクのコーナーリング。力学的にいうならば、コーナーリングGすなわち車体に掛かる遠心力と、カーブの内側に車体を傾けることで移動された重心に掛かる重力との合力を、タイヤと地面との接点の方向に向けることによってバランスを取っている、ということになる。

 だから、外からみたならば倒れんばかりに車体が傾いていたとしても、当のコーナーリング中のライダーは、車体や自分がカーブの内側に倒れようとする力は感じない。そしてまた、例えば車でカーブを曲がる時のようにカーブの外側への強い遠心力を感じることもない。このいずれかの力をライダーが感じた時とは、即ち、何らかの原因でバランスを崩して転倒するときである。

 ただ、ライダーも自分とバイクとが大きく傾いた姿勢を取っていることは勿論自覚している。強く自覚している。もし止まっている状態ならば、間違いなくぶっ倒れてしまうはずの、危うい体勢だ。しかも、ライダーはその傾いた車体の上部に跨がっているのだから、コーナーリング中には、自分の真下の 自分と地面との間には、何もない空間がすっぽりと空いていることになる。それはまるで空中を滑っているようにも感じられる。

 そんな体勢なのに、バランスの上に安定している。しかも、バイクは高速で走行しているのである。その爽快感は、もう、経験した者にしかわからないだろう。オートバイという乗り物の特性が、最も純粋に発揮される瞬間である。そして、コーナリングスピードが上がれば上がるほど、車体に掛かる遠心力は増すので、当然その分だけ車体を大きく傾ける必要が生じ、その「特性」がより強く発現することになるため、ライダーたちは往々にして、コーナリングの爽快感を高めるためだけに、コーナリングスピードを高めていこうとする。自らの運転技術を磨き、より速い速度を出すことに精を出すことになる。

 19歳の私もまた、その魅力を知り、夢中になった。静岡市内に、日本平パークウェイ、という道がある。山頂にある展望台や、久能山東照宮へと続くロープウェイの乗り場と、麓の市街地とを結ぶ所謂「峠道」で、地元の「走り屋」にはおなじみの道なのだが、そこへと、私も通い始めたのである。「ローリング族」などと呼ばれることもある、コーナーを猛スピードで抜けていく危険走行の常習犯たちの、新しいお仲間となった訳だ。

 私は毎日のように、日本平に通った。乗れば乗るほど上手になるのがバイクというものである。私の技術もみるみる上達した。愛車は、エンジン性能も、コーナリング性能も、50ccのスクータとは比較にならぬほどに高い、ゼファーである。どんどんスピードを上げていく私に、ゼファーは確実に応えてくれた。

 車と違って、ライダーが跨がっていなければマトモに直立して停車していることすらできないのがバイクである。言い換えるならそれは、バイクとは車体の乗り手への依存度がきわめて高い乗り物だということだ。だから、ライダーは車体を自分が操っているという感覚を強く感じる。それは決して錯覚ではないのだけれど、しかし、猛スピードでコーナーを駆け抜けていくことを可能にする動力性能の全てが、ライダー自身に由来するのかといえばそれは無論そんな訳はない。だが、若者はやはりここでも勘違いをするのである。

 数年前まで自転車で移動していた少年が、今や、そこらへんの大人たちが運転する車などよりもはるかに速いスピードで走り回る。若者はその変化を、自身の成長だと捉える。自分が短期間に、爆発的に進歩したのだと考える。確かに成長がそこになかった訳ではない。新たな能力を実際に手に入れたのは事実なのだから。しかしそれが過大評価されるとき、結果が、その過大な自己評価を矯めることになる。8月下旬、その時はなんの前触れもなくやってきた。

 そのときのことを、私はまるで覚えていない。私の記憶は、その夜、大体8時頃にいつものように日本平へ行き、まずは頂上の駐車場でいつものように一服しながら缶コーヒを飲んだ、そこまでで途絶えている。

 私はまずガソリンの臭いとともに眼を覚ました。正確には「意識を取り戻した」というべきなのだが、私がまず思ったのは、「あれ、俺はいつの間に寝ていたのかな」ということだったのだ。そこは暗い草むらだった。横たわる自分の身体が、草のなかに信じ難いほどに重く重く沈んでいた。

 日本平パークウェイ静岡側下り、「オデン屋コーナー」手前、といえば、地元の走り屋ならば大体どのあたりかおわかりだろう。道路外に飛び出し、大破した我が愛車ゼファーは、どうした具合か片方のウィンカーを点滅させていた。夜闇のなかのそのウィンカーランプに気付いた他の走り屋が呼んでくれた救急車が、全身の痛みに苦しむ私を連れ去った。

 納車から3ヶ月。新車のゼファーは修理不能のポンコツと化した。

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