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『かもめのジョナサン 完成版』

 

かもめのジョナサン完成版かもめのジョナサン完成版
(2014/06/30)
リチャード バック、ラッセル マンソン 他

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 物語の重心


 去年一年間、このブログをいわば「サボっていた」私だが、その間、本も読んでいなかったのか、というと、そうでもない。たくさん読んだ訳ではないが、何冊かは読んだ。そしてその内の幾つかについては、記事を書こうとはしたし、またその内の幾つかについては、実際記事を書き始めてもみた。

 結果的には、無論、すべて途中で投げ出してしまったのであるが、その未完の記事のなかに、『かもめのジョナサン』があった。これについては以前にも記事を書いたことがあったのだが、私の今の境遇と照らし合わせて、少々思うところがあって読み返したのだった。ざっくりいうと、「自由」について少し考えてみたかったのだ。しかし、他ならぬその「自由」な時間の絶対的な不足のために、数行書いたところで頓挫、結局それきりになってしまった。

 ところが最近になって、この物語についてのある注目すべきニュースにたまたま接した。三章からなる『かもめのジョナサン』であるが、実は未発表の「第四章」があり、それを追加した「完成版」が、最初の版の1970年の出版から43年がたった昨年2013年になって発表され、その日本語訳もまた、出版される、というものだった。

 発売日、近所の本屋さんに行ってはみたものの、置いていない。田舎町の本屋とはいえ、それなりの売り場面積のある店だったのに、こんな有名な作品の新版を置いていない、ということは、つまり売れる見込みがない、ということで仕入れなかったということだろう。

 これが現代日本の文化というものの現実なのだなあ、などとひとりで情けない思いなどしつつ、中心街のもっと大きな本屋に行くのも面倒なので、Amazonで注文した。これまた日本の文化の現状をあらわしている。消費者が本屋を利用しなくなったので、本屋としても、あんまり売れそうもない本など仕入れる余裕がなくなった、ということだ。その結果、我々消費者が本屋でぶらぶらと本を物色する楽しみがどんどん失われていく。なぜなら、店頭には誰もが知っている、売れるのが確実な話題の本ばかりが並ぶようになるからだ。それがどれほど我々にとって不利益なことか、よく読書をするひとにはすぐに理解できることだろう。

 話がそれた。『ジョナサン』である。正直、心配ではあった。少なくとも、尻切れトンボな感じは少しもなく、きっちりと完結していたのが『旧版』である。それに後から一章加えるとなると、物語の全体のバランスが崩れてしまうのではないだろうか。殊に、簡潔さがひとつの特徴であり、魅力であり、生命線である、『ジョナサン』のような作品においては。

 もしこの『完成版』が、一章を加えることで、40年前のベストセラーに新たな「商品価値」を与えようとの意図のもとに生み出されたものであったならば、それは最悪の事態である。無理な改変は必ず作品のバランスを破壊する。『旧版』が傑作であったならばなおさらである。文学は論理式ではなく、一個の有機物なのだからである。

 だが私のそんな心配は、まさしく杞憂というものだった。「全四章」が本来の形であり、この『完成版』はその本来の形に戻しただけだ、と考えれば当然なのではあるが、通読してみて、全く不自然なこともなく一個の作品として存立し得ていることはすぐに知れた。だがだとすると、おかしいのは『旧版』のほう、ということになる。最後の一章を欠いた『旧版』が、どうして、物足りなさも感じさせることなく、あれほどの「傑作」として完成し得ていたのだろうか。

 その理由を、今の段階で私ははっきりと指し示すことはできないけれど、新旧のふたつの版の間には、一体どんな違いがあるのか、それを考えてみることはできそうである。両者の違い。本当に、単に第四章の有無だけが両者を分けるのだけれど、これによって、物語のもつ性質に、きわめて大きな、そして興味深い変化が生まれていると、私は思った。

 『旧版』については、私は一度記事を書いている。そこではジョナサンをツァラトストラになぞらえてみたりもしたのだったが、ようするにそれは、ジョナサンという一羽のカモメの、自己実現、あるいは自己超克のための、求道的な物語であった。

 それはあくまでも「ジョナサンの物語」であり、彼が、第一、二章において自分が学び得たことを、第三章で若いカモメたちに教え、フレッチャーという、新たな教師たり得るいわば自分の後継者を見出し、生徒たちの前から姿を消したところで、物語は幕を閉じる。三人称で書かれた物語ではあるけれど、視点は終始ジョナサンにあり、彼から物語が離れるときが、物語の終わりであることはごく自然だし、必然である。

 だが、それに続く第四章は、「ジョナサン以後」の、カモメの群れの物語、ジョナサンの教えの受容の物語である。つまり、ジョナサン抜きで、ただ彼の「影響」だけが残る舞台で、物語が進行するのだ。この第四章という、いわば「異質」な章。この章が加わったことによって、最も大きな影響を受けたのは、私は、実は第三章である、と思った。無論その後に一章加わったからといって、第三章の内容自体に変化が生まれる訳ではない。しかし、第三章が、物語全体の内にもつ「意味合い」が変ったのだ。

 第四章が「異質」だと私は書いた。しかし実は、「旧版」においては第三章こそが、第四章と同じ意味で「異質」であった。最初の二章は、あくまでもジョナサン自身の物語である。ジョナサンの、変化と成長の物語である。しかし第三章では、最早彼は変化も成長もしない。彼が、他者に変化や成長を促す立場になる。物語は、もうすでにジョナサン「だけ」のものではなくなっているのだ。

 だが「旧版」は、全体的にはあくまでも「ジョナサンの物語」だ。第三章という「ジョナサンと他者との物語」も、やはり「ジョナサンの物語」のなかで、ジョナサンが経験するひとつの出来事だと感じられる。物語も、そしてそれを追う読者の視点も、ジョナサンと共にあり続ける。しかし第四章という、ジョナサンが抽象化された上での「他者たちの物語」が加えられることで、第三章が、「他者との物語」としての性格を強めるのである。そして結論をいってしまうならば、それによって、作品全体が「ジョナサンと他者との物語」へと変質している。

 単純に、力学的に考えてみるのもこの場合面白いかもしれない。「旧版」においては、純粋な「ジョナサンの物語」としての第一、二章が、全体の三分の二をしめることによって、「他者との物語」であるところの第三章をも巻き込んで、全体を「ジョナサンの物語」たらしめていた。しかし「完成版」においては、ほぼ純粋に「他者の物語」であるところの第四章が加わることで、こんどはこちらが第三章を巻き込んで、全体を「ジョナサンと他者との物語」、つまり後半の性質のほうへと大きく傾けさせる結果を生んでいる。「他者」と関わる章の「分量」が増すことで、そちらのほうに物語の重心が移動しているのだ。

 勿論これによって、物語の主題が変わる訳ではない。全体が謂わんとしていることは新旧ともに同じである。だがその表現方法が変わることで、当然、読者が受ける印象は変化することになる。私にはそれは、読者である私と物語との、距離感の変化として感じられた。

 「ジョナサンの主観」という視点で、物語が進行する「旧版」は、読者もやはり主観的に読む。自分をジョナサンになぞらえて、あるいは、自分にとってジョナサンとはいかなる意味をもつのか、そんなことを考えながら。この風変わりな物語が、自分にとっていかなるものなのか、読者の興味は多様ではあっても、畢竟そこに収斂するのではあるまいか。

 しかし「完成版」には他者が関わってくる。これによって我々の視点もまた客観的な方向にシフトする。ジョナサンのような存在が、ある共同体のなかに現れたとき、その共同体はどのように反応するのか。こうした新たな視点が生まれる。そのとき、ジョナサンとは最早読者にとっては客体である。

 「旧版」においても無論、ジョナサンは群れのカモメたちとの摩擦に出会っていた。しかしそこで問題にされたのは、「他者の抵抗にあったときのジョナサンの行動」であった。「完成版」では違う。「ジョンサンのような「天才的」な存在と出会ったとき、普通のカモメたちの集団である群れ社会はいかなる反応を示すのか」、それが問題となる。上述の新しい視点とはこういうことだ。

 物語の主題は変わらない。だがその重心が変わり、視点が変わったことで、その物語を感受する読者たる我々にとって、この物語が意味するものが変化した、と、それが私の「完成版」の読後感である。新旧どちらがよいのか、それを決めることはできないし、多分、それを考えることに大した意味はないだろう。ただ、それぞれにはそれぞれの、役割、のごときものはあるのではなかろうか。

 私は、若い読者がはじめてこの『ジョンサン』を読もうというのであれば、迷いなく「旧版」のほうをお勧めする。若いひとには、周囲との関係もさることながら、まずは自己形成が大切だと思うからだ。ならば『ジョナサン』は「主観的」に読まれるべきだろう。ジョナサンのいう「飛ぶこと」とはいったいどういうことなのか、若者はまずそれを想うべきだからだ。

 しかしその若者も、やがて社会に出て他者と関わらずにはいられない。多数者の内にあって、そこで生きるということとは、クサいいいかたではあるが、自分の思想が試されることである。それまではただ自分のなかでのみ、想い悩み、育んで来たもの。その結論であるところの自分という人格が、いよいよ実社会において試験されるのである。それまでの自分には考えもつかなかったような高邁な精神や、根深く揺るがし難いような旧習。自分と対立する正義、あきれるほどの不条理。そうしたものと出会い、勉強部屋で生まれた自分の思想を、人生を生きるための支柱たるに耐え得る、本物の哲学へと鍛えあげていくのである。

 そんな段階にあるときには、私はこの「完成版」を読むべきだと思う。何やらエラそうなことを書いたが、私もまだまだ、勉強部屋の思想から抜けきっていない。近頃ではとくにそれを思い知らされる。そんな私には、この「完成版」はぴったりであった。日々の生活の煩雑さに翻弄される我々とは、つまりは「群れのカモメ」である。そんな我々が、再びあの「ジョナサン」をみつめようとするならば、その視点はまさに、この「完成版」と共にあるのではなかろうか。

 いろいろ書いたが、結局今回は、物語の「構成」のことだけで終わってしまった。冒頭でちょっと触れた、この物語の主題のひとつたる「自由」についても、また考えてみたいと思っている。


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