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『羊をめぐる冒険』

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)
(2004/11/15)
村上 春樹

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夢であることのリアリティ

 『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』に続く、三部作の第三作。前二作を中編と呼ぶべきだとするなら、今作は長編ということになる。何せ、前二作を両方合わせたぐらいの分量があるのだ。

 そして本作の異質さは、単に分量の問題には留まらない。これらを三部作としてひとまとめにすることには、私としてはかなりの違和感がある。あくまでも前二作からの続編として本作を捉えようとするのならば、この『羊をめぐる冒険』という作品全体を、主人公である「僕」の「夢」だとする他はないのではないかと、そう思わざるを得ないほどに異質だと感じられた。

 確かに、人物設定やその関係などは、前作のものをそのまま受け継いでいる。しかし本作は、前二作と比較するならばほとんど「ファンタジー」である。『風の歌』では、青春というものの、あるリアルな側面を描いた。『1973年』では、その青春が必然的に結果するであろうことを描いた。どちらも、その「出来事」のリアリティによって(多分に「小説的」ではあるとしても)、作品としての完成度を得ているといえた。しかし、本作においては、出来事はとにかく「突拍子もない」ものばかりである。それが、私にこの作品を捉え難く、評価し難いものとして感じさせた。

 読み物として面白いのは確かだ。私はこの作家のものをたくさん読んでいる訳ではなく、本作で五作品目ではあるのだが、物語がこれほどに素直に一直線に、発端から結末まで時間軸に沿って進んでいくものは、これまでに読んだ四作(前二作と、『ノルウェイの森』、そして『海辺のカフカ』)にはない形であり、これは物語のなかへとすんなりと入り込むことを助けてくれた。そしてその物語自体、読者を引っ張って先へと急がせる力を充分にもったものだった。

 つまり、物語としての完成度が高いのだ。その結末に、解釈の余地を残しすぎている、という理由で、物語の自己完結性が損なわれている、ということもできるのかもしれないが。しかし、前二作を支配していた、あの徒労感というか、閉塞感から脱し、物語が躍動しているのもまた確かだろう。前二作の成功を、私は、物語性というものをもたず、ただ静的な世界観だけを描いたことに見出したのだが、今作においては、世界観の構築なるものは前二作にまかせ、ただひたすらに物語性を重視したことが、作品の完成度を上げているのだ、と思えた。そうした意味でもまた、本作は「異質」だといえるのかもしれない。

 では、この「異質」で捉え難い物語をどう読むのか。ただ「解釈」のみを目的とするならば、やはりユング心理学をもって読み解いてしまうのが近道か、とは思えた。この物語の登場人物に、ユングの所謂「元型」的なもの、いいかえるならば「神話的モチーフ」に通じるものを見出すのは容易だ。例えば、耳モデルの彼女に「アニマ」を、羊博士に「老賢者」を、という具合にだ。そして物語の最後の舞台となる山上の別荘を、主人公の無意識の闇の奥、集合的無意識の世界だ、などと解釈すれば、まあ一通りユングの「基本形」にはめ込むことができるだろう。

 そして実際、それが正しいのかもしれない。この作家には、どうもユング心理学への傾倒が感じられる。特に『海辺のカフカ』においては強く感じられた。しかし、それでお終いにしてしまうのもつまらないので、今回は敢えて、ユングを持ち出さずに、また違う側面から、この物語を見てみようと思う。

 私は先日の『1973年』についての記事のなかで、『風の歌』において描かれた青春が、『1973年』においてあるひとつの形として結末をみた、というようなことを書かせていただいた。その見方には、今も変化はない。しかしだとすると、この三作目というものは、二作目で完結したはずの物語に、さらにあとからくっつけられた「大いなる蛇足」ということになってしまう。これをどう考えるべきだろうか。

 私は、まさしく「大いなる蛇足」であるのだと思う。そして結論からいってしまうならば、この作品は、「蛇足」的なものとして書かれたからこそ、作品として成功したのだ、と私は思った。

 『風の歌を聴け』という、ある青春の物語は、『1973年のピンボール』という形で、結末を迎えた。「僕と鼠」の物語は、だからここで終わったのだと考えるべきだろう。だが、人生というものは青春をすぎてもさらに続くもの、あるいは、続いて「しまう」ものなのだ。小説、というものは、終わることで自己完結し得るものだ。しかし実人生というものはそうはいかない。否でも応でも続けなければならない。

 太宰治の印象的な言葉。

       生きて行く力
  いやになってしまった活動写真を、おしまいまで、見ている勇気。


                              (『碧眼托鉢』)

 そう、私には、この『羊をめぐる冒険』という物語が、その太宰の所謂「勇気」なるものを得ようという物語である、と読めたのだ。

 主人公は、物語の序盤で多くを失う。まず彼はジェイの店と、その店のある「街」を失う。それは彼の青春の舞台となった場所だった。また、妻と、仕事をも失う。つまり、彼は彼の青春が結果したものを失ったのだ。だがそれらは、本来「行動しない」人物であるところの彼が、自ら積極的に「得た」ものではなく、偶然だとか、なりゆきだとかが彼に「与えてくれた」ものであった。つまりそれらは、彼が彼の人生を生きることを可能にするものとしては、相応しくはないものだといえるだろう。だから「必然的」に、それらは清算された。清算される「べき」ものであったから。

 そしてさらに、彼は彼の人生を生きるための力を得る必要があった。そのために、彼は「必然的」に、旅立たなければならなかったのだ。それがつまり、「羊をめぐる冒険」なのであり、鼠を探す旅であったのだ。だから、この物語は、前二作の続編ではあっても、前二作の「結末」なのではなく、新しい何事かの「発端」だとみるべきだろう。私が「蛇足」だというのはこうした意味において、だ。

 だが実人生において、こうしたはっきりとした「転換点」というものが得られる、ということはほとんどない、というかほぼあり得ない。あとから思い出して、ああ、あの時がどうやら俺の人生の分岐点だったのかなあ、などとしみじみ思う、というのが実際のところだろう。

 しかしだからこそ、この作品が「ファンタジー」であることに必然性が生まれるのだ、といえるのだろう。こうした「決定的出来事」が起こる様を、現実的に描いてしまうことのほうが、実は「本当らしくない」のである。この物語は、ファンタジックであることによって逆説的にリアリティを得ているのだ。そう、これはやはり「夢」なのである。「夢」であることによって、前二作との有機的な繋がりが生まれているのだ。

 だとするならば、「解釈の余地」を多く残して物語を終えてしまっていることにもまた、ある正当性が生まれることになる。この物語が「発端」であるならば、勿論、それがどう発展し、展開し、やがていかなる結末を迎えるのか、それは全て、この物語「以降」にゆだねられていることになるのだから。

 そしてさらには、この三部作の主人公とは(鼠もそうだが)つまり作者自身の分身であるのだから、この物語は、ある年齢に達した村上春樹という作家が、自分の若かりし日々に決着をつけ、作家としてこの先を生きていくためのある方向性を見出そうとした作品である、とも読むことができるのだろう。その方向性とういものが具体的にどういうものなのか、それはもっとこの作家のものを読んでみるより他に知る術はないが。

 「ユングを持ち出さずに」いくつもりが、どうも、次第にユング的な解釈に近づいていってしまった感もあるが、私の「むらかみはるきはどんな作家なのか」を知ろうという作業に、ひとつのテーマ、というか、視点のごときものを得ることはできたように思う。

 例えば『海辺のカフカ』などは、私には失敗作のようにしか読めなかったのであるが、しかしもう一度読んでみても面白いのかもしれない。あの作品が失敗作であるのか否かは別として、かつて読んだときにはみえなかったものを、もしかしたら見出すことができるのかもしれない、という意味において、だ。

 ということで、なかなか有意義な読書であった。読みやすく、物語も面白く、それでいてあっさり読み終えてしまうことのできない深みのある、そんな作品であった。これを全村上作品のなかでも最高傑作だと評するひとが少なくないことも頷ける。そして私自身、どうやら「人生の転換期」らしき時期にあるようなので、もうすこし深く、この物語についていろいろと考えてみるべきなのかもしれない。

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