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『1973年のピンボール』

1973年のピンボール (講談社文庫)1973年のピンボール (講談社文庫)
(2004/11/16)
村上 春樹

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紙一重

 村上春樹作品は、私にとってこれが四作目だ。先日読んだ『風の歌を聴け』が処女作で、本作はその続編である。

 『風の歌』は、『海辺のカフカ』よりも、『ノルウェイの森』よりも良かったが、この『1973年のピンボール』はさらに良かった。処女作に感じられた「良さ」が、さらに強調された感じを受けた。

 淡々とした、あるいは乾いた、といってもいい文体は相変わらずであり、「金に困らない若者たち」というものがちょっと鼻につくのも相変わらずだ。しかしこれはもう「村上春樹作品」の特徴のひとつなのであり、これが嫌で我慢できないならばもう、この作家のものを読むことを諦めたほうがよさそうだ。好き、嫌いの問題は感性的なもので、これはもう理屈ではどうにもできないものだ。

 この文体は、つまり、村上春樹の物語世界を形作るために欠かせないものなのだ。そう、過去に私は、この作家のものについて、「世界観の構築」という点から、幾つか記事を書かせていただいた。なので今回もまた、まずこの辺りの観点からこの作品をみてみたいと思う。

 しかしもし、『風の歌を聴け』という作品において、その「世界観の構築」に成功しているのだとしたら、この『1973年』においてもまた然り、ということになるだろう。この作品は、『風の歌』の世界観をそのまま引き継いでいるからだ。よってその点については、もう答えは出ている。前作と同じく(あるいは『ノルウェイの森』や『海辺のカフカ』とも同じく)、この作品でもまた、その「世界観の構築」には成功している。

 だが、私は先日、『風の歌』についての記事のなかで、あの『風の歌』という作品は、若さ、というものが、時間や可能性やを浪費するものとして描いたということ、つまり、結局「何も起こらない」ということによって、作品として成功しているのではないか、というようなことを書かせていただいた。この点についてはどうだろうか。

 この『1973年』は、『風の歌』から二年後の物語である。私は、この二年という年月が「過ぎた」、ということに注目すべきものがある気がする。

 そう、青春時代というものが、何かが起きそうで起きないものだとしても、時は過ぎ、何かが「結果する」ということ、これもまた確かなことなのだ。この、積極的に求められたのではない、あくまでも「なりゆき」が最終的に結果したものとしての「続編」として、この作品は、非常によくできていると思う。

 つまり『風の歌』の、虚脱感というか、徒労感というか、閉塞感とでもいったものが支配するあの物語世界が、二年という時間の経過した後に、たどり着くべきものとして、不自然なところなく導き出せるようなものを、新たな作品として表わすことに成功している、ということだ。

 その象徴として、配電盤の挿話があり、あるいはピンボール台の挿話がある。非常にわかりやすく、納得できる舞台装置だと思う。変に飛躍した「メタファー」が好きな作家ではあるけれど、ここはわかりやすくして正解だと思う。なぜなら、これは物語の主題に関わる大切な部分だからだ。まだ充分に問題なく使える配電盤。しかし周囲が変化し、それは「そのまま」でいることができなくなり、新しいものと交換される。それはまさしくこの登場人物たちの青春の終焉の様だ。そしてピンボール台も、また。

 さらに、私はこの作品には、ところどころに「抒情性」を感じた。村上春樹の作品にこれを感じたのは、初めてだといっていい。直子の故郷についての描写(犬のいる駅のあたり)などもよかったが、なんといっても、「鼠」の物語が語られる部分に、私は強く惹かれた。

 この物語は、「僕」と、「鼠」というふたりの人物の、ふたつの物語が同時進行する、という体裁をとっているのだが、前作『風の歌』と同じく、「僕」も「鼠」も、共にあるひとりの人物(つまり作者)の分身であり、本来は同じ人間である、と考えてよいと思う。そして「鼠」の部分の場合、三人称で語られることによって、語り手と作中人物との間に、ちょうどよい「距離感」が生まれているのだ、と感じた。

 私にとって、これはひとつの発見だった。ああ、村上春樹という作家は、こんな文章も書けるのだな、と思った。だがこれは皮肉にも、「僕」の物語の部分については、その語り手と作中人物との「距離感」というものが、うまく保たれていないのだ、ということをも同時に意味することになる。

 簡単にいってしまうと、「鼠」の部分は、「普通の小説」なのである。だから、情動的な場面でも客観的に描写し得るし、そのために、感情の動きというものを「抒情性」というかたちで「文学的に」描き出すこともできる訳である。「普通」であるということは、やはり「王道」なのだろう。

 しかし「僕」の部分はどうだろう。「村上春樹らしさ」という点では、こちらのほうが勝っている。つまり、作者がねらった「効果」というものの主軸は、間違いなくこちらにあるはずなのだ。しかし前述のように、こちらにおける「距離感」は、「鼠」の部分のようにはうまく保たれてはいない。

 近すぎるのだ。こうした、乾いた、淡々とした調子で語るのならば、もっと距離をとるべきではないだろうか。あるいは遠すぎるのか。これほどに「僕」に近づこうというのならば、もっと感情的に語るべきなのではないだろうか。

 私が「皮肉にも」というのはこうした意味において、だ。この作家は、「世界観の構築」がとても上手だと、私はこのブログで何度も書いてきたが、その「世界観の構築」のためには、前述のようにこの文体は不可欠、といっていいと思う。しかしこの文体で語るかぎり、「僕」とのよい距離感は掴み得ないと私は思う。

 それでも、作品が作品として成り立ち得たのは、前作『風の歌』においては、時間軸というものが欠落した小世界を、「物語がない」物語として描くことに徹したからであり、本作においては、その時間というものを、「続編」という体裁をとることによって、即ちある原因が結果したものを、ただ「結末」として描くことによって、いわば作品の外に置くことができたからである。

 そう、時間軸というもの、つまり物語というものが作品に展開されるためには、やはり語り手は登場人物との距離感を掴むことが大切なのだ。大きく距離をとり、いわば「神の視点」から作品世界に物語を与え、登場人物の右往左往をその感情に至るまで客観視して描くか、あるいは逆に登場人物にのめり込んで、その視点から作品世界とそこに展開される物語を描ききるか、そのどちらかであるべきなのだ。

 しかしそれに失敗し、中途半端に距離をとると、何やら「こんなもんさ」と冷めた眼で周囲を眺める主人公が、なんだか都合のよい世界観のなかで淡々と物語を追っていくような、そんな形になってしまう。その典型的な例として、私は他ならぬ『ノルウェイの森』を挙げたいと思う。

 だから、この『1973年』も、実は紙一重のところにあるのではないだろうか。続編であるということや、「鼠」の物語の存在が、作品を大いに助けてくれた。しかし、例えば双子の存在について、どう考えるべきだろうか。私には彼女たちが、余計者のようにも思えた。単に奇抜な状況を生み出させる効果だけを狙った舞台装置のように感じた、ということだ。彼女等が双子である必要が果たしてあったのかどうか、私は非常に疑問に思う。

 さらには、ピンボール台についてはどうだろうか。前述のようにこれは非常に大切な要素だ。しかしその扱いについて、どこか唐突に感じられたのは私だけだろうか。どうにも、取ってつけたような印象が拭えなかった。もっと、物語の進行に深く絡ませておくべきだったと思う。これは前述のように、作品の核心部分を象徴するものだからだ。

 しかしもしも、このピンボール台についてのエピソードが、物語に深く関わっていたとしたならば、あるいは作品全体の破綻を呼んでいたかもしれない、ともいえるだろう。なぜならそれは、物語というもの、時間軸というものの要素を強めることになるからだ。

 これまでに読んだ四作のなかで、一番よかった、と私は書いた。その「良さ」とは、実はこうした微妙なライン上に成り立っていることから生まれているのだ、ともいえるのかもしれない。傑作と駄作は紙一重、というところだろうか。

 こうなると、さて、三部作の第三作目、即ち『羊をめぐる冒険』のことが、俄然気にかかってくる。こうしたもろもろの要素が、いったいどう転がっていくのか。私の知らない「村上春樹」は、みられるのだろうか。楽しみであり、怖いようでもある。読んでみよう。

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