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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

日々思うこと 2

「細部(ディテール)」について考える

 二月も半分過ぎた。そろそろだな、ということで、先日、物入れから雛人形を引っ張り出し、飾り付けをした。しかし、我が家は狭いアパート暮らしである。基本的に「空きスペース」というものは、我が家には皆無である。おまけに、ふたりの子どもは、まだ「興味のあるものに、手を触れずにいる」ということが不可能な年齢であり、それどころか、下の息子などは未だ何でもかんでも口に入れてしまうような有様である。つまり、床に悠々優雅に飾る、なんて真似は間違ってもできない。

 そこで、仕方なく棚の上に飾った。床から130センチぐらいの高所に並ぶお雛様。何だかオカシイかと思ったが、意外に綺麗に飾れた。



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 これを飾るのは三度目になる。豪華七段飾り、みたいなものは、場所も予算もないので買えなかったが、良いお店をみつけることができ、良い人形が買えたと、満足している。同じ店で、端午の節句の飾りも買った。静岡市内にある、左京さん、というお店である。
(ホームページはこちら。「左京」



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 お内裏さまと、



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 お雛さま。

 ところで、関東の方々には、「おい、お雛さまとお内裏さまの位置が逆だぞ」といわれそうだが、お店の方の説明によると、江戸と京では、並びが逆、なのだそうだ。で、左京さんは京風、ということで、我が家のお雛さまは、向って左ということになっている。静岡県は、よく東西の文化の境界だ、といわれる。静岡市は、基本的には関東寄りの文化なのだが(浜松は西寄りです)、時々こういう感じで関西も混じり込むこともあり、いろいろとヤヤコシイ。



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 三人官女のひとり。私は、彼女が一番気に入っている。一番かわいらしい顔をしているのだ。

 静岡市には、お人形の店が多い。どうやら、徳川家康が晩年を過ごした駿府城の建設のために、江戸から職人をたくさん連れてきたことがその発端らしいのだが、その伝統が、なんと今日のプラモデル産業にまで続いている、というから驚きだ。静岡に、バンダイだのタミヤだのというビックネームをはじめとした、多くのプラモデルメーカーがあるのはこのためだ、というのである。

 その詳しい経緯についてはここでは割愛するが、こうしたミニチュアモデル、というものは、細部の精巧さ、というものによってその完成度を高めているのだなあ、と、雛人形を眺めていて、思った。いや、精巧さ、というよりは、丁寧さ、とするべきなのかもしれない。その造作のひとつひとつに、まず職人の気持ちが込められるとき、初めてその結果として、精巧さというものは生まれるのだろうから。

 勿論、全体としての完成が最終的な目的なのであり、細部ばかりが個々で目立ってしまって、それらのあいだに調和が失われてはいけない。しかし全体のために細部を犠牲にしては、やはり全体は完成されない。この辺りの造形美術の妙について、我が家の雛人形は大いに考えさせてくれた。そしてそれは、近所に散歩に出掛けたときにまで、ある視点を私に与えてくれたようだ。

 私はこれまで、どうも細部(ディテール)というものを疎かにしてきたように思う。例えば本を読むときも、細かい描写よりは、作品全体が何をあらわしているのかを重視してきたし、また風景を眺めるにしても、それを形作る木立だとか建物だとかよりも、全体から得る印象を、という具合にだ。

 先日暇つぶしに海辺に遊びにいったときも、私は水平線の方を見渡しなどしていたのだが、しかしもうじき三歳になる娘は、海を眺めるよりも、足元の小石のほうが気にかかるらしい。



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 私にとっての「海の景色の記憶」。



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 こちらが、娘にとっての「海の思い出」。(デンデン石、と名付けられ、彼女の宝物となった。どうも、でんでん虫と似ている、ということらしい。)

 なるほど、と思う。本来、冬の駿河湾の寒々と波立つ様も「海の風景」ならば、足元の小石もまた風景の一部なのであり、そのどちらが重要か、ということではないはずなのだ。そこで、普段見慣れた近所の散歩コースの景色においても、意識して「細部」をよく観るように気をつけてみた。

 特に目新しいものがある訳でもなく、ごくごく当り前の物が、幾つも幾つも組み合わさって形作るもの、それが街の風景というものだ。だが、そうした当り前の「細部」を眺めていると、なんとなく、それがそこに「ある」、ということの意味について、何やら不思議な感じがしてきた。

 建物そのものだとか、駐車場の車だとかいうものは、勿論、誰かが意図して、そこに建てたりだとか、停めたりだとかされている訳だが、しかし考えてもみれば、私の家の近所のような郊外の住宅街にあるものは、ほとんど全てが、誰かの、何らかの意図なり意思なりによって、そこに「ある」のだ。「止まれ」の道路標識も、玄関先の鉢植も、軒下の吊るし柿も。

 そればかりではない。何のためにかフェンスに結んであるヒモの切れ端だとか、家と家の間の狭い狭い隙間に横たわったまま何年も経った竹竿だとか、コンクリートブロックの穴に押し込められた空き缶だとかいった、最早誰も気にもとめないような、何の意味もなくそこにあると思われるようなものも、やはり誰かの何らかの意図によってそこにあり、そしてあり続けているのであり、さらにいってしまうならば、風に吹かれて飛んできた駐車場の隅の破れ傘なども、偶然そこにあるともいえるが、しかし誰かが意図的に「見て見ないふり」をしているからこそ、いつまでもそこに「ある」、ともいえるのだ。

 こんなことを考えながら、街の「細部」を眺めていると、そこに重なり合った、数限りない人びとの意図というもの、意思というものの存在が、何やら途方もなく大きな「何か」を形作ろうとしているかのように思えた。「何か」とは何だろう。「歴史」か?

 そしてこんな具合に、一見何でもないようなものでも、そこに「ある」ということには意味があるのだ、ということを意識してから、さて、もっと明確な人間の意図というもの、「意匠」というべきほどに強く指向性をもった意思というものによって生み出され、さらには、明らかにその「保全」を意図されてそこにあり続けているようなものを、改めて観るとき、そうしたものが「ある」ということのもつ強い「意味」に、気付かされることになる。例えば、普段から子どもの遊び場としている、小さな神社の造形物などだ。


 
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 社殿の屋根瓦にみえる紋。なにごとかを象徴するこうした紋章を、他ならぬ「ここ」に据え置くことが生む「意味」が、この神社というものの聖性の、幾分かを担う。そしてまた、私はヘルマン・ヘッセの『デミアン』の、ある場面を思い出す。主人公の家の門のうえにあった、しかしそれまでは特に気にもとめられなかった古い紋章について、デミアンは、「ああいうものは非常に興味があることがおおい」のだといい、やがてそれは、アプラクサスという古い神のイメージへとつながっていく。

 そう、何なのかよくわからないが、しかしいかにも何らかの意味のありそうなものが、実際、この神社にもそこかしこにあった。普段、それがそこに「ある」ことは知っていても、とくに意識して見てはいなかったものを、よく見てみると、なるほど、面白い。



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 石に穿たれた穴。荒削りではあるが、決して簡単な、気まぐれな仕事では、こうしたものは作れない。石に穴を掘るにはそれなりの労力が必要であり、そうした労力は、明確な目的がなければ得られない。さて、この石は何のためにこうした形を与えられ、ここにあるのだろうか。残念ながら、私にはわからない。



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 右の石には「御大典紀念」、左の石には、「昭和参年拾壱(?)月拾日」らしき文字(判読が難しい)。何かを記念した石碑、ということらしい。

 こちらは、もっと古い。



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 先の石碑のものよりもさらに読みづらいが、「明治」の年号は確かに読める。

 こうしたものが何であり、なぜここにこうして立てられているのか、もし知り得たならば面白いだろうなと思う。



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 ご神木の根元に。中は空である。いつから、何のためにここにあるのか。確かなのは、これらのものは、厳重に保護されている訳ではないが、しかし誰も手を触れたり汚したりなどしようとはしないという形で、つまり「無関心な尊重」とでもいうべき方法で、大切にされている、ということである。ただ、放っておかれる。だがそれらは、我々の内の誰よりも長く、ここにあり続ける。

 なるほど、細部か、などとひとり頷きながら帰宅すると、妻と子どもたちが、こんなものを作って待っていた。



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 これは・・・。ディテールというものが蔑ろにされながら、いや、かえって細部を極端に単純化したために、こんなものがしっかりと「ひな飾り」として存立し得ているのか。右端のものの顔は娘が描いたらしいが・・・ちゃんと顔に見えるから不思議だ。

 うぅむ、「細部」とは、なんと奥深いものなのだろうかと、またしても考え込む私であった。

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