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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『かもめのジョナサン』

かもめのジョナサン (新潮文庫 ハ 9-1)かもめのジョナサン (新潮文庫 ハ 9-1)
(1977/05)
リチャード・バック

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「かもめらしさ」とは何かを問う

 多くを語らないことによって、多くを考えさせる小説、というものがあるとするならば、この作品はその代表的なもの、といってよいだろう。

 この風変わりな物語について、何かを語ることは、よって非常に難しい。この物語に触れたことをきっかけに、我々が思うことはきっと多いだろう。しかしその思いを導いてくれる言葉が、この物語にはあまり多くはないからだ。

 例えば『魔の山』について、あまり深く理解できなかったとしても、我々は「読書感想文」を書くことはできるだろう。なぜならそこには言葉があふれているからだ。そのうちの幾つかを拾ってきて、自分なりにつなげていけば、大体文章としての体裁を保ったものを組み上げることは、手間さえかければそれほど難しいことではないはずだ。

 しかし、この『かもめのジョナサン』のような作品では、そうした「ごまかし」のしようがない。ここに語られるあまりに大きなことを、本文から拾ってきた言葉を組み立てることによって語ろうとしたならば、きっと、それは単にもう一度『かもめのジョナサン』を組み上げる作業にしかならないだろう。

 何かを書こうと思うのならば、材料は自分で用意しなければならない。この物語について語ることの難しさとは、つまりそういうことだ。我々は、本当に「自分で考えること」を強いられるのである。

 と、なんだか自分でハードルを上げてしまった感じだが、まあひとつ、やってみよう。
 
 最近、私のふたりの子どもが、共に大きな成長のステップを踏んだ。先日一歳になったばかりの息子は、どこにもつかまらずに立てるようになった。二歳半の娘は、ついにウンチ(失礼しました)をトイレですることに成功した。まだまだ一人前になるためには、様々なことをできるようにならなければならないのは勿論だが、こうして、着実に成長をみせてくれることは、親としてはやはり悦ばしいことだ。

 しかし、この「成長」というもの。これは一体、どこまで続くものなのだろうか。あるいは、どこまで続ける「べき」ものなのだろうか。例えば私の息子は、今はまだ、立った、とはいってもレッサーパンダの風太クンよりも不安定だが、やがてもっとしっかり立ち、歩きはじめ、そして駆け回るようになるだろう。

 そして、その走りはどんどん速くなる。本格的に、例えば陸上競技の100メートル走の訓練を受けたならば、さらに速くなっていくだろう。勿論、「人類最速の男」になるためには、持って生まれた才能、というものが必要だろうけれども、私の息子が持つ潜在能力を目一杯まで引き出す、ということは可能なはずだ。しかしここにひとつの疑問が生まれる。さて、我々はそこまでの成長を、目指すべきなのか否か、ということだ。ときには、他の重大な何かを犠牲にしてまでも。

 この物語の主人公であるジョナサンは、それをしようとした。さて、自分はどのくらい速く飛べるのか。彼はあらゆる方法を試み、そして、かもめとしては常識はずれな速度で飛ぶことができるまでになった。だがジョナサンを、他の「普通の」かもめたちと違う、特別なかもめにしたものを、単にこの飛行速度だけに見出そうとしたならば、この物語を読み違えることになるだろう。

 かもめは食うために飛ぶのだ、という父親の言葉に逆らい、彼はただ飛ぶために飛ぶ。より速い、より高度な飛び方を、ただそれ自体を目的として、求めていく。「食うために飛ぶ存在としてのかもめ」というものを超えて、「高次のかもめ(作中ではひかり輝くかもめとして象徴的に描かれる)」とでもいうべきものへと高まっていく。

 その様子に、私はツァラツストラの「人間とは克服すべき或るものだ」という言葉を思い出した。しかしジョナサンが、ニーチェ的な超人(超かもめ?)のごときものになるのは、「速度」というものには限界がある、ということを知った後のことだった。

 「われわれの肉体は思考そのものであって、それ以外のなにものでもない」

 ジョナサンがそれを学び、物質の移動の速度、という意味での速さというものを「克服」したとき、「高次のかもめ」たちが住む世界からまた、「食うために飛ぶかもめ」たちの住む低い世界へと降りていくことを彼は欲する。彼は、自分が学んだことを、求めるものに教えたい、と願うのだ。それはまさに、ツァラツストラ的な「没落」の路に他ならない。

 そしてジョナサンは弟子たちに教え始める。彼は「飛び方」を教える。それは「食うため」の飛び方ではない、彼が至り得た高みへと、弟子たちをも至らしめるための手段としての飛行法なのだ。だから、速く飛ぶことが最終目的なのではない。より高い世界に生きることが目的なのだ。

 ところで、「われわれの肉体は思考そのものであって云々」という言葉、これはいうまでもなく極めて「主観主義的」な言葉であり、「世界は私の表象である」という究極の言葉とほとんど違いがないように私には思われる。主観主義というものは、事物を全て相対化してしまうものなのだが、ジョナサンには、「社会」というものとのバランス感覚がある。

 それは本文中では「愛すること」という言葉で端的にあらわされ、ここでもツァラツストラ的にいうならば「与える徳」とでもいうべきもので、前述のようにそれは、未だ低次にとどまっているけれどもしかし高きを求めるものたちに、教える、という形をとることで社会との繋がりを保つ役割を担う。かつては、「食うため」ではなく「飛ぶため」に飛ぶ彼を追放した「社会」を、彼は教え導こうというのだ。

 これは実は、弁証法的な方法、といってしまってよいのではないだろうか。背反する二律がある。「食うために飛ぶ」ことによって社会を、つまりかもめという種の存続を守ろうとする力と、かもめという種を「克服」し、遥かな高みにあろうとする力と、である。誰もがみな、ジョナサンのようになれる訳ではない。しかし彼によって、かもめという種は高められるのだ。それは「止揚」という形をとったある種の「進化」だといえないだろうか。

 ここで私は、またひとつの疑問を抱く。リチャード・バックはパイロットだ。我々はもうひとり、パイロットであり、作家でもあった人間を知っている。サン=テグジュペリだ。彼の『人間の土地』に、こんな言葉がある。羚羊について、彼が柵の中に子どもの頃から飼い、育て、人に馴らし、「猛獣たちに食い殺されるあの悲惨な運命から保護」してやったと信じた羚羊についてだ。曰く。

 「やがてその日が来る、その日、きみは、彼女たちがその小さな角で、砂漠の方角に向って、柵をしきりに押しているのを見いだすだろう。
  (中略)
 彼女たちは、羚羊になりきり、自分たちの踊りが踊りたいのだ。時速三十キロメートルのスピードの、まっしぐらな遁走が味わいたいのだ。(中略)金狼どもが待ち伏せているぐらい、なんのその、もしも羚羊の本然が、恐怖を味わうことにあり、恐怖だけが、余儀なく自己を超越させ、最大の跳躍を成就させるものであるなら! ライオンどもが待ち伏せていようと、なんのその、もしも羚羊の本然が、白日のもと、猛虎の爪の一撃に引き裂かれて果てることにあるのなら!」


 サン=テグジュペリは、「本然」という言葉を使った。そして、もし羚羊の「本然」が、ライオンに食われることにあったとしたならば、羚羊は柵の中に守られているよりも、荒野でライオンに食われることを望むだろう、というのだ。

 そこで、人間の、あるいはかもめの「本然」とはなにか、と考えるとき、私は、ジョナサンのしたようなこととは、一体、われわれの「本然」にかなったことだったのだろうか、と思うのだ。

 つまり、背反する二律があったとして、それは常に「進化」のために「止揚」されなければならないのか。あるいは「進化」とは、「常に」アウフヘーベンという形でなければいけないのか。もしもかもめの「本然」が、いまあるかもめ、「食うために飛ぶかもめ」であることにあるのならば、例えジョナサンのように生きることも可能だったとしても、「食うために飛ぶ」ことに徹することこそ、かもめとしての本来性にかなった生き方だといえるのではないか。「人間的、あまりに人間的」に生きることこそが、人間の「本然」ならば、「超人」のことなど思わずに、「人間的に」生きることこそに、我々が本来求めるべきことなのではないか、ということだ。

 あるいはまた、こうもいえるのではないか。例えそこに背反する二律があったとしても、その背反それ自体が、その事物の在り方の「本然」であるならば、無理に「止揚」されるべきではないのではないか、と。

 そして、私は最初の疑問にたちかえる。つまり、我々はどこまで成長することを目指すべきか、ということだ。結局それは、我々の「本然」というものがどこにあるのか、ということにかかってくるのだろう。例えば人間は「超人」を、かもめは「偉大なかもめ」としてのジョナサンを求めることが「本然」だ、と考えることもまた可能なのだからだ。

 しかし、我々人間というものは、かもめや羚羊たちほど単純ではない。われわれの「本然」のなんたるかについて、人類はもう何千年も考えてきたのだし、多分、その答えが得られることはないだろう。なぜなら、その答えそれ自体が、常に変化しているものだろうからだ。

 そう考えると、我々にできることといえば、自身の可能性を追うこと、これのみではないだろうか。つまり、何をすればよいのかわからないならば、何ができるのか、を考えるということだ。ジョンサンも、まずは「飛ぶ」ということの可能性を追い求め、その結果として、ある高みへと至り得た。我々も、もし走ることができるのならば、どこまで速く走れるのか、やれるところまでやってみる、これしかないのではないか。

 と、何だか結局あっちこっちから材料をあつめてきたような文章になっていまい、しかもその結論として、「とにかく頑張りましょう」みたいなことになってしまいました。いつにも増して、シリメツレツですみません。まあ、それだけ解釈がムズカシイ作品だ、ということで御勘弁ください。

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