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『もしドラ』

もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだらもし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら
(2009/12/04)
岩崎 夏海

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市場経済と文学

 『もしドラ』、である。いうまでもなく、この本に私は、このブログでこれまでに扱ってきたような「文学作品」に期待し、求めてきたような、それと同じものを求めて読み始めた訳ではない。そして実際、そんなものはこの本に求めてはいけないのだ、ということは、最初の一ページ目から明らかだ。

 私はこれまでに、浮谷東次郎の『がむしゃら1500キロ』と、坂井三郎の『大空のサムライ』、このふたつの作品に関して、その文章に文学作品としての水準を求めるべきではない、といった。両者ともプロの小説家ではなく、殊に前者に関しては、執筆当時、まだ筆者が高校一年生であったからだ。

 しかし、この『もしドラ』の文章は、この二編にすら遠く及ばないレベルのものだ。最初の、二ページ足らずの「プロローグ」の章。一体この本の出版に携わった編集者は、このひどい論理矛盾、具体的にいうと誰の眼にも明らかであろうような循環論法に、気がつかなかったのだろうか。いや、多くは語るまい。この本の目的は、きっと、そんなものとはまるで無縁のところにあるのだろうからだ。つまり、文章の善し悪しなどは、どうでもよかったのだ。

 250万部突破の、ベストセラーだという。おまけに映画化され、アニメ化もされ、つまり、商業的には大成功、というところだろう。しかしそれは本来、商業的に「限っては」大成功、とするべきなのだが、それでも出版社としては万々歳だろう。この本の目的は、商業的な成功のみであったはずだから。

 病気の友達の代役として、弱小野球部のマネージャーとなった主人公が、ドラッガーの『マネジメント』を参考にして野球部の体制、体質を改善し、甲子園出場を目指す、というのが、この本のあらすじだ。様々な問題が、その物語の途上にたちあらわれるが、きまってそこで、「『マネジメント』にはこう書かれてあった」という一文の後に、『マネジメント』からの引用が掲げられ、そして問題は全て最良の形で解決する。

 この際、文章の拙劣さについては無視しよう。ケータイ小説じみた物語の幼稚さについても、何もいわないことにしよう。しかしこの、ドラッガーの著作を、まるで神の声のように扱い、何ひとつ疑わずに受け入れる姿勢、そしてその姿勢が絶対に正しいことを証明するかのような、トラブルなど全く起こらず、良い方向にしか進まない物語展開、これは、ちょっと考えてみる必要があると思う。

 注目すべきポイントがある。この『もしドラ』と、そのなかでバイブル扱いされるドラッガーの『マネジメント』のエッセンシャル版が、ともにダイヤモンド社から出版されている、ということだ。

 はっきりと最初から、「これは小説形式で『マネジメント』を紹介する本ですよ。『マネジメント』は素晴らしい本だから、皆さん買ってくださいね」と、そう宣言してくれているならば、まだ救いはある。だが、「あとがき」を読む限りにおいては、作者にはそういう「パンフレット」的なものを書いたつもりは毛頭なく、あくまでも『マネジメント』を読んで感動して、そしてふとおもいついたアイデアを小説化した、ということらしい。

 だとしたら、これほどに無批判に、ある特定の本を絶対視するような本が、「小説」というひとつの「文学作品」として、大々的に世に売り出されることに、さて、何の問題もないといえるのだろうか。

 つまりは、ドラッガーの『マネジメント』という、すでに世の中で高い評価を得ている(らしい)著作をネタにして、なんだかマンガ本じみた表紙の「小説」をでっちあげて大々的に売り出し、がっぽり儲けたうえに、さらにまた元ネタの『マネジメント』の売り上げまで伸ばそう(巻末に広告アリ)、というしたたかなこの商法に、「文学」が利用されてしまうということに、私は小さからざる問題があると思うのだ。

 我々は、根本的な問いについて、考えなければならないのかもしれない。『もしドラ』などは顕著ではあるが単なる一事例に過ぎない、ということだ。

 「文学的価値」というものは、「市場価値」とは、いうまでもなく全く無関係なものだ。『もしドラ』の定価は1600円だが、例えば、私の本棚からいい加減に抜き出してみるが、ちくま文庫版森鴎外訳のアンデルセンの『即興詩人』が1300円、岩波文庫の『ヴァレリー詩集』が760円、夏目漱石の『草枕』は新潮文庫版で362円だ。

 この値段の高い順に、あるいはこの一年の売り上げ部数の多い順に、「文学的価値」を決める者がいたとするならば、そのひとは笑い者になる覚悟をしなければならないはずだ。しかし、すべての出版物の評価を、ただ出版部数によってのみ判断しようとする風潮が、この社会にない、などといえるだろうか。

 勿論、好んで文学作品を読むようなひとは、『もしドラ』がよく売れたからといって高く評価するようなことはないだろう。しかし問題なのは、そうした風潮が強まれば強まるだけ、出版社が、ただ「売れるもの」にばかり価値を見出し、それをしか出版しなくなる、ということだ。そうなってしまったらもう、文学を視る眼もへったくれもあったものではないだろう。市場には、「売れる」本だけがあふれることになり、金にならない本などは淘汰され、姿を消していくだろうからだ。

 金にならない本。つまり古典や、あるいは、有能で将来性豊かだが未完成な新人作家の作品などだ。この『もしドラ』などという「商品」にかまけている間に、我々は、我々の文化の過去の偉大な遺産と、我々の文化の将来を担う優れた才能が世に紹介される機会を、少しずつ、だが確実に失っているのだ。

 世の出版業者には、一体、自分たちがそうした重要な役割を担っているのだという自覚があるのだろうか。『もしドラ』などという、こんなものを200万部も世にばらまくダイヤモンド社の「商売」のやり方などをみていると、私はそう問わずにいられない。

 時代は変わっても、その役割は変わらないはずだ。現代の天才たち、現代のヘルダーリンや、現代の太宰治を見出し、世に紹介することこそが、出版社の使命ではないのだろうか。ボードレールの『悪の華』を世に問うために、パリの小さな出版業者がしたことを、現代日本の同業者たちは、やってのける覚悟をもっているのだろうか。

 本来「市場価値」とは無縁であるはずのものを、作家たちの創作活動のために現金化しつつ、世に文化の思想的骨格ともなるべきものをひろめる。そうしたことをまで、営利目的の企業である出版業者に求めることは、間違ったことだろうか。

 出版不況、などといわれる。若者の活字離れ、などともいわれる。しかしそれは、よくいわれるように、本当にテレビだとか、最近ではインターネットだとかの映像メディアの発達のせいなのだろうか。こんなバナナの叩き売りみたいな商売ばかりやっている出版業者が、その本分を忘れているせいではないだろうか。

 この資本主義経済社会にあっては、本来、「市場経済」とは無関係であり、そればかりか相容れないものである「文学」を、無理矢理にでも市場に押し込めなければ、文学そのものの存続が危ぶまれる、ということも勿論理解できる。しかし「市場価値」という判断基準だけに寄った判断をしかしないならば、「売れるもの」だけが価値を与えられ、「売るべきもの」は見過ごされてしまうだろう。そしてまた、「売れるもの」とはもしかしたら、「売るべきではないもの」かもしれないとは、誰も考えなくなってしまうだろう。

 日本の現代文学というものが、充実し、発展していけば、おのずと出版不況などというものも解消されると、そんな考えは甘いだろうか。文学好きが増えることが、市場の拡大に繋がるのならば、方法は唯一、文学というものをより魅力あるものに育てていくことだけだと、私は思う。だから、文学にとってマイナスでしかないようなものを、200万部も世にばらまくことは、結局は出版業界を衰退させるばかりであり、いっときの稼ぎのために、将来の市場をつぶしてしまうことだと、私はそういいたい訳だ。

 本当に、こんな「商品」を大量生産するくらいならば、50人の名もない「作家の卵」たちに、たった一度のチャンスでも与えてあげてほしい。そのなかからひとりでも、有能な作家が見出されたならば、我々「消費者」にとってどれほどありがたいことか、出版社のひとにはよく考えてほしい。

 そう、それこそ、「『マネジメント』にはこう書かれてあった」。

「顧客は誰か」という問いこそ、個々の企業の使命を定義するうえで、もっとも重要な問いである。

 「顧客」とは、ディープな「文学オタク」ではないだろうか。なんといってもこいつらは、本にならばお金を惜しまず、それどころか、生活費を削ってまでも本を買い漁るような連中なのだ。こいつらが喜ぶような本を売ることこそ、結局、最もよい商売になるのではないだろうか。

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