FC2ブログ

乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『村上春樹、6月9日のバルセロナでの演説について』

原発について、一般読者なりに有名作家と共に考えてみる

 先日、村上春樹が、カタルーニャ国際賞というのを受賞し、その授賞式でスピーチをした。その内容は、3月11日の震災について、そして特に福島第一原発の事故についてのものだった。

 世界的にみて、現在、「日本を代表する作家」といっていいであろう作家が、震災について、原発事故について、その思うところを、単なる質疑応答ではない演説という形で語ってくれたことを、私は嬉しく思った。今、我々日本人の誰もが、それぞれ考えるべきことについて、政治的または官僚的な、あるいは科学者的な立場に「ない」人物が、倫理的観点から語ってくれたことが、嬉しかったのだ。

 だが、嬉しがってばかりいる訳にもいかない。これは我々全てにとっての問題なのだから。彼の演説について、考えてみようと思う。

 (以前にも書いたことがあるが、私は村上の作品は、ただひとつ『海辺のカフカ』を読んだきりだ。だから、彼がこうした問題について、どういう立ち位置に立ってきたのか、あるいはこれまでには一度も言及したことがないのか、その辺りのことを全く知らない。よって私は、純粋にこの演説で彼が主張していることのみをみていることを、一応お断りしておきます。だから、もし私の無知が彼を誤解していたとしたら、そこはご寛恕願いたいし、さらに甘えさせていただくならば、ひとことご指導など戴けると非常に嬉しいです。)

 村上はまず、地震や津波による被害についてから語り始める。その辺りのこともなかなか面白かったのだが、ここでは、原発事故のことについてだけに、対象を絞ろうと思う。

 私も以前、今回の原発事故について、記事を書かせていただいた。それを読んでいただければ、我々日本人には、原発を運用する、ということについては倫理的な(技術的にではなく)問題があった、という見方において、村上と私とは意見を同じくしている、ということはご理解いただけると思う。(私のたどたどしい文章には、さすがに有名作家の演説のようなスマートさはないけれど。)

 経費の節減、つまりより大きな利益の確保のために、原発の対災害設備をケチってきた電力会社と、それを利権と癒着した自らの政策のために黙認してきた政府、そして「効率」や交付金などの目先の利益のために、その全てを是としてきた我々国民。その全てが、原発をこれほどまでに危険なものとしてしまったのだ。

 しかし、「歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民」である日本人だからこそ、一貫して「反核」の立場を貫き、核兵器のみならず原発も持つべきではなかった、という村上の意見には、賛同できない部分がある。

 核兵器と、原発。その原理は同じものだ。しかしそれは決して同じものではない。平和利用、などという「政治的な」言葉は使いたくないが、焼夷弾の炎と火力発電所の炎が違うものであるように、原子爆弾の内部での核分裂反応は、原子力発電所の原子炉でのそれとは違うものなのだ。

 勿論、人類が核エネルギーというものを、兵器としてであれ発電の手段としてであれ、利用することには一切賛同できない、という立場に立つひとには、核弾頭も発電用原子炉も同く「否定すべきもの」だと思われるだろう、ということはわかる。しかし事実、原子力発電には極めて「建設的な」側面が厳然としてあり、そしてそれは核兵器というものの、「抑止力」などという後付けのものではない、「全てを殲滅する」という第一義的な存在意義とは真っ向から対立するものなのだ。

 だから、「反原発」の主張の論拠を、「反核兵器」という全く別の主張に求めてしまうと、論点がぼやけてしまわざるを得ない。実際、村上の「反核」演説には、どこかつかみどころのない印象を私は受けた。しかも、その「反核兵器」の論拠を、「唯一の被曝国」民である日本人であることに求めてしまっているが故に、さらに感情論的な印象も混じり込んでしまい、どうにも説得力を感じられなかった。

 私は、戦後の日本が、原発を使用する道を選んだという、そのこと自体には、何も問題はなかったと思っている。今、結果論としてそれを否定するのは簡単だが、技術立国であり、工業立国である日本、しかも石油資源に乏しい日本が、エネルギーの発生装置としては人類が得た最高の技術であるところの「核エネルギー」を扱おうとすることは、むしろ当然だったと思う。

 さらにいってしまうならば、「 歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ」日本であるからこそ、その技術を(可能であるにもかかわらず)一切核兵器の製造に応用したりなどせず、ただ発電という建設的目的に限定して使用することは、他国が同じことをするよりもなおいっそう意義のあることだったとすら思う。

 なぜなら、それは同じ「核エネルギー」を、一瞬にして20万人の人間を焼き殺すことに使用するような蛮行に対する、本当の意味での勝利ですらあり得ることだったからだ。使い方によっては史上最悪の兵器になり得る技術を、「破壊」とは正反対の目的、つまり文明の進歩と繁栄のためにのみ使用することができたなら、それは人類の英知というもの、理性というものの勝利だといえないだろうか。

 だが、結論をいってしまうならば、我々はまたしても「敗北」したのだ。「ヒロシマ」と「ナガサキ」から66年、われわれはまたしても、「核エネルギー」の前に「敗北」した。またしても街は失われ、人びとの生活は失われた。その力はまたしても、「破壊」する力として我々に牙をむき、我々はそれを防ぐ手だてを持たなかった。

 なぜ敗北したのか。それは村上が演説のなかで語ってくれている。電力会社だけではなく、政府や官庁だけでもなく、我々日本人全てが、「被害者であり、同時に加害者」なのだ。

 大地震と大津波が引き起こした、福島第一原発の事故。これは防げなかった事故だろうか。そんなことはないはずだ。震災後、きちんと冷温停止している女川原発には、地震も津波も襲わなかったのだろうか。そんなことはない。日本の原発は、ある場所ではあれほどの自然災害にも耐え得たのだ。つまり、福島第一原発での事故は、防ぐことができた事故だったということだ。

 「安全な原発」は、技術的には実現可能だった。もしその技術を最大限に発揮していたならば、きっと、この震災によって証明されたのは、「原発の安全性」だったはずだ。しかし残念ながら証明されたのは、日本人には原発を扱う資格がない、ということだった。

 では、この先我々はどうするべきだろうか。今回の反省にたって、より安全な原発を造り上げていくべきだろうか。それも可能だろう。地震国日本、しかし技術大国日本でもあるのだ。その気になれば、本当に世界一安全な原発だって造れるだろう。しかし、最早誰も、その原発の安全性など信じないだろう。今回の失敗は、それほどに、取り返しのつかない大きな失敗だったのだから。

 それに、「原発」は最早、時代遅れな技術、とはいえないだろうか。確かに、得られるエネルギーは膨大だ。しかし排出される放射性廃棄物も膨大だ。何だか、私には「2サイクルエンジン」が思い出される。

 特に軽さを武器にするオートバイにおいては、ただ速く走ろう、と思うのならば、4サイクルよりも2サイクルエンジンのほうが断然有利だ。エンジン自体が軽くコンパクトだし、同じ排気量ならば4サイクルなど問題ではないほどの馬力が出る。実際、一昔前までは、世界グランプリのレースを走るバイクは、ほとんど例外なく2サイクルエンジンだった。

 しかし2サイクルエンジンというものは、4サイクルと比べて非常に燃費が悪く、また、構造上エンジンオイルの燃え残りも排出される等、排気ガスが非常に汚れており、それが昨今の環境保護の観点から問題視された。結果、今や2サイクルエンジンは、排ガス規制の厳しい市販バイクのみならず、レース専用バイクからも、ほとんど姿を消してしまった。つまり、大きなパワーを得られることは今も昔も変わらないのだが、時代にそぐわない、という理由で、お役御免になってしまったのだ。

 原発もまた、そろそろお役御免の時期にきているのではないだろうか。ひとたび事故があったとき、それがどんな結果を生むのか、我々はもうチェルノブイリとフクシマで思い知ったはずだし、放射性廃棄物の問題は何一つ解決していないし、燃料となるウランは、このままでは石油よりも早く枯渇するという。勿論、4サイクルエンジンという高性能な代替え品がすでにあったバイクのエンジンのようには簡単ではない。しかしいつまでも「前世紀の技術」に固執すことなく、次の技術を探る方向に舵を切り直すべきではないだろうか。

 「非現実的な夢想家」という言葉を、村上は使った。現在の、大量に消費される電力を賄うためにはどうしても原発に頼らざるを得ない状況にあって、原発推進派のひとたちが、反対するひとたちに貼付けるレッテルが、この「非現実的な夢想家」というものだという。だが彼は、「我々は力強い足取りで進んで行く「非現実的な夢想家」でなくてはならない」という。

 確かに、そのときが来ているのかもしれない。代替えエネルギーが何であるのか、まだその答えを人類は見出してはいない。しかし、かつて「非現実的な夢想」でなかった技術などあるだろうか。鉄道も飛行機も、携帯電話も2サイクルエンジンも、そして核分裂反応の連鎖を制御することも、皆かつては「夢の技術」だったのだ。目標にすぐにたどり着けないからといって、目標を見定めることをやめるべきではないと、私は思う。

PageTop