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『戦う操縦士』その3

戦う操縦士 (サン=テグジュペリ・コレクション)戦う操縦士 (サン=テグジュペリ・コレクション)
(2001/08)
アントワーヌ ド・サン=テグジュペリ

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自分たちの「大聖堂」のための戦い

 サン=テグジュペリが、この本のなかで主張することと、ヒトラーが『わが闘争』のなかで語る「理想主義」すなわち「全体主義」とは、いったい何によって対立するのか。そのことを考えることが、つまりはこの本がいかにして「『わが闘争』への民主主義陣営からの最良の返答」たり得ているのか、を考えることになる。

 前回の記事で、まず共同体の利益を考え、個人主義を排することにおいて、両者は共通している、という私の見方について書かせていただいた。では、両者は何によって対立しているのか、というと、結論からいってしまうならば、ヒトラーの「全体主義」は、全体のためにその構成員である個々人を殺し、サン=テグジュペリの(便宜的に名付けるならば)「民主主義」は、全体の完成によってその構成員である個々人を生かす、という点に、私は両者の対立をみる。この観点から、両者の主張を考えてみよう。

 「大聖堂」の比喩が、著者の考え方を最もよく表していると思う。「大聖堂」は確かに、ひとつひとつの石材の積み重なりからできている。しかしだからといって、石を積み上げれば必ず「大聖堂」が組み上がる訳ではない。「大聖堂」がひとつの全体としての「大聖堂」たり得るためには、それを可能にする「思想」がなくてはならない。つまり、「幾何学と建築学」だ。

 まず「完成する大聖堂はかくあるべし」という設計思想がなければ、いかなる石材もあるべき場所を見出せない。なぜなら、その「あるべき場所」それ自体がどこにもないからだ。あるべき場所のない石材は石材ではなく、ただの石だ。

 「大聖堂」があって初めて、石は石材となり、さらにはそれを超えて土台や、柱や、丸天井たり得る。それは最早石ではない。「大聖堂」の一部であり、すなわち「大聖堂」という全体そのものとその性質を同じくするものだ。「共同体」への帰属によって、個々人が初めて「何者か」として定義される、とは、つまりそういうことだ。

 だがヒトラーもまた、彼なりの「大聖堂」を夢見て、その内に、ドイツ民族にあるべき姿を見出させようとしたのだ、とはいえないだろうか。しかし筆者は、ヒトラーのようなやり方、考え方に、次のように反論する。

 「・・・それもまた総和の表現にほかならない。ひとりの個人の手に委任された「集団」の力にほかならない。他の石材と自己を同一化させると自称するひとつの石材が、石材全体を支配することにほかならない。」

 ここでいわれる「集団」とは、「たくさんの石」ということだ。つまり人間でいうならば「群衆」であり、それは「共同体」の構成員であることとは、本質を異にする。つまり、ひとりの人間の、「みんな私のいうことをきけ」というかけ声によって集められた集団は、あくまでも個々の人間の集まりであり、そうした集まりとして出来上がった「国家」は、

 「はっきりと「集団」の道徳を説く。」

と、筆者はいう。この「集団」の道徳、というものがすなわち、「全体主義」なのではないかと私は思うが、どうだろうか。つまりそれは、たくさん集まってはいるが、それぞれの石は「ひとつの石」であり続け、ただ「集まっている」ということのためだけに、「集まっていろ」という「道徳」に従っているに過ぎない、そういう状態にとどまり、「大聖堂」を形作るには到底至らないのだ。

 石を石ころのままにさせておくものである以上、「全体主義」社会は単に、画一化された個人の集まりでしかない、と筆者はいうのではなかろうか。だとするならば、「全体主義」とは実は、「個人主義」の無秩序から一歩も出ておらず、その「個人」が本来の個性を失っているという点で、さらに悪いものですらあるとさえいえることになる。つまりそれが、「個人を殺す」、ということなのだ。

 ところで、例えば「大聖堂」を「大聖堂」たらしめている思想、すなわち「幾何学と建築学」、あるいは芸術的意匠、神学的主張や信仰心といったものを、形相(エイドス)だとするならば、それを形作る石材は、単に建材であるというにとどまらず、「大聖堂」の質料(ヒュレー)だ、といい得るだろう。

 何だかろくに理解もしていない哲学用語など使ってしまったが、それがつまり「共同体」への帰属によって、「個人」が何者かとして定義される、ということではないだろうか。そして「個人」は、自身を定義するものを得て初めて、生きた何かであり得るのだ。

 また、サン=テグジュペリは本書において、人は「いかにして」共同体へ帰属するべきか、については熱心に説いているが、「いかなる」共同体に帰属すべきか、についてはほとんど何も語っていない。ヒトラーがどこまでも具体的に「理想国家」を語り、それへの賛同に読者を導こうとしていることとは対象的だ。このことには、単なる論法の違い以上の、大きな意味があることだと思われる。

 つまりサン=テグジュペリにとっては、誰かの頭からでてきたような、そんな人工的で論理的、すなわち一夜漬け的な「共同体」のことなど、もとより眼中にないのだ。彼はあくまでも、忘却の彼方の過去から連綿と続くような、気の遠くなるような時間だけがそれを抽出し得るような、そうした積み重ねから、土着的な世界観、宗教観、道徳観を、ほとんど「ア・プリオリに」共有しているような、そういう類いの「共同体」をしか考えていない。

 だからこそそうした「共同体」の崩壊は、彼を非常に悲しませるし、落胆もさせるのだ。そうした「共同体」の再建は、十年二十年でできるものではなく、まるで焼かれてしまった森の再生のように、百年、二百年という単位で少しずつ、また一から育んでいかなければならないことを、彼は知っているのだから。

 そして、そうした自然発生的な「共同体」だけが、ようするに彼のいう「大聖堂」のような「共同体」であり得るのだと、そういうことなのだろう。だから、彼が祖国をフランスと呼ぶとき、それは「聖王ルイのフランス」でも、「ナポレオンのフランス」でも、「ド・ゴールのフランス」ですらなく、いってみればそれらの限定的なフランスの容れ物となるべき、超時間的な「フランス」のことをいっているのだ。

 だから、「大聖堂」がいかなるものであるべきか、それを決めるのはひとりの人間の頭脳ではない。その部分となることを選んだすべての人びとが、自分たちの「大聖堂」とはいかなるものであるべきかを、常に、しかも何世代にも渡って根気づよく、考え、試し、改めながら、一歩一歩完成に向けて進んでいくことによって、決定していくべきものなのだ。

 そうあってこそ、「大聖堂」の全体像を決定するところの「形相」に、全ての石材は「質料」として有機的に結びつくことを良しとし、それによって自らが生かされることを喜び、さらには、自身の帰属する「大聖堂」を誇ることにもなるのだろう。そしてそれこそが、「民主主義」の本来あるべき姿なのであり、そういう「民主主義」であってこそ、ヒトラーの「全体主義」に対する最良の返答であり得ると、私は考えるのだ。

 このブログで私は何度もいっているようだが、民主制国家ほど、その構成員に多くを求める政体はない。民主主義は決して自分勝手を許さない。その国民全員が、公共の利益を最優先に考えるような人間でなければ、民主政治はあっという間に衆愚政治に堕する。しかし我々はこのことをすぐに忘れてしまう。

 日々の生活に忙しく、理想の民主主義のことなど想っている時間はない、そんな事情も勿論理解できる。しかし確かに、命がけの偵察任務を遂行しながら、見事にヒトラーに反論してみせた男がここにいるのだ。ならば我々が、我々の「大聖堂」をいかなる形に仕上げていくべきなのか、考える暇を見出せない訳はないだろう。他ならぬ、それは我々自身の「大聖堂」なのだから。

 サン=テグジュペリは結局、第二次世界大戦の終わりを見ずに、亡くなってしまった。その後の歴史は、連合軍の勝利が必ずしも「民主主義の勝利」を意味しなかったことを、残念ながら物語ってはいるが、しかしせめて、ドイツ軍から完全に解放されたフランスの姿だけでも、彼にはみてほしかったと思う。

 1944年の6月には、すでにノルマンディー上陸作戦は行われ、連合軍はヨーロッパ各地でドイツ軍を圧倒し始めてはいたが、サン=テグジュペリの亡くなった7月31日には、まだパリはドイツの占領下にあった。地中海で彼の偵察機を撃墜したとされるメッサーシュミットのパイロットもまた、「サンテックス」の読者だったという。

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