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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『海辺のカフカ』

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)海辺のカフカ (上) (新潮文庫)
(2005/02/28)
村上 春樹

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初ハルキ

 (はじめに。この作品は、これまでにこのブログで扱ってきたものと比べるならば、ほとんど新刊書といってもいいほど新しいものなので、一応、今回の記事にはネタバレがたっぷり含まれることをお断りしておきます。)

 村上春樹のものを読むのは、この『海辺のカフカ』が初めてだ。読み始めてまず思ったことは、意外に娯楽小説指向だな、というものだった。もっと、純文学指向の強い作家だと、勝手に思っていたのだが。

 勿論、純文学というも、娯楽小説というも、そこに明確で客観的な境界がある訳でもなく、これはあくまで私の基準で測っての判断だ。よって私には、こうしてひとつの作品を判断し評価した以上、その判断基準を明確にする義務があるといえるだろう。今回は、このあたりのことも絡めつつ、この『海辺のカフカ』を扱ってみたいと思う。

 文学、特に小説という分野における、「話」というものの重要性については、昔から議論のわかれるところだ。その最も有名なものは、谷崎潤一郎と芥川龍之介との論争、ということになるのだろうけれど、私はというと、ほとんど芥川と意見を同じくしている、といってしまってよいかもしれない。

 ちょっとカッコイイことをいわせて頂くと、私の頼りない「文学観」は、ヴィーコの『新しい学』、あるいはニーチェの『悲劇の誕生』あたりから多く影響を受けて成っているので、芥川とは本来無関係なのだが、彼の『文芸的な、あまりに文芸的な』の冒頭あたりを読む限りでは、彼にほぼ全面的に賛成、といったところだ。

 (まあ、この『文芸的・・・』という題名をみるかぎり、芥川もまたニーチェの影響を受けている、ということになりそうなのだが。)

 芥川の謂うところを、私の理解において簡単にいってしまうと、全然「話」のない小説、というものは成り立たないだろうが、小説の価値を決めるのは、「話」の長短や奇抜さなどではなく、「詩的精神」なのであり、もし「(最上のではなく)純粋な小説」は何か、ということになれば、それは「通俗的興味」がない、という点において、「話」のない小説ということになる、といったところか。

 なお、「詩的精神」とは、という問いには「最も広い意味での抒情詩」だと芥川は答え、「通俗的興味」とは何かというと、それは「事件そのものに対する興味である」と説明している。

 簡単にいってしまうと、その「通俗的興味」即ち「話」の面白さを追求したならば、それは最終的にはミステリー小説になり、反対に、「詩的精神」だけを突き詰めれば、それは純粋な抒情詩に行き着く、ということだと私は思っている。で、私がこの記事の冒頭でいった「娯楽小説指向」というのは、つまりその「話の面白さ」の方向に重心をおいた作品だ、という意味だと、ご理解頂きたい。だから、「純文学指向」とは何かというならば、全ての文学の原点は抒情詩だ、というニーチェ的立場から、その原点にたちかえる、あるいは原点からできるだけ離れない方向性を持った小説がそれだ、ということになる。

 と、まあそんな具合の判断基準でいきます、と一応納得頂いたものとしてしまって、ようやく、『海辺のカフカ』をみてみることにしよう。

 活字を小さくすれば、もう少し少量にできるのだとしても、厚めの文庫本二冊分のこの小説を、私は、私の普段の「遅読」っぷりからすればかなり早いといえるペースで読み終えた。理由はただひとつ、その物語が面白く、睡眠時間を削り、オムツが汚れて泣く赤ん坊を放ったらかしにしてまで、読んでしまったからだ。

 つまりはそれだけ、面白い物語だった、ということだ。読者をひきつけて一気に読み通させる魅力が、確かにそこにはあった。しかし残念ながら、それは読んでいる最中に限られた。読後感、ということになると、話はかわってくる。

 たっぷりの伏線、たっぷりの思わせぶりに、構成の奇抜さ。これによって私は、この小説が芥川の所謂「話」を楽しむ小説だと判断した。しかしだからといって、「詩的精神」への期待を直ちに捨てた訳ではない。なぜならそれは、芥川が谷崎の小説を例として挙げているように、共存し得るものだからだ。

 「話」の方は、前述した通り、読み進める過程においては文句なく面白かった。しかし「詩的精神」のほうはどうだろう。まず、その人物描写をみる限りにおいては、残念ながらそれは否定される方向にあった。

 とにかく、人物が人工的なのだ。本当らしさがない。まず主人公だが、MDウォークマンや携帯電話がある時代の15歳の少年、という具体的設定であるにかかわらず、まるで1970年代の若者のようだ。その文学の趣味も、音楽の趣味も、「今の大人たちにとっての、理想的で真面目な青春を送る若者」然としているように感じる。

 ようするに、人工的なのだ。こういう人物は、時代背景をぼかしたうえでしか生きてこないだろう。しかし筆者は時代をはっきりと限定してしまっている。これではもう、読者は変身願望的な感情移入はできるかもしれないが、そこに抒情性を見出すことは諦めなければならない。なぜなら、抒情性とは、主観的で実感的なものだからだ。

 その他の脇役たちも、やはり本当らしくない。はっきりいってしまうと、「いきいきとした人物」などひとりもいないのだが、そのなかの、物語に重要な役割を果たす人物だけをみてみよう。

 まず、大島さん。身体は女性だが、性同一性障害で、しかもゲイ、という人物は、勿論現実にはあり得ない、などとはいえないだろうけれど、しかし小説の登場人物としては、どうにも現実味は感じられない。これはもう、身長2メートル30センチの女子高生を登場させるのと同じようなものだ。その特殊性を作品の主題とするのなら、こういう人物を扱うのもよいだろう。だがこの特殊性、ほとんど物語の運びには関係がないのだ。物語の進行に、道案内役として非常に大きな役割を果たす人物であるだけに、このとってつけたような人物設定には、違和感を感じざるを得ない。

 それに比較して、佐伯さんという、この物語上の最重要人物の扱いの曖昧さはどうだろう。特に、主人公が彼女に出会ってから、彼女に好意を寄せるまでの過程においては、私にはこの人物がどんな女性なのか、さっぱりイメージがわかなかった。その描写の方法ではなく、描写そのものが少なすぎる、という印象だ。それが筆者の狙いだといわれれば仕方がないが、しかし、他の登場人物と比較してのこのボンヤリ感は、どうにも受け入れ難い。

 その原因は主に、佐伯さんの人となりについてが、彼女自身の言動ではなく、大島さんの説明によって表現されていることによると思う。そのことが、彼女の「抽象性」に拍車をかけてしまっているのだろう。つまり、大島さんがでしゃばりすぎたのだ。

 表現は、基本的には写実的だ。しかしその特徴的な細部の描写への偏向は、情景の明確化よりは、文章の冗長さを生む効果にしか役立っていないようだ。そのうえに、あの猫と会話のできるナカタさんの存在。しかし幻想小説的なものは感じられない。あるのはただ、どうにもならない違和感だけだ。

 いや、そうした全ても、読んでいる最中には、読者の興味を惹き付ける効果を、存分に発揮している。だからこそ私も、その興味にひきずられ、期待に胸をふくらませて読み続けたのだったが、とにかく、その全てが最後に裏切られた感じだった。勿論、悪い方に。

 あの大風呂敷の数々は、一体なんだったのだろうか。冒頭に語られる、あのおかしな事件は結局、米軍の報告書の形で語られる必要があったのだろうか。いや、そもそもあんな事件が、詳細に語られる必要さえ、あったといえるのだろうか。

 それに限らず、全てが思わせぶりなのだ。しかもその結末までが思わせぶりで、結局この物語の全体がなんだったのか、はっきりと語られることなく終わる。何なのだろう。単にエディプス・コンプレクスのことをいいたかった、という訳でもあるまい。なにやら、いろいろなものが未解決、あるいは放ったらかしのまま、終えられてしまったような感じだ。

 最初の方で、さりげなく、という具合に、ユング心理学を思わせる言葉があるが、これだろうか。ユング心理学的な世界観の小説世界を、筆者は創りあげたかったのだろうか。つまり、集合的無意識だとか、シンクロニシティだとか、そういうものを、扱ったつもりだったのだろうか。

 そう考えると、「アニマ」的な佐伯さんだとか、両性具有者的な大島さんだとかが登場する理由も、何となくみえてくる。もしそうならば、私見ではむしろ、大島さんが主人公の目的たるに相応しく、佐伯さんは道案内である方が、よりユング的だと思われ、それだけをみても、とても成功しているとはいい難いのだけれど。

 というわけで、その「話」の方も、残念な印象をもって終わってしまった訳で、結論をいわせていただくならば、私はこの小説を、高く評価することはできなかった。その衒学趣味を廃し、文章をもう少し簡潔にするなどした上で、登場人物の数も半分ぐらいにして、全体の分量を半分か、できれば三分の一ぐらいにできるよう、物語もスリムにすれば、あるいは面白い短編になるのではないかと、そんな印象をもった。

 筆者にいいたいことがたくさんあって、その全てをひとつの作品に放り込んでしまった結果、細部、あるいは部分だけがあって、全体というものを失ってしまった、そんな作品だというのが、私の読後感だ。

 前述のように、私は村上春樹のものを読むのはこれが初めてだ。だから、大いに期待をもって読み始めたのだが、この作品に関しては、期待はずれだったといわざるを得ない。しかし勿論、この一作で、村上春樹という作家の全てを評価してしまうつもりは毛頭ない。まだこれからも読んでみようと思っている。

 何冊か読み、この作家のことをもっと知った上で、またこの『海辺のカフカ』を読んだのなら、もしかしたら、今の私が読み取ることができないものを、読むことができるのかもしれない。身の程を知らない辛口批評みたいなことになってしまったが、単に、私の読解力がおそまつなだけだ、という可能性、これも小さくはないのだから。

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