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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『萬葉集』


 新元号も発表されたことだし、一応、簡単に。




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 新潮日本古典集成 『萬葉集 ニ』 ISBN4-10-620321-9


 新元号が「令和」であると発表があった。その出典が、初めて国書たる『萬葉集』であったことから、全国の書店で『萬葉集』が売れているそうである。なかなか流行に乗って読めるような書物ではないことは言うまでもないが、まあ、記念、ということもあるし、こうして日本の古典文学が注目されることも悪いことではないだろう。

 などといいつつ、私も書棚から久しぶりに『萬葉集』を引っぱりだしてみるのである。私の持っている「新潮日本古典集成」では、『萬葉集』は五分冊で発行されているのであるが、私は最初の二冊しか持っていない。だが幸運なことに、「巻第五」は第二巻の最初に収録されていた。早速、例の一文を探してみると、62ページの一行目にあった。せっかくなので、その前後もあわせて転載してしまおう。


  梅花の歌三十二首 あわせて序

天平二年の正月の十三日に、帥老(そちのおきな)の宅(いへ)にあつまりて、宴会を申(の)ぶ。
時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和ぐ。梅は計鏡前(けいぜん)の粉を披(ひら)く、蘭は珮後(はいご)の香を燻らす。しかのみあらず、曙(あした)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾(かたぶ)く、夕(ゆうへ)のくきに霧結び、鳥はうすものに封(と)ぢらえて林に迷(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。
ここに、天(あめ)を蓋(やね)にし地(つち)を坐(しきゐ)にし、膝を促(ちがづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言を一室の裏(うち)に忘れ、衿(きん)を煙霞(えんか)の外に開く。淡然(たんぜん)自ら放(ゆる)し、快然(かいぜん)自ら足る。
もし翰苑(かんえん)にあらずは、何をもちてか情(こころ)をのべむ。詩に落梅(らくばい)の篇を紀(しる)す、古今それ何ぞ異ならむ。よろしく園梅(えんばい)を賦(ふ)して、いささかに短詠(たんえい)をなすべし。

 (変換ができない、もしくは困難な漢字は、ひらがなで打ってあります。ご了承ください。)


 この序文の後に、梅をうたった歌が幾つも続いていく訳だが、まあなんとも、むずかしい文章である。しかし実は難しいのは単語であって、古文とはいえ日本語としてはそれほどややこしいものではない。単語を知らないのはこれはもうどうしようもないことなので、ひとつひとつその意味するところを調べる他はないのだが、その労をさえ惜しまなかったならば、この文章が実に美しいものであることがすぐに知れる。いうまでもなく、これは詩文芸である。そこで語られているのは、ただ、初春の美しい景色に満ち足りた心持ち、それだけなのである。

 例えば、「令和」の二文字がとられた(ニ段落めの最初)一文を、私の本ではこう訳している。


 折しも、初春の佳き月で、気は清く澄みわたり風はやわらかにそよいでいる。


 何にも難しいことはない。梅の時期、であるから、まだ霞がかかる前の空気の澄んだ頃の、綺麗な月を見上げながら、春の最初の気配を感じさせるような柔らかな風を感じている、と、それだけのことである。実にシンプル、そして美しい文章である。

 ここから、「令和」の元号は生まれたという訳だ。私としては、この元号はとても良いと思われる。音の響きもいいし、その意味するところも、こうしてその典拠を知ったならば、日本人の美意識なるものによく適うものではないだろうか。少なくとも、「令」の字から勝手に「命令」の意を読み取って「上から目線だ」なんてトンチンカンな解釈は、どうしたって出てくる余地などないだろう。わざとらしいそんな「政治的」解釈でイチャモンをつけている連中よりは、今本屋に走って『萬葉集』を買い求めている人たちのほうが何倍も知的に誠実であり、健全である。

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