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『生の嘆き』


 ショウペンハウアーの読み方




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 『生の嘆き ショーペンハウアー倫理学入門』
 ミヒャエル・ハウスケラー著 峠尚武訳
 法政大学出版局 叢書・ウニベルシタス786 ISBN 4-588-00786-6



 ショウペンハウアーは、多くの場合、ニーチェとの対比という形で語られる哲学者だ、といえるだろう。

 これは、何というか、仕方のないことだ、といえる部分もあるのは確かだ。簡単にいってしまうならば、ニーチェがいなかったならば、ショウペンハウアーは今よりもさらにマイナーな哲学者であった、というのはありそうなことだからだ。

 事実、ニーチェによるショウペンハウアーの「発見」ということには否定しきれないものがあるだろうし、そのニーチェが、ショウペンハウアーを最大限に評価した上で、そのショウペンハウアーを克服するという形で自らの哲学を発展させていった、という側面も確かにある。

 ただ、ニーチェが人類の思想史というものに大きな地位を得たことで、ショウペンハウアーの名前もそれに共なって知れ渡った、というだけならばよいのだが、多くの場合、ニーチェを肯定するための一種のスケープゴートにされることになりがちである。

 無論、その対比自体は有意義である。だがそれはこの場合、「ニーチェを理解」する上でのみ有意義なのである。前述のように、ニーチェはショウペンハウアーの形而上学を前提としたところから出発し、それを克服する形で、「超人」や「永劫回帰」の思想に辿り着いた、という面があるので、ニーチェを是とするならばどうしてもショウペンハウアーは非とされざるを得ない。つまりこの方面からショウペンハウアーに近づくならば、どうしてもニーチェ的価値観によって否定されてしまう形でしか受容されないのである。

 しかしこれでは、いうまでもなくショウペンハウアーへの理解は深まらないであろう。上で私は、「今よりもさらにマイナーな哲学者」と書いた。これは正確には、有名ではあっても、その知名度に見合う程にはきっちりと評価されていない、とすべきなのかもしれない。ニーチェはショウペンハウアーを前提していたといえるが、ショウペンハウアーニとってはニーチェなどなんの関係もないのである。よってショウペンハウアーはショウペンハウアーとして、ニーチェというフィルター抜きで評価されなければならない。ちょうど、ニーチェがなんといおうとワグナーはワグナーとして評価されるべきであることと同じである。

 こんなことは元来言うまでもないことなのであるが、実際、ショウペンハウアーは正当な評価をされてきたとはいえない、とみる人は少なくないようだ。今回読んだこの『生の嘆き』という論文も、後書きによれば、元々は「ショーペンハウアー財団」によって、1997年に授与された「ショーペンハウアー賞」を受賞した懸賞論文なのだが、その懸賞の課題として、「ショーペンハウアーの哲学における道徳-形而上学的世界経験としての苦悩の経験」というテーマが設定されていたそうだ。

 これは、なんというかショウペンハウアー哲学の根本的な理解に関することというべきもので、生誕二百年を迎えた哲学者についての研究課題としては、ちょっと「基本的」に過ぎる、といえないだろうか。つまりこの課題には、ショウペンハウアー哲学を、根本から再評価、あるいは再発見しよう、という意図が読み取れるのではないか、ということである。その正誤はどうあれ、事実この論文は、ショウペンハウアー哲学を今一度、彼の著述に則って先入観抜きに理解し直そうという者には、絶好の手引書、といえる内容を持っている。

 ショウペンハウアーの哲学は、厭世主義的といわれる。その評価は間違ってはいないだろう。しかしその評価故にか、この経験的世界というものになど徹頭徹尾眼もくれないような、そんな浮世離れした立場から、世事に右往左往する人々の生活に皮肉な視線を送るような、そんな哲学者だ思われていはしないだろうか。そのような先入観がまず払拭されることは、確かに、ショウペンハウアーの「再評価」のためには必要だといえる。

 この『生の嘆き』という論文の筆者たるハウスケラーは、この辺りのことをショウペンハウアーの著述を丁寧に辿りつつ、わかりやすく論理的に説明していく。元来ショウペンハウアーはきわめて論理的な哲学者である。その論述は決して複雑でも難解でもないのだが、その明解さはつまりは、彼の論述の高い論理性に由来すると私は思う。よってハウスケラーの方法は最短の近道だといえるだろう。

 そのハウスケラーの論述をここでいちいち追っていくことはしないが、少なくともその論の展開を、ショウペンハウアーの所謂「厭世主義的」哲学の論理的根拠であるその形而上学が、コギトからでも書斎の理屈からでもなく、この「表象としての世界」としての世界における哲学者自身の経験から発してしることを、しっかりと確認することから初めていることは、方法論的にきわめて高い正当性をもっているということは明らかだ。

 理不尽で不条理なこの現実世界。ショウペンハウアーに特徴的な、悲観的な世界認識は確かに彼の生得の傾向なのかもしれないが、確かに、ショウペンハウアーは経験主義者であり、リアリストである。少なくとも先入観なしに彼の著作を読んだのならば、実はこれはあまりにも明らかなこと、なのである。そしてこの事実を出発点として、その独特な形而上学や倫理学などが根拠づけられていること、これもまた明白である。

 それだけに、やはりショウペンハウアーの哲学は、まずは彼の著作を読むことで知るべき、なのであるといえよう。そしてまた、このことを明確に理解した上でならば、最初に述べた「ニーチェとの対比」も、ショウペンハウアー理解のためにも有意義なもの、といえるだろう。

 ショウペンハウアーの主著、『意志と表象としての世界』は、よっつの巻に分けられる。すなわち、「表象としての世界の第一考察(認識論)」、「意志としての世界の第一考察(形而上学)」、「表象としての世界の第二考察(美学)」、そして、「意志としての世界の第二考察(倫理学)」である。この現実世界の理不尽、不条理からの救済として、ショウペンハウアーはよっつめの倫理学、すなわち所謂「同情倫理学」なるものを提唱した。しかしニーチェはというと、ショウペンハウアーと同じ形而上学から出発したにもかかわらず、その処女作『悲劇の誕生』において、こう語るのである。

 
 「美的現象としてだけ、生存と世界は永遠に是認されている。」
 (『悲劇の誕生』第五節 秋山英夫訳)


 これはすなわち、少なくとも若きニーチェは、ショウペンハウアーの『意志と表象』でいうところの、第三巻の「美学」に救いを求めた、ということである。これは、この二人の哲学者の立場を明確にするひとつの指針といえるのではないだろうか。

 ゲオルク・ジンメルは、まさにその著書『ショーペンハウアーとニーチェ』において、


 「芸術が「ひとつの気質をとおして見られた」世界像であるように、哲学はひとつの世界像をとおして見られた気質である」
 (白水社『ショーペンハウアーとニーチェ』 吉村博次訳)


 と述べている。この類い稀なふたりの哲学者のコントラストを十分に客観的にみることによって、単にこの興味深いふたつの世界観を理解するということ以上の、もっと大局的なある観点を得られることを予感させるような言葉ではある。そしてそのために、もう一度ショウペンハウアーを読み直してみるのも悪くなさそうである。その主著はなかなかの大著であり、楽な読書ではないけれども。


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