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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『静岡県の歩ける城70選』

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 静岡新聞社 『静岡県の歩ける城70選』 加藤理文編著 
 ISBN978-4-7838-1984-4

 
 過去の記事にも幾度か書いているが、私の最近の城跡への興味は、元々は古い街道と、その沿線の史跡への興味から発した、いわば副産物のごときものであった。

 ようするにそれは、なりゆきでいつの間にやら始まってしまったもので、各城址の系統立った探訪どころか、ろくな下調べもせず、「堀切」の何たるかも現地の説明書を読んで初めて知るような有様のまま、あ、城跡がある、行ってみよう、という調子で、行き当たりばったりに行われてきた訳だ。

 こうした素人丸出しの方法にも、それなりの楽しみというものはあり、私もそれを自覚した上で楽しんできた部分もあるのではあったが、こうした方法だと、当然ながら、眼につかない城跡などを見落としてしまう、という欠点がある。

 諏訪原城だとか、高天神城だとかいった、有名どころは嫌でも眼に入るのだが、そうでない小さな城跡、というものはある。そうした城跡のすぐそばを通過しながら、知らないばっかりに立ち寄らずにすませてしまった、なんてことが幾度か続いた。

 そこで、そろそろ、というかもう遅きに失した感もあるが、何か一冊城についての本でも買って、それである程度の情報収集を事前に、などと考えて本屋さんに出向くも、なかなか良い本がみつからない。

 「名城100選」的な、全国区のカタログのようなものには、良さそうなものも幾冊かあったのだが、なにぶん、私の史跡めぐりは、「スーパーカブ110で」という縛りがある、という事情がある。これもまた、そもそもは旧街道めぐりから始まった、というところから生じたものではあるが、ようするに、そうした全国版では、対象が広すぎるのである。

 全国に一体幾つの城跡があるのか知らないが、対象が広すぎると、そのほとんどが県外、つまりスーパーカブで行くのは現実的でない遠方の城跡ばかりで、その上、掲載された数少ない静岡県内の城跡は、既に行ったことのあるような有名どころばかり、ということになってしまう。さらに、そうした本はカラー写真満載で非常に高価なのである。貧乏な私にはこれはなかなか厳しいものがある。

 そこで眼をつけたのは、地元静岡のことについて書かれた本がまとめて置いてあるようなコーナーであった。そして、市内のオシャレなカフェだの、方言を集めたものだのが載っている本の並びのなかにみつけたのが、この『静岡県の歩ける城70選』であった。

 これはもう、題名の通り対象は静岡県内の、すなわちスーパーカブの守備範囲になんとか入る城跡のみが対象であるから、全く無駄がない訳である。さらには、こうした地方限定の本は、ほぼ例外なくお値段が安いのである。この200ページ、オールカラーの本にしても、1800円であった。これは有り難い話である。

 そして、静岡県内の城跡、これまた一体全部でどのくらいあるのか知らないが、70、というのは大した数である。目次に並んだ城跡の名前の内、すでに行ったことのあるものをざっと数えてみると、まだ20カ所ほどであった。これでしばらくは、ブログのネタにも困らない、という訳である。

 ということで、そろそろ季節も良くなってくるので、この本を参考に出掛けてみようかというつもりでいる。最近はなんだか県西部にばかり行っている気がするので、そろそろ、東部、できれば伊豆半島にも行きたいとは思っているのだけれど。日の出が早くなれば、それだけ、我が「早朝お散歩ツーリング」も遠方まで足をのばせる、というものである。乞う、御期待ということで、それではまた。

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『駿河今川氏十代』 その3


 今川氏についての広報活動 Ⅲ
 戦国大名今川氏の誕生






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 戎光祥社 中世武士選書25 『駿河今川氏十代』 小和田哲男著
 ISBN978-4-86403-148-6



 この著書のなかで小和田氏は、守護大名と戦国大名とはどう違うのか、という問いには、今川義忠(第六代)と氏親(第七代)との違いをみることによって、その解答が「最も端的な形で用意される」ということを書いている。

 一般に、六代義忠までが守護大名、七代の氏親以降の四代が戦国大名、ということになっているらしい。この二者の違いとは、いったいどこにあるのだろうか。

 六代目義忠が、勝間田城攻略の帰路、塩買坂において、敵の残党の襲撃にあって討ち死にしてしまったことについては、勝間田城、塩買坂にそれぞれ行ったときの記事に書いたので、それを読んで頂ければと思うが(こちら。「カブで史跡めぐり 32・勝間田城」。「カブで史跡めぐり 37・塩の道 相良から掛川、その2 塩買坂」。)、この勝間田城の戦いはそもそも、応仁・文明の乱という全国的な大混乱に乗じて、斯波氏の配下にあった遠江を手中に収めようという義忠の軍事行動の一環であった。

 すなわち、この六代義忠から七代氏親への代替わりの時代背景としては、幕府の力が弱まり、戦国時代へと推移しようという正にその頃だった、という訳だ。別のいい方をするならば、「守護大名」から「戦国大名」へと変貌することができない大名は、生き残ることができなかった時代、ということである。

 具体的にみてみよう。応仁の乱の際、義忠は細川勝元の東軍についている。これは勝元を支持したというよりは、遠江の守護である斯波氏が西軍についたから、という理由による。つまり大義名分を得るため、といことであるが、しかし、他ならぬ大義名分が必要であった、ということに着目すべきではなかろうか。

 つまり、今川が駿河の「正当な」守護であるのと同じく、斯波もまた「正当な」遠江守護である。だから、その斯波を攻撃するには「正当な」理由が必要とされるのであり、そして、両者の権威の正当性を保証するのは、あくまでも室町幕府なのである。その幕府の力が揺らいだのが他ならぬこの応仁・文明の乱であったのだとしても、この時点では、すべてこれ室町幕府という枠組の中の話なのである。

 その枠組の中にあり、ある地方の支配者としての権威を、さらに上位の権威である幕府に保証してもらっている立場である以上、それはあくまでも「守護大名」であろう。そして守護とは、あくまでも幕府の一職制に過ぎない。だがその上位の権威である幕府の力が、この応仁・文明の乱を契機に弱体化してしまった。それは最早、ある一地方を支配するための「後ろ盾」にはならなくなってしまった。七代氏親が家督を継いだのは、まさにそんな時代であった、という訳だ(さらにいうならば、氏親の家督相続に尽力したのが、戦国大名の先駆けとされる北条早雲であることもまた、象徴的なことだといえるだろう)。

 小和田氏は、「義忠段階と氏親段階とでは、(一)検地の有無、(二)戦国家法の有無、この二つによって明確に分けられ」るとしている。つまりそれは、領国内の土地と農民とを直接に掌握、支配し、そして「自己の領国支配原理がすべてに優先する」、というものであるという。そこには最早、古代以来の「荘園」というものを尊重する態度も、幕府等中央政権への忠誠や恭順の姿勢もみられない。領国の、直接的で、自己完結的な支配があるのみである。

 かかる支配者をもって、小和田氏は「戦国大名」と呼んでいる訳である。そして今川氏においては、七代氏親から、そうした支配体制が確立された、ということだ。これは納得できる明解な説明だと思うし、戦国大名というものがかかる性質のものであると定義される以上、この戦国大名の登場をもって、戦国時代と呼ばれる時代の始まりである、と説明することも可能であると思われる。

 ただ無論、こうした性質のものであるからには、歴史年表上の穴埋め問題的に、ある年号をもって「はいここから戦国時代ですよ」と指し示すことも、はっきりと戦国大名と「それ以外」との間に線を引くことも困難だろう。こうした定義付けというものは、決して実際の出来事や事物に先行するものでも、優越するものでもないからである。ある戦国大名は検地なんてものは碌にせずに済ませてしまったかもしれないし、またある者は成文法など作らずに、乱世の実力者らしく「俺が法律だ」で通してしまっただろう。上記の定義は、あくまでも様々な戦国大名の在り方から抽象化された概念に過ぎない。

 しかし幸いなことに、我々が対象としている今川氏親の場合は、その典型、ということができそうである。だからこそ、小和田氏は「最も端的な形で」という書き方をしているのだろう。

 義忠の遠州進出は、前述のように塩買坂で頓挫してしまった形であったが、氏親がそれを引き継いだ。この氏親の遠江侵攻にも、やはり北条早雲の多大なる助力があったようであるが、それはおくとして、永正十三年(1516年)、義忠の討ち死にから実に37年後に、氏親はようやく遠江を掌握した。

 その遠江において行われた検地の記録が残っている。残された記録は五例、永正十五年(1518年)から大永四年(1524年)にかけてのものである。他の土地については、検地が行われなかったのか、それとも記録が残っていないだけなのか、不明なようであるが、少なくとも、遠江における検地は、新たに領有した土地の安定支配のために行われたものであろうことは、容易に推定できるものだと小和田氏はしている。すなわち、遠江支配を、守護として幕府の権威のもとに行うのではなく、土地と農民とを直接的に掌握した上で、自らの武力を背景に行う、戦国大名としての「最も端的な形」での支配のための、具体的政策、ということである。

 そしてもうひとつ、戦国家法、すなわち分国法である。大永六年(1526年)六月の死を目の前にして、五十六歳の氏親は、今川氏の分国法である「今川仮名目録」を制定する。この時点で、跡継ぎである氏輝はまだ十四歳であった。つまり、氏親はどうやら、まだ年少である息子への家督の継承が滞りなく行われるために、領国支配のための規範を残しておこうという意図から、この家法を成文化した、ということのようだ。

 つまり必要がそうさせたという訳で、前述の通り、「戦国武将はかくあるべし」という定義が先にあってそれに従った訳ではないということだが、結果的に今川氏が、ここにおいて、ある「典型的」な戦国大名となった、ということはできるだろう。ただ、ここでいう「典型的」であることとは、「平均的」であることを意味するのではなく、何というか、「完成度の高さ」とでもいったものを謂うのだと思う。

 それはつまり、支配体制の論理化、とでもいうべきであろうか。あるいは、マニュアル化、データベース化の作業、というべきか。激動の時代、一歩間違えれば領国を失う、どころか、一家皆殺しの目にもあいかねないような危うい時代に、支配体制を安定させ、家の存続を盤石のものとするために、めまぐるしく変わる環境に行き当たりばったりに対応するのではなく、それらに備え、それらをできうる限りこちらの都合に従わせるための努力である。

 前回にみた「文化的」家風とともに、こうした今川氏の知性、論理性というものこそ、私は他ならぬ今川氏の特徴であり、強みであったと思う(まあ、今川氏の特徴を相対的に論ずることができるほど、私は他の大名について知っているわけでもないのだけれど)。そしてまたそれが、ともすれば貴族気取りの「文弱」体質と誤解されがちな今川氏像、というものをも形作っているのではないだろうか。

 こうして、氏親の代に、後期の今川氏の最盛期を迎えるための準備は一通り整えられた訳だ。そうした意味で、氏親の存在は大きかったといえよう。そして今川氏はその後、第八代氏輝を経て、第九代義元を当主にいただくこととなる訳である。

 ということで、たった一冊の本から得たにわか知識で、今川氏の広報活動を行うという無謀な試みも、そろそろ終わりにしよう。これで、皆さんの今川氏のマイナスイメージが改善できたならいいけれど……無理でしょうね(笑) さんざん知ったようなことを書いておいて何だが、やはりこういうことは、他の、比較対象となるべき大名たちのことや、彼らが活動した時代の全体の動きなどもよく知らなければ、なかなか難しいな、と思い知った。勉強いたします。

 ただ、この先のスーパーカブでの史跡巡りの際に、手がかりというか、道しるべとなりそうな知識は、わずかなりとも得られた気はした。今後もまた、ローカルな史跡めぐりなどしていくつもりでいるが、その記事が、これによって少しでも面白いものにできればなあ、などと思っている。それでは、また。


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『駿河今川氏十代』 その2


 今川氏についての広報活動 Ⅱ
 マイナスイメージ払拭のために





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 戎光祥社 中世武士選書25 『駿河今川氏十代』 小和田哲男著
 ISBN978-4-86403-148-6



 この本で仕入れたばかりの知識によって、今川氏というものを皆さんにご紹介する、となると、なすべきはやはり、今川氏について一般に抱かれている(と思われる)なにやらおかしなイメージを払拭する、という作業になるのではなかろうか。だとするならば、まずはその「おかしなイメージ」というものをはっきりさせておく必要はあるだろう。

 とにかく、「桶狭間の戦い」が、今川氏の戦国大名としての評価を、著しく下げていることは事実だろう。二万五千以上といわれる軍勢をそろえておきながら、数千にすぎない織田信長の奇襲にあい、よりによって総大将の義元を討ち取られて敗走させられるというのは、いかなる理由があれ失態という他はない。

 また、その勝者が信長であったというのも、相対的に義元の評価が貶められる一因となっているだろう。これは『平家物語』における源氏と平家の構図と同じことで、このカリスマ的魅力をもった、生まれついての主人公である信長という戦国武将が輝けば輝くほどに、義元におちるその陰は濃く深くなるのだ。おかげで、あの英雄の物語が勇ましくドラマチックに脚色されるたびに、ますます、義元、そして今川の名前はマイナスイメージに沈んでいくのである。

 さらに、その桶狭間の後がまたいけない。義元のあとを継いだ氏真のことである。彼については、最近の史跡めぐりの記事においていくつか、そのエピソードを書いているので詳しくはそちらを読んで頂ければと思うが、とにかく、せっかく義元が広げた支配地域をあっという間に失ったばかりではなく、その後、落ちのびて嫁の実家の北条氏に保護されるも二年で追い出され、よりによって今川氏の息の根を止めた敵である家康のもとに転がり込み、さらには父を殺した信長の前で蹴鞠なんか演じてみせた上に、牧野城のお飾り城主ですら勤まらずにクビにされた、とあっては、これはもう「文弱」の誹りはまぬかれようもなさそうである。

 そう、この「文弱」というのが、どうも今川氏のイメージにこびりついてしまっているのではなかろうか。




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 静岡市、旧丸子宿の西にある、吐月峰柴屋寺。元は、連歌師宗長が草庵を結んだ場所であり、それが後に寺に改められたもの、だという。宗長は今川氏、特に六代目の今川義忠あたりと関係が深かった。そのためか、このお寺では今も今川氏にゆかりの品々をみることができる。

 古今東西、詩人や楽人といった芸術家のパトロンとなる権力者は珍しくはないが、今川氏の場合は確かに、それにとどまらない「文化的」な家風がみられるといえるかも知れない。この『駿河今川氏十代』においては、特に第四代の範政についてとりあげているので、みてみよう。


 一目見しかたちの小野に刈る草の
 束の間もなど忘れざるらむ



 これは、『新続古今和歌集』に選ばれた範政の「恋の歌」である。彼の歌は他にも一首選ばれており、支配階級、上層階級にある者の単なる「教養」としてのたしなみ以上の、「歌人」としての一面を彼がもっていたことが、ここから知ることができる。彼には、『万葉集』の秘事口伝も伝えられていたという。これは、鎌倉時代初期の学問僧である権律仙覚の万葉集研究の秘伝である。

 また範政は、『源氏物語』などの書写、校合や、古典研究などの業績も残している。これはもう、知識人、文化人と呼んで差し支えのないレベルである。こうした、彼に代表される今川氏の文化的家風というものが醸成された要因としては、やはり足利将軍家に血統的に近いことから、その繋がりで京の公家の文化人たちとの交流があったことは大きいだろう。

 そんな家風が最終的に、氏真の例の蹴鞠披露に至ったのだ、といわれてしまうと返す言葉もないのだが、しかし範政にしても、ただの文化人であった訳では決してなかった。

 駿河は、いうまでもなく東の国境を関東諸国と接している訳だが、その関東におかれた鎌倉公方が、早くから幕府にとって憂慮すべき存在となっていた。要するに鎌倉公方が力をつけすぎた上に、常に幕府に反抗的な姿勢を取るようになってしまっていたのである。

 こうした状況下にあって、今川氏が、他のどこかの国ではなく、この駿河の守護職に任じられたことには理由があったのだ。将軍家は、自らの血統に近く、信頼できる今川氏を、関東に境を接した駿河に、鎌倉公方の監視役としておいていたのである。そしてその役割を、実際に武力の行使というかたちで果たしたのが範政であった。

 応永二十三年(1416年)に起こった「上杉禅秀の乱」は、鎌倉公方の補佐役である関東管領職にあった上杉禅秀(憲氏)が、当時の鎌倉公方足利持氏との意見対立を理由に、管領職を辞任したことを端緒として起こった戦乱であった。詳細は割愛するが、禅秀は十万を超える勢力で鎌倉を襲い、持氏はこらえきれず鎌倉を脱出、箱根を経て、駿河の瀬名(今の静岡市葵区にある地名)の寺にまで逃げてくることとなった。

 範政はその持氏を駿河府中の今川館に保護した上で、家臣の一人を京にのぼらせて将軍義持の指示を仰いだ。義持としては、鎌倉公方持氏の力がこうして削がれることは願ってもないことだっただろうけれど、しかしだからといって禅秀がこんな形で力をつけることを黙認できる訳でもなかった。幕府にとって必要なのは、幕府のコントロール下にある関東の秩序、なのである。

 義持は範政に禅秀討伐を命じ、範政はこの関東の混乱の鎮圧に乗り出す。その詳細もまた割愛するけれども、範政は鎌倉にまで禅秀を追い込み、禅秀の自害によってこの戦乱を収束させるのに大いに尽力したのである。

 範政はこうした、単なる一国の守護であることを超えた務めを果たしながら、その上で、上記のごとき「文化人」でもあったのである。これこそが今川氏の「家風」というものの姿であって、決して「文弱」なんてものではなかったのである……少なくとも氏真以外は(笑)

 そしてこうしたバランス感覚があったればこそ、今川氏は守護大名から、有力な戦国大名へと変貌していくこともできたといえるのではないだろうか。

 では次回、戦国大名今川氏誕生のあたりを、読んでみることにしましょう。

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『駿河今川氏十代』 その1


 今川氏についての広報活動 Ⅰ
 その始まり





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 戎光祥社 中世武士選書25 『駿河今川氏十代』 小和田哲男著
 ISBN978-4-86403-148-6



 我が郷土静岡市で、地元ゆかりの戦国大名はというと、なぜか、徳川家康が挙げられることが多い。家康が幼少期を駿府で過ごしたことは確かであるし、その最晩年もまた駿府で過ごした上、駿府でその生涯を閉じ、日光の前にまず駿河の久能山に埋葬された、というのも確かである。が、家康はもともと三河の戦国大名だというべき人物であろう。

 その晩年を駿河で過ごしたのは、天下人として、どこに住もうと自由な立場にあって、たまたま駿河を選んだ、というだけであり、よってその時期の家康はいわば「日本の」家康なのであって、「駿河の」家康とはいうべきではないだろう。そして年少期についていうならば、これは「人質」として三河から駿河につれてこられていただけなのだから、やはり「駿河の」ではなく「三河の」、である。

 となると、駿河ゆかりの戦国大名は、という問いには、やはり今川氏、と答えるべきなのである。これはもう、絶対にそうなのである。いくら今川氏のイメージが少々悪いからといっても、その事実は揺るがないのである。そして、いくら周囲に信長だの信玄だのといった強くて男らしくてカッコいい武将がたくさんいるからといっても、静岡市民ならば、地元の戦国武将である今川義元を支持し、愛するべきなのである。これはもう、そういうことになっているのである。

 しかしいくら支持し愛そうとしても、今川氏のことをよく知らない、とあってはなかなか難しいものがある。ということで、この本を買ってきて勉強することにしたのである。

 ただ、こういう種類の本について、読後感想を書く、というのはちょっと難しいので、今回は、この本から得たばかりのにわか知識から、我が郷土の誇る戦国大名今川氏について、ご紹介、という感じにしたいと思う。

 「御所(足利家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」。

 これは室町幕府の将軍継承権について俗にいわれた言葉である。場合によっては将軍の継承権が発生する可能性があるといわれるほどに、今川氏は足利将軍家に近い血統にあった。

 ただ、その家格の高さのみによって、今川氏が大きくなっていった訳では無論なかった。吉良は足利の分家であり、今川はその吉良の分家であった訳だが、こうした分家ならば他にいくらでもあったはずである。その中にあって、例えば数に限りのある守護職の座を得るためには、なんらかの手段によって他を出し抜く必要があるだろう。

 今川氏発祥の地は、現在の愛知県西尾市今川町である。吉良家の分家がここに居を構え、その地名から今川を名乗った、という訳である。この今川氏が、最初に歴史の表舞台にその名を現したのは、「中先代の乱」における武勲であった。

 「中先代の乱」は、建武二年(1335年)の、後醍醐天皇の所謂「建武の新政」に対する北条時行の反乱である。足利尊氏・直義の軍勢が、鎌倉を目指して逃げようとする時行軍を追う過程において、東海道の難所のひとつで歌枕としても有名な小夜の中山峠で合戦となった。この戦いに、尊氏軍の大将として参加していたのが、今川氏の二代目基氏の長男、頼国であった。

 頼国は、敵将名越邦時を討ち取る等、奮戦した。このときに、頼国が邦時の武勇をたたえ、その鎧を埋めて弔った、とされる場所が、今も小夜の中山にある。当ブログでも以前スーパーカブで訪れた際に取り上げた、「鎧塚」がそれである。




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 これがその「鎧塚」。(記事はこちらです。お暇でしたらどうぞ。「カブのこと 12・旧東海道 大井川から掛川宿、その2 小夜の中山峠」)

 ただその頼国もまた、その後の相模川での戦いで二十本もの矢を受けて討ち死にしている。今川氏の当主基氏としては、長男を失った訳であるからこれは大きな痛手であっただろうけれど、結果的にはこの争乱で、基氏は五人の息子の内の三人までもを失った。しかしこの犠牲は、尊氏の印象に残らずにはいなかったことだろう。そして生き残った二人の兄弟の内、五男の範国が家督を継いだ。

 「中先代の乱」の後、こんどは後醍醐天皇と足利尊氏・直義とが対立した。ここから南北朝時代という混乱が始まる訳である。余談であるが、この対立の最中である建武二年(1335年)十二月五日、直義の軍と、後醍醐天皇方の新田義貞とが、現在の静岡市駿河区にある手越河原で戦った際に、新田軍が陣を張った場所に、私は過去に行ったことがあった。




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 ここ。以前住んでいたアパートの近所の、お散歩コースにあったのだ。しかもそれを、当ブログ内で取り上げたりもしている。で、記事はこれ。「日々の出来事 21・この街の思い出」。しかし当時は何のことやら解らなかったし、あんまり興味もなさそうだったことが、記事の文面からわかりますね(笑) さらにいうならば、以前ご紹介した「千手の前の像」がある「少将井神社」も、この近所になります。こちら。「カブで史跡めぐり 23・少将井神社、千手の前の像」。

 閑話休題。この今川範国が、所謂「駿河今川氏」の初代、とされる。つまりこの範国が、初めて駿河の守護に任じられた、ということだが、それは「青野原の戦い」の直後であるという。

 「青野原の戦い」は、建武四年(1337年)八月に、後醍醐天皇の要請を受けた畠山顕家が、京を目指して軍を動かしたのを、尊氏が美濃の青野原に迎え撃ったものだった。戦いは一応、顕家方の勝利、ではあったが、尊氏としては顕家に京に入られることを阻止できたということで、満足できる結果といえた。

 そしてこの戦いにおいて、範国はその勲功を尊氏に認められた。そして反対に、陸奥から京を目指していた顕家の侵攻を食い止めることができなかったのが、当時の駿河守護であった石塔義房であった。義房は任を解かれ、かわりに功績のあった範国が駿河守護の座についたという次第であった。

 駿河の国府所在地、といえば府中、すなわち後年の駿府、現在の静岡市、ということになるが、範国はいきなり府中にその本拠をおいた訳ではなかったようだ。通説では、まず現在の島田市にあった大津城に入り、そしてその後に現在の藤枝市にある葉梨郷花倉を本拠として、館と、詰めの城である花倉城を築き、その後は三代泰範の時代まではこの花倉にいた、というものらしい。

 ただ、以前花倉城址に行ったときの記事にも書いたが、範国の時代にはすでに府中に居を移していたと考えられるような文献もあるらしい。このあたりははっきりしないが、勿論、花倉に残された今川氏ゆかりの史跡等をみる限り、今川氏にとっては花倉が特別な場所であることには間違いなさそうである。(花倉城については、こちらを。「カブで史跡めぐり 33・花倉城」)

 こんな次第で、駿河今川氏は誕生した。そして初代範国から氏真まで、十代に渡って駿河を支配し続けるのであるが、なんだか寄り道ばかりしていたら長くなってしまった。続きは、次回。

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『源頼朝』


 流人、頼朝



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 岩波新書 『源頼朝』 永原慶二著
 ISBN4-00-413098-0



 何年か前に、教科書の鎌倉幕府の成立が「1192年」から「1185年」に変わっている、なんてことが話題になった。私は勿論「いい国つくろう」で憶えた世代であるが、この変化について、特に何も考えなかった。何か新しい文献でも発見されたのかな、ぐらいにしか思わなかった。

 しかし昨年からの我がニワカ歴史熱が嵩じるにつれ、いよいよ、気にせずにはいられなくなってきた。ちょっと前に清盛の本なんか読んだのでなおさらである。しかしまあ、最新の教科書が1185年(「いい箱」と憶えるらしい)というのだから素直にそれに従えば良いのだけれど、それができないのが我々大人である。ガンコで融通がきかないのである。「いやいや、そう簡単に変えられてたまるもんか、「いい国」説にだってそれなりの論拠があったはずなんだから」と、いろいろ調べ始めるのである。

 で、調べた結果どうだったのかというと(調べたといっても幾つかのそれらしいwebページをまわってきただけだが)、これは結局、鎌倉幕府、あるいは幕府政治というものをどう定義するのか、という問題に行き着くようである。簡単にいうと、あくまでも頼朝が征夷大将軍という地位についたときをもって幕府の成立とみなすならば従来の「いい国」説になるし、源氏が壇ノ浦に平家を滅ぼし、同年に鎌倉幕府のシステムの特徴であるところの守護、地頭を各地においたときをもって、実質的に「武家政権」なるのもが成立していたのだ、とみるならば「いい箱」説になる、ということである。

 (なかには、「教育界にはびこる左派勢力が、征夷大将軍任命という、「王朝」つまり天皇家の影響を歴史から排斥し、あくまでも古代からの律令制国家を廃して新興勢力たる武士が台頭したという「階級闘争」の枠組みに押し込めたいがために、「いい国」から「いい箱」に変更したのだ」、なんていう穿った意見もみられた。所謂「マルクス史観」からの脱却というものは、ひとつの先入観から脱するという意味において私も重要なことだとは思うので、これはこれで全然興味のない話ではないのだけれど、これをインターネット上という公共の場で深く追求し始めると、いろいろ大変なことになりそうなので今回はやめておきます(笑))

 そして、「いい国」と「いい箱」以外にも学説は幾つかあるようである。これは、以前興国寺城に行ったときの記事に少し書いた、「いつからいつまでが戦国時代か」という問題と同じである。鎌倉幕府、というも、戦国時代、というも、結局、後世の歴史家が歴史上のある出来事に名付けたものなのであり、頼朝が自分の政権を鎌倉幕府と呼んだ訳でも、北条早雲が自分の旗揚げに際して「今から戦国時代のはじまりじゃ」とか何とか言ったという訳でもないのだ。だから、無責任なことをいってしまうならばここでも正解というものはないのである。幕府政治とは何なのか、自分で調べて頼朝が構築した「武家政権」なるものを知った上で、同じく幕府と呼ばれる室町・江戸幕府と比較、さらには幕府と「呼ばれない」政権との比較もし、そして初めて、自分なりの「幕府観」、ひいては「史観」というものが得られるのだろう。

 という訳で、その第一歩として、こんな本を読んでみた、という訳である。初版が1958年の本であるから、もしかしたら、書かれていることは現在の視点からは「古い」とされるのかも知れない。ただ古い故に、何というか「目新しさ」を狙ってセンセーショナルな「トンでも学説」をでっち上げたような本はなく、定説といってはおかしいが、従来的、一般的な基礎知識を得られることが期待できそうな本だと思い、これを選んでみた。そしてその期待は、多分裏切られなかったのだと信じる。無論、他と比較した訳ではないので軽々なことはいえないけれど。

 ただ、「鎌倉幕府」というものについて知りたくて読み始めたのに、惹かれたのは前半の、「流人時代」の頼朝の姿であったというのは我が事ながら誤算であった。これはもういうまでもなく、彼が島流しになったのが伊豆という、郷土史に惹かれて史跡めぐりなど始めた私には見逃せない場所であったことが原因ではある。しかしよく考えてみると、この頼朝の「流人時代」について、ほとんど何も知らなかった、というのも大きな理由であった。

 これは勿論私の無学のせいではあるが、言い訳させて頂くなら、この時期の頼朝について、現代に伝え知らせる文献がほとんどないのだ。よって、私などが知らないのも道理、というものなのである。

 記録がない、というのは残念な事ではある。ただ、この他ならぬ記録がない、という事自体が意味するところが、重要だと思われる。すなわち、流人時代の頼朝は、その様子を記録するに値しない人物であった、ということである。

 平治元(1159)年の「平治の乱」が終わった段階で、頼朝は14歳であった。彼は長男ではなかったけれども、その時点ですでに義朝の後を継ぐのは彼だと目されていたようなので、当然、勝者である平清盛は頼朝を殺していても全くおかしくはなかったが、清盛の継母池の禅尼等の懇願によって助命された。これを清盛の誤算、甘さだとするのは簡単だけれど、見方によっては、殺す価値もなかった、と見る事もできる訳だ。

 事実、彼は文字通り「身ひとつ」で伊豆は蛭ケ小島(現在の伊豆の国市の地名)に流された。幽閉というほど酷い拘束状態ではなかったにせよ、監視の眼はあった。というより、平家の世であるから周囲の有力者は皆監視者だといえた。武力も財力もないまま、彼は都から遠く離れた僻地にぽつねんとしてあった。その様子は確かに、将来記録に残すに値する人物になるとは思われなかったのだろう。

 で、彼自身は、その自らの境遇、源氏の棟梁として打倒平家の先鋒たるべき自分が、こんな有様であることへの忸怩たる思いに苦しみ抜いていたのかといえば、それがどうもそうでもなかったようだ。以仁王の令旨に応えて挙兵するのが34歳であるからその間実に二十年、頼朝は別段打倒平家のための準備を秘かに進める訳でもなく、流人らしく写経だの読経だのをしながら、おとなしく過ごしていた。ふたつの大恋愛などもした。ふたつめの恋は北条政子とのロマンスであったから、これは結果的には、北条時政という強力な後楯を得ることになった、という意味で図らずも平家打倒への大きな一歩となった、とはいえるかもしれないが。

 面白いのは、こうした世捨人的な流人頼朝が、十数年という短い期間に、専制的、独裁的な支配者に変貌していく様子である。この本の著者は、基本的には序文にあるごとく「できるだけ年代記に忠実に、彼の歴史的事業のあとをたど」るという姿勢を維持しながらも、その主体である頼朝の人間的な変化をも丁寧に追っていく。この辺り、実に興味深かった。

 大した兵力ももたずに駆けつけた弟義経を、黄瀬川のほとりで涙をながして喜び迎えいれた頼朝が、十年後、その義経を衣川に討ち滅ぼすのである。その変化の過程については、もうこの本を読んで頂くのが一番であろうけれども、頼朝が頼朝であらんがために、この変貌は必然であり必要不可欠であったのだろう。

 この本を一冊読んだだけでは、勿論鎌倉幕府の成立がいつであったが、確信の持てる解答を得られる訳ではないけれども、この所謂「源平合戦」の時代の概略を知るという意味においては実に有意義な読書であったとはいえる。また、先日読んだ『平清盛の闘い』は、同時代の都での出来事を扱っていたので、今回、東国からの視点でそれを見直す意味もあって、その点でも興味深いものがあった。多角的な観点、何事もやはりそれが大切である。対象をより理解する為にも、また、対象をより楽しむ為にも。

 ところで、蛭ケ小島、といえば下田街道だ。三嶋大社から発して天城峠を越えて伊豆半島の南端の下田に至るこの脇街道の、はじめの辺りである。そういえば、北条早雲が興国寺城のつぎにその拠点とした韮山城も、その近所であった。次のスーパーカブ110での史跡めぐり、この辺りをまわるのも悪くなさそうである。


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