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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『春昼・春昼後刻』


 春のうららの鏡花など



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 岩波文庫 『春昼・春昼後刻』 泉鏡花著
 ISBN4-00-310275-4


 
 霞か雲か、ボンヤリとものの輪郭の定かでないような空気と、若葉の柔らかな緑を画布として点描される、これまた緩い色合いの花々。春の景色は確かに、夢かうつつかとひとを惑わせるようで、車の運転などしていると全く危なくてしょうがないのだが、実際それは他ならぬ泉鏡花の物語世界とは、最も相性のよい季節だ、とはいい得るだろう。

 そこでは、「この世」と「あの世」との境界というものがはっきりとしない、あるいは、そのふたつの世界がとても近くにある。便宜上「あの世」と書きはしたが、それはこの現し世と隔絶された彼岸にあるのではなく、ふとした拍子にふらりと踏み込んでしまうほどにすぐ側近くにあり、我々はいつ、その境界を踏み越えたのか気付かぬままに、あやかしの世界に取り込まれてしまう。……鏡花の本を読む者は皆、それを経験させられる。あるいは、鏡花の本を読むということとは、そういうことなのだ、としたほうがよいだろうか。

 だからこの『春昼』及び『春昼後刻』は、鏡花の最高傑作なのか否かはおくとしても、最も「鏡花的」な作のひとつである、ということはいえると思う。今回、春の陽気に誘われて久しぶりにこの二作を読んだので、それを紹介しつつ、この「鏡花的」なるものについて、私が捉えているところのものを、少し書いてみようと思う。このブログが読書ブログだということを、皆さんに忘れられないためにも(笑)。

 なんということもない春の日が、ふとした出来事、印象的ではあるが決して起こり得ない事でも珍しく信じ難いことでもない、小さな出来事をきっかけに、変容する。日常の景色が、いつのまにか、あやかしの世界に繋がっていく。

 
  うたた寝に恋しき人を見てしより
  夢てふものを頼みそめてき



 確かに名歌ではあるが、取り立ててかわったところのある訳でもない、当り前の恋歌である小町の歌が、言葉はそのままにその意味を変え、異世界への扉を開く呪文となったまさにそのように、当り前の田舎の景色が、知らぬ間に変質している。そう、「散策子」が一匹の青大将を見たそのときに、春の昼下がりの散歩はもうすでに、異界へと迷い込もうとする一歩一歩となる。が、しかし、そのことに「散策子」は気付けない。見た目には世界は何も変わらないから。そして、彼を追う読者である私たちも。

 読者はいつもの読書のならいで、第三者的な立場から、物語を俯瞰し、冷静にそれを理解しようとするだろうけれども、それは無駄な試みである。物語は三人称で語られるが、視点は常にこの「散策子」にある。物語世界は彼の眼を通してだけ観られ、即ち我々の視点はここに固定されてしまう訳である。そしてその視点から、ある時は漢語的、ある時は雅語的に表現されながら、全体としてまるでくだけた口語であるような、そして散文でありながらも詩文であるかのように色あい豊かな、その特徴的な文体を追っていくとき、我々はもう鏡花の術中にある。我々は「散策子」と共に、知らず知らずの内に異世界へと踏み込んでしまうのである。

 客観などできない。しているつもりが、最早我々の「理性」、我々が万能と信じる理性を、縛められてしまっているからだ。だから諦めて、もう後戻りはできないのならばと、溺れてしまうことだ。身をまかせてしまうことだ。うっとりと菜の花畑を横切る小道をゆくように。桜を散らす馥郁とした風にゆるゆると吹かれるように。鏡花の世界はそこに妖しくも美しく展開され、我々を迎え入れてくれる。無事に帰れる保証はどこにもないけれども。

 こうした小説は、もう現代の作家には書けないだろう。明治期の作家の例にもれず、それは見極め難いほどに高く深い教養に裏打ちされて成っているのだが、この教養を、現代人が身につけることがまず不可能だろう。これは勉強して得ることのできる類いのものではない。もうこういう性質の教養を身につけられる時代は過ぎ去ってしまった。

 それはまた「世界」との距離感にも同じことがいえるだろうと思う。より正確を期するならば、「世界の隠された半身」との距離、とでもいうべきだろうか。闇や死など、「陰」の世界に属することどもとの、距離だ。

 我々現代人は、これら曖昧なもの、理解不可能なものを、排斥し、それらから隔絶された「都市」という人工空間のなかに生きている。しかし昔の人たちは違った。闇は夜よりも暗く彼らに迫り、死はその傍らに常に控えていた。「デモーニッシュ」などという言葉もある。かつて人々は我々とは「違う」世界に生きていたのである。だから、表現されるものも、根本からして異質なのである。真似ることはできない。その表現の母体となるべき「認識されるもの」が違うのだから。

 そう、だからここでいわれる「蛇」は我々にとっての蛇ではない。それは爬虫類の一種ではなく、霊的な何かなのであり、同じく怖がるにしても、我々が気味悪がるのとは全く違う。それは恐怖の対象ではなく、「畏怖」の対象である。咬まれるから怖いのでも、毒があるから怖いのでもない。人間の手に負えないような力をもった、人間の知らない世界から来た存在であるから怖いのである。

 それは「女」についても同じだ、というべきだろう。ここに描かれる「女」は、現代の所謂「女性」とは根本において異質なものだ。性差別がどうとか、男女同権がどうとかいう話がどうあろうと、事実としてそうなのだ。殊に、「絶世の美女」ともなればもう、それは半神的存在、精霊とか、天女とか、ニンフとかいわれる存在に近くなる。「絶世」とはここでは単なる美辞麗句ではない。まさに「世を絶した」存在なのである。

 よってこの物語に語られる「美女(たおやめ)」は、悲劇の主人公であるばかりでなく、悲劇の舞台そのものでもあるのだ。彼女は人間としての女であると同時に、一種の妖魔である。同じ鏡花の作でいうならば、『天守物語』の富姫と同種の存在である。だから、その立ち居振る舞いは男達を妖しく魅了し、彼女が書いたならば小町の古歌も人を惑わす呪術の言葉に変容する。彼女に魅入られた若者は異世界にひき込まれて二度と帰らず、そればかりか彼女自身までもが、自らの半身のもつ魔性に取り込まれて、「夢てふもの」を頼み、それに身を捧げてしまうのである。

 春と、恋、そして夢。これぞまさしく鏡花の作である。その独特な文体は、少々とっつきにくいかもしれないが、しかしこの文体もまたこの作品を形作るひとつの重要な要素である。そして本当にこの文体を楽しむことができるのは、日本語を母国語とする我々だけであろう。そう思えば、この文体に挑む価値は充分にあるといえる。それに、決して難解な文章だ、ということではなく、我々が読み慣れた文章と違う、というだけで、語られる言葉は雅趣豊かな、まさにこれぞ散文詩とでもいいたくなるものであり、その魅力に気づき、夢中になる頃には、見事、読者は鏡花の世界に取り込まれていることだろう。

 『春昼』、そして『春昼後刻』とふたつに分けらた、連作、ということになってはいるが、その節に振られた番号が二作に連続していることを指摘するまでもなく、二作は完全に繋がっており、一個の作品とみてしまってよい。いずれにせよ、ふたつ合わせても文庫本で150ページにも満たない短編である。春の盛り、天気のよい日曜の午後などを、この本に溺れることに使ってしまうのも悪くはないと思い、こんな記事をかいてみた次第である。


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