FC2ブログ

乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

カブのこと 29


 田沼街道 その4・相良城


 小山城への寄り道から、また旧田沼街道に戻る。しばらくは国道150号線を行き、





IMG_0849_convert_20160310155745.jpg

 ここで右の脇道へ斜めに。しばらくはこの裏道を150号と並行して進んでいく。




IMG_0850_convert_20160310155817.jpg

 こんな道。30km/h制限がかかるくらいの、細道。




IMG_0851_convert_20160310155844.jpg

 勝間田川を渡河して、




IMG_0853_convert_20160310155920.jpg

 「鹿島神社」前を過ぎ、またしばらく走り、




IMG_0856_convert_20160310160015.jpg

 ちょっと山の方へ入ったところにあるのが、「大鐘家住宅」、の門。またまた、朝早すぎて入れない。しかたないので駐車場にあった説明書きで我慢しよう。曰く、


 主屋は十八世紀前半、長屋門は十八世紀後半の建築であると考えられます。
 主屋は明治以前まで草葺きで静岡県最古の古四間取形式といわれ、構造・手法は江戸初期の豪農の屋敷構えをよく残しています。
 大鐘家は、慶長二年(一五九七)越前の国(福井県)の柴田勝豊の家臣大鐘藤八郎貞綱が、当地大磯村に移り住んだと伝えられ、十七世紀後半からは代々大庄屋をつとめていました。



 とのこと。しかし私が見たいのはこの屋敷そのものよりも(マケオシミでなく)、これであった。




IMG_0858_convert_20160310160050.jpg

IMG_0860_convert_20160310160123.jpg

IMG_0861_convert_20160310160155.jpg

 この、石垣。そしてその前に続く小道である。石垣は、元々は相良城のもの。そして小道は、かつての田沼街道そのものである。

 意次は幕府の財政を建て直すことに成功するが、意次の先進的、あるいは急進的な改革は、松平定信ら幕内の保守派ともいうべき人々の反発を買う。そんな折、意次の重商主義のために農民が都市部に出てしまい、疲弊していた農村部を、「天明の飢餓」と呼ばれる大飢饉が襲う。その対策に失敗した意次は、しだいにその権勢を弱め始める。

 そして天明六年(1786年)の将軍家治の死去を機に、意次は失脚する。後を受けた松平定信による粛正は容赦がなかった。老中を辞任させられたのは勿論、加増分の二万石も没収、そして私財や屋敷等も没収された上、相良城は徹底的に打ち壊された。蟄居を命じられた意次は、失意の中、天明八年(1788年)、七十歳で死去する。

 その相良城打ち壊しの際に、大鐘家がその石垣の一部を購入。それが、現在もこうしてここに残っている、という訳である。その前をわずか数十メートルほど伸びる田沼街道と共に、ここが一番、相良藩主田沼意次の事績を今に残している場所だ、といえるのかも知れない。そう思うと感慨深いものがある。




IMG_0862_convert_20160310160219.jpg

 先へ。この辺りまでくると、海はもうすぐそこだ。




IMG_0865_convert_20160310160257.jpg
 
 また国道に出て、




IMG_0866_convert_20160310160329.jpg

 ここでまたまた裏道へ。しかし、ここまでくれば、もうゴールは眼の前である。




IMG_0867_convert_20160310160409.jpg

 最後の道程を行く。




IMG_0869_convert_20160310160447.jpg

 萩間川に突き当たるので、川沿いを上流方向へ。




IMG_0876_convert_20160310160527.jpg

 「湊橋」という橋を渡ると、




IMG_0870_convert_20160310160613.jpg

 すぐに、「大和神社」という小さな神社がある。その角にあるのが、




IMG_0875_convert_20160310160700.jpg

 これである。旧田沼街道相良側起点。ついに、ゴールである。やっとついた。それでは、相良城趾を見に行こう。




IMG_0881_convert_20160310160751.jpg

 相良城趾は、現在、牧之原市役所相良支所や、小学校、高校などに利用されているようである。城の面影はなく、こんな石碑が立つばかり。……ん? 石碑の後ろに何かある。いってみると、




IMG_0880_convert_20160310160834.jpg

 また、田沼街道の起点があった(笑) どっちが本物なんだろう? まあ、自然に考えて、城の中に街道の起点があるというのはおかしいので、湊橋のたもとの方が本物ではなかろうか。ここはきっと、古い橋の親柱だけ移築したと、そういう場所なんだと勝手に理解しておく。




IMG_0877_convert_20160310160909.jpg

 本丸跡は、史料館。無論、まだ時間が早すぎて入れない。




IMG_0879_convert_20160310160948.jpg

 しかし、何か城の痕跡がありそうなものだと、付近をうろうろ。現在の城、ともいうべき(地方行政の中心という意味で)役場の建物等をながめつつ。




IMG_0883_convert_20160310161025.jpg
 
 小学校の入り口で、やっとみつけた。「相良城二の丸のマツ」。数少ない相良城の痕跡として、牧之原市の天然記念物に指定されている由。

 さて、ではそろそろ、今回のお散歩ツーリングはおしまいとしよう。役場の前の道を真直ぐ海の方へ向かう。




IMG_0887_convert_20160310161100.jpg

 駿河湾の景色。この辺りは綺麗な砂浜で、海水浴やサーフィンを楽しむ人が多い。意次も、この海を眺めたのだろうか。しかし、彼がここでのんびり海を眺められるような機会は、それほど多くはなかったようである。

 城から東海道藤枝宿を連絡する街道を通した田沼意次であったが、彼自身は、一度しかこの街道を通らなかったという。他の大名と違って、定府大名である意次は、参勤交代どころか、将軍の許しなく江戸を離れることすらできなかったらしい。それでも、二度だけ「お国入り」をしている。

 宝暦八年(1758年)、相良を領地として与えられたそのときに、初めて相良にやってきた。しかしこの時はまだ田沼街道はなかった訳で、往路復路共に、意次は東海道を通り、ちゃんと島田・金谷間の渡し場で大井川を渡った。

 しかし相良城が完成した安永九年(1780年)に再び相良にやってきた時は違った。往路は、前回と同じく東海道で大井川を渡河した意次だったが、帰り道に、近道を通ったのである。藩領巡見を名目としていたらしいが、その時の彼の通り道が、そのまま田沼街道となったらしい。

 意次はこの街道整備の他にも、藩主としてその手腕を発揮した。相良の街に大火が続いたことから、延焼を防ぐ為に道の幅を広げ、茅葺き屋根を瓦葺きに変えることを奨励しているし、それまでは渡し船に頼っていた萩間川への最初の架橋も意次の仕事である。また養蚕や塩の生産などの振興にも努めて産業の発達も促した。その藩政は、どうやら領民にも好評だったようである。

 そして、この相良の地に築城を許されたということ。これは実に重大なことだと思われる。「入り鉄砲と出女」については、箱根峠のときに少し書いたが、箱根関では主に「出女」を改め、「入り鉄砲」については、浜名湖のほとりの新居関で主に取り調べられた。なぜかというに、新居関より東の東海道沿線には、もう親藩や譜代大名の領地、そうでなければ幕府の直轄地しかなかったからである。すなわち、新居より以東には、幕府に信頼された大名しかいないので、鉄砲を箱根で改める必要があまりなかった、ということだ。

 意次は、まさにその「新居関以東」に、天守閣付きの築城を許されたのである。「家柄」がものをいうあの時代に、譜代大名どころか外様大名ですらなく、ただの旗本出身にすぎない「成り上り者」への待遇としては、まさに破格というべきものである。将軍家がどれほど彼を信頼していたのか、ここからも理解できるのではないだろうか。

 そしてこうしたことから、彼の「悪徳政治家」としての悪評は、どうやら彼の政治的敵対者達による流言ではないか、という疑いも強まるというものである。ねえ、定信君(笑) まあ、一方において、「その1」でも書いたように、意次が「時代にそぐわなかった」のも事実だとは思うのだが。

 意次失脚後、相良領は幕府の直轄となっていたが、文政六年(1823年)、意次の四男である意正が藩主として戻り、相良藩一万石の再興は成った。その後は、明治になるまで相良藩は存続した。

 といったところで、今回は終わり。また近いうちに、どこかを走ろうと思います。




関連記事
カブのこと 1・県道396号線 その1・富士、蒲原
カブのこと 4・鎌倉街道(徒歩0分)その1・梶原一族最期
カブのこと 6・旧東海道、静岡市内
カブのこと 8・旧東海道 安倍川から大井川
カブのこと 10・旧東海道 大井川から掛川宿
カブのこと 15・旧東海道 富士川東岸、吉原宿
カブのこと 16・旧東海道、原宿、沼津宿、三島宿、三嶋大社
カブのこと 17・旧東海道、箱根
カブのこと 19・清水港湾地区

にほんブログ村 バイクブログ カブ系へ
にほんブログ村

スポンサーサイト



PageTop

カブのこと 28


 田沼街道 その3・小山城


 旧田沼街道めぐりもこれで三回目。まだ半分も進んでません。かつては無論田沼街道のために橋が架かっていた訳ではないので、国道150号で大井川を渡河。渡ってすぐに、土手沿いの道を左折、川岸にそって下流方向を目指す。




IMG_0804_convert_20160310150552.jpg

 その辺りから、150号線を振り返る。




IMG_0805_convert_20160310150621.jpg

 寺島川除地蔵。天保年間、大井川の度々の氾濫による洪水被害に悩まされ、ここにお地蔵様が祀られた。縁日の「灯籠あげ」という行事は、吉田町指定の無形民族文化材、だそうだ。

 


IMG_0809_convert_20160310150648.jpg

 150号から数百メートル、土手の上から下流方向を望む。このあたりで、右折。




IMG_0811_convert_20160310150718.jpg

 この道を入る。これが旧田沼街道。




IMG_0812_convert_20160310150750.jpg

IMG_0814_convert_20160310150824.jpg

 「熊野神社」などを横目に、こんな裏道を辿ると、




IMG_0816_convert_20160310150857.jpg
 
 また国道150号線に合流。ここで、コースを北に少々はずれて寄り道をする。




IMG_0819_convert_20160310150928.jpg
 
 これである。「小山城跡」。田沼時代、即ち江戸時代中期という、この国が歴史上最も政治的に安定していたといってよい時代から(現代? 現代なんて、まだ最後の戦争から70年しか経っていないので、250年以上も天下太平の世が続いた江戸時代とは、比較にならないほどの「乱世」です)、話は戦国時代の、多分この辺りに最も戦乱が荒れ狂っていた頃に遡る。

 小山城趾は、現在、「能満寺山公園」として整備されている。すぐ側に大きな駐車場があるので、車やバイクはそちらに。




IMG_0820_convert_20160310151008.jpg

 その「能満寺」が、こちら。ここの境内にあるのが、




IMG_0824_convert_20160310151042.jpg
 
 国指定天然記念物、「能満寺のソテツ」。日本三大ソテツ、だそうで、つまりこれ全部で一本のソテツ、ということなのだろうが、もうなにがどうなっているのかわからない(笑)




IMG_0825_convert_20160310151126.jpg

 その脇に、小山城への入り口がある。ここを登ると、




IMG_0826_convert_20160310151204.jpg
 
 さらに階段。これはなかなかの傾斜。右に伸びる少しなだらかな「女坂」もあるが、私はこう見えても男の子なので(笑)、強がって左の急な階段を登る。
 



IMG_0827_convert_20160310151250.jpg

 いい加減に息もあがってきた頃にたどりつくのが、「虚空蔵尊」。




IMG_0832_convert_20160310151510.jpg

その先にみえてくるのが、「展望台小山城」。残念ながら、小山城には天守閣はなかったので、これは最近になって造られた模擬天守である。中は資料館のようになっており、最上階は展望台らしいのだが、またしても例によって朝早すぎて入れず。9時開場、だそうです。




IMG_0829_convert_20160310151347.jpg

IMG_0830_convert_20160310151429.jpg

 しかしこちらは本物。堀の跡。この三日月堀、というのが、歴史文化財的価値の高いもの、であるらしい。

 戦国時代、といっても、今川義元の時代は、この駿河、遠江国境周辺は比較的平穏を保っていた地域だ、といえるだろう。内輪もめなどはあったかもしれないが、有力大名たる今川氏の、三河や尾張の一部にまで達する広大な支配地域の、ど真ん中に位置するのだから。しかしその今川義元が、1561年に桶狭間の戦いで討ち死にすると、事態は一変する。

 義元の死後、急速に弱体化する今川氏が、見過ごされる程甘い時代ではなかった。甲斐の武田氏と、三河の徳川氏に挟まれた今川氏は、あっという間に領土を失い、最終的には掛川城に籠城するも、徳川勢の攻撃により1568年落城。今川氏は北条氏の庇護の元、かろうじて存続するが、戦国大名としての力は、桶狭間からたったの7年で完全に失う。

 今川氏挟撃に際しては、武田氏と徳川氏との間に密約があったらしいが、それも乱世のならい、武田氏が遠州に侵入したことで破綻、今度は駿河、遠江をめぐって、この二者で争うこととなる。そこで武田氏が、1571年、元々あった今川氏の「山崎の砦」を元にして築いたのが、この小山城、ということになる。

 ここから始まる、織田・徳川と武田との一進一退の激しい争いについては、もうややこしすぎるので割愛。最終的には、長篠の戦いの後に徳川勢の猛攻にあい、1575年の諏訪原城落城の後も数年間は絶えぬくも、1582年、ついに小山城は落城する。

 と、小山城の歴史について、取り急ぎ調べたことを適当にまとめてみたが、間違っている可能性は充分にあるのでご注意。くれぐれも、大学受験のための参考になどしないように(笑) ようするに築城は武田氏によるものなので、その甲州流築城術なるものの特徴が強く出た構造をもっている、らしい。よくわからないので、まあ、実際に見てみることにしよう。




IMG_0841_convert_20160310151551.jpg

 復元された大手門。こちらが正面で、私は裏側からあがってきた、ということになるようだ。




IMG_0847_convert_20160310151711.jpg

 その近くにある、「三重堀」。木がいっぱいで暗くて、写真ではさっぱりわからないが、実際に見に行くとかなりはっきりと堀の形がわかります。上の「三日月堀」というのが、武田流の築城の特徴であり、それがここではみっつ並べられているのだが、それがとても珍しく、貴重であるという。




IMG_0846_convert_20160310151630.jpg

 こんな説明書きがあった。なんだか、怖いね。

 それでは、小山城を後にし、また旧田沼街道に戻るとする……というところで、またしても長くなったので、次回に続く。ああ、たった七里の道のりの、なんと遠いことか。



関連記事
カブのこと 1・県道396号線 その1・富士、蒲原
カブのこと 4・鎌倉街道(徒歩0分)その1・梶原一族最期
カブのこと 6・旧東海道、静岡市内
カブのこと 8・旧東海道 安倍川から大井川
カブのこと 10・旧東海道 大井川から掛川宿
カブのこと 15・旧東海道 富士川東岸、吉原宿
カブのこと 16・旧東海道、原宿、沼津宿、三島宿、三嶋大社
カブのこと 17・旧東海道、箱根
カブのこと 19・清水港湾地区

にほんブログ村 バイクブログ カブ系へ
にほんブログ村

PageTop

カブのこと 27


 田沼街道 その2・藤枝側起点から大井川





IMG_0752_convert_20160306200354.jpg

 県道32号、即ち旧東海道を、旧藤枝宿から西へ。程なくして、瀬戸川に架かる勝草橋に出る。橋を渡り、川の西岸の土手道を下流方向へ100m程進んだところに、田沼街道の藤枝側起点がある。ここから、土手を降りる道の方へ。




IMG_0754_convert_20160306200428.jpg

 すぐにみつけた、合衆国の史跡(笑)。アメリカの物質文化というもの、実は私、嫌いではない。




IMG_0755_convert_20160306200459.jpg
 
 ガードをくぐる。上を走るのは、県道381号、即ち旧国道1号線である。




IMG_0759_convert_20160306200556.jpg

IMG_0756_convert_20160306200528.jpg
 
 その先に、こんな説明書きがあった。明和五年(1768年)、相良城築城を起工した田沼意次が、同じ頃、既存の街道即ち小山街道や浜海道を、連結、修復、拡幅するかたちで、相良城と藤枝宿とを繋ぐ田沼街道を開通させた由、書かれている。

 そう、意次が田沼街道を整備したのは、相良城と東海道との連絡をよくするのが目的であった。旗本から出世し、ついに宝暦八年(1758年)、相良1万石の大名となった意次は、その後築城をまで許され、相良の地に築城を開始した。武家諸法度によって、新たな築城が厳しく禁じられていた時代に、いくら将軍の覚えがめでたいとはいえ、親藩や譜代大名の出身どころか、ただの旗本出身でしかない意次が、築城を許可され、さらには天守閣の建設までもを許されたのだから、これは例外中の例外的出来事だというべきだろう。

 そしてさらに、こうして街道まで一本通してしまった。確かに、自領に道を造るぐらいのことならば、多くの大名たちもやっていることだろう。しかし意次の場合、まさにこの場所にこの形で街道を通したところに、注目すべき点があるのである。ここら辺りのことに留意しつつ、先を急ごう。




IMG_0760_convert_20160306200625.jpg

 しばらく行くと、道は県道に合流する。県道33号線、通称「田沼街道」である。

 田沼街道の名前は、現在この街道の名前として残っている訳である。この街道のことはすっと以前から知っていたが、正直、私はこの街道と田沼意次との関係など、最近になって旧東海道のことなど調べ始めるまではまるっきり知らなかった。この近所に、田沼という地名があるので、単にそのためにこの道が田沼街道と呼ばれているのだと思っていた。しかし多分事情はその逆だったのだろう。つまり、田沼街道があったから、その沿線のある地域が田沼の名で呼ばれるようになった、と考える方が自然である。

 さらにこのことにより、過去に走った旧東海道と同じく、田沼街道もまた、歴史的な変換、というものからは逃れられなかった、ということがわかる。私がこれから辿ろうという田沼街道は、「旧田沼街道」と呼ぶのが正しいのだろう。そしてその道も、多分、かつての意次が整備した道筋そのままではなく、「その旧道に一番近い場所を現在通っている道」、と考えたほうがよいのだろう。




IMG_0762_convert_20160306200654.jpg

 JR東海道線を藤枝駅東側でくぐり、さらに東海道新幹線もくぐった先で、「旧田沼街道」はまた、「現田沼街道」と別れる。写真右に逸れていく道がそれである。見ての通りの、まるっきりの裏道、生活道路である。

 


IMG_0770_convert_20160306200756.jpg

IMG_0768_convert_20160306200726.jpg

 栃山川を越えて、




IMG_0771_convert_20160306200831.jpg

 途中、新しい道に遮られながらも旧道は続き、また、県道と合流。歩道橋の先にみえる防音板は、東名高速道路のもの。その東名高速をくぐってすぐのところに、




IMG_0773_convert_20160306200902.jpg

 藤枝市と焼津市の市境がある。そしてこの「焼津市」の看板の下にあるのが、




IMG_0892_convert_20160306200934.jpg

IMG_0894_convert_20160306201012.jpg

 「田沼街道境橋」である。橋が跨ぐ川は、御覧の通り川というよりは用水路とでも呼びたい程度のものだが、古来、ここが駿河と遠江との国境をなしてきた、という。そう、この辺りでは国境は大井川ではなく、この境川であった。




IMG_0774_convert_20160306201053.jpg

 また細い裏道。ほぼ南下していた道筋は、この辺りから、ぐっと西へ向きを変え、大井川に真直ぐ向いだす。




IMG_0775_convert_20160306201132.jpg

IMG_0784_convert_20160306201207.jpg

 その途中。「百ヶ間地田跡」。江戸中期寛文年間に、豪農河守惣太夫秀延は、屋敷の前の所有地をななつの大区画に、そしてそれをさらに102の長方形に整然と区画し、それが「百ヶ間地田」と呼ばれた云々の説明書きあり。ようは、このあたりの区画整理をしたひとの墓石を、記念碑がわりにここにたててあるのだろう。この区画整理によって生まれた真直ぐな道が、田沼街道の元となったと考えることは自然であろう。確証はないけれど。




IMG_0788_convert_20160306201245.jpg

 その近所に、「八幡宮」。ただし、旧田沼街道を辿ってくると、写真右奥の、神社の裏手から入ることになってしまう。 




IMG_0792_convert_20160306201320.jpg

IMG_0796_convert_20160306201352.jpg

 そしてその先に、「田沼街道下瀬越跡」。すなわち、田沼街道の大井川渡河地点、である。今の大井川からは、まだ200m程離れているのであるが、昔はこの辺りに岸があった、ということなのだろう。




IMG_0800_convert_20160306201430.jpg

 で、大井川に至る。田沼街道を行く人々は、このあたりで大井川を越えていた、ということだ。……と、さらっといってしまうほど、その事実は軽いものではない、と私は思う。

 大井川の渡し、といえば、東海道の島田・金谷間の渡し場以外での渡河は禁止されていた。渡河の場所を限定し、制限することには様々な理由があったことと思う。大井川を、江戸を西国から守るいわば東国の「外堀」とすることも勿論だし、渡し場を関所がわりに利用することもあっただろう。また、渡しの業務は宿場の重要な収入源になっていたことから、既得権益としてそれを守りたい島田、金谷の両宿場からの要望もあったはずだ。

 しかし最も大切なのは、理由はなんであれ、それが幕府が決めた禁止事項であった、という事実であろう。支配者の定めた規則というもの、それは、例えいかに理不尽で不合理であろうとも、まずなによりも支配者の権威が守られる為に、絶対に犯してはならないものである。渡河に関わる禁制を破ることは、幕府の意向を無視することを意味した。故に、禁を破る者は厳罰に処されたのである。

 増水すればすぐに「川留め」となって、川越人夫が渡してくれなくなり、何日も水がひくのを待たなければならない大井川は、だからこそ箱根峠以上の難所だといわれた。しかし田沼意次は、そんな大井川を、東海道の正規の、そして唯一許された渡し場からは、ずっと下流の浅瀬で渡ってしまう田沼街道を、特に幕府から許可をもらった訳でもなく通してしまったのである。

 上で、「まさにこの場所にこの形で街道を通したこと」に大きな意味がある、と書いたことの理由のひとつが、これである。よりによって大井川を勝手に渡ってしまう街道を通してしまった、このことを当時の意次の権勢の大きさを示すものとしてみることに、無理はないだろう。

 田沼街道開通以前から、増水しても歩いて渡れてしまうこの下流域の浅瀬を、勝手に渡ってしまう者は少なくなかった、というのも事実ではあるらしい。まあ、今の我々が交通ルールを厳格に守らずに、平気な顔をして車を走らせているような具合に、庶民というものはいつの時代も、お上のルールをすり抜けてしまうものだ、ということだろう。そして庶民のやることならば、お上も「まあしょうがないか」で済ませてくれもしよう。川留めで長逗留となれば、旅費がかさんで、やっとのことで旅をしている庶民には財布に厳しいことになることは、お上もわかっていたはずだからだ。

 しかし、大名が堂々と街道を通してしまうことは、そんな庶民のささやかな脱法行為と同列に語られることではあるまい。徳川将軍家がこれをどうみていたのか。それはわからないけれども、少なくとも何のお咎めもなかったようである。これは意次の権勢の大きさあらわすと共に、将軍家からの信頼のあつさ、というものも、我々に知らしめてくれてはいないだろうか。




IMG_0801_convert_20160306201514.jpg

 私はむしろ、この「将軍の信頼」というものが大切だと思う。このことは、この先にさらにはっきりしてくるのではないか、というところで、前方に大井川を渡る国道150号線を望みつつ、次回へ続く。


関連記事
カブのこと 1・県道396号線 その1・富士、蒲原
カブのこと 4・鎌倉街道(徒歩0分)その1・梶原一族最期
カブのこと 6・旧東海道、静岡市内
カブのこと 8・旧東海道 安倍川から大井川
カブのこと 10・旧東海道 大井川から掛川宿
カブのこと 15・旧東海道 富士川東岸、吉原宿
カブのこと 16・旧東海道、原宿、沼津宿、三島宿、三嶋大社
カブのこと 17・旧東海道、箱根
カブのこと 19・清水港湾地区

にほんブログ村 バイクブログ カブ系へ
にほんブログ村

PageTop

カブのこと 26


 田沼街道 その1  藤枝側起点

 全ての道はローマに通ず。ローマ帝国があれだけの広大な領土を支配し、繁栄できたのは、領土の隅々まで道をつなげたからだ、とはよくいわれることだ。それは物資の運搬を容易にして交易の発達を促すのみならず、何より、兵力の素早い移動を可能にしてくれる。だから洋の東西を問わず、支配者達はいつでも、自国自領の街道整備に力を注いだ。よって徳川の五街道整備も、その常套手段にならったものだ、ということができる訳だ。

 江戸の日本橋を起点にした五街道。単に道をつなげるのみならず、宿場を設置して、物資や人員の移動を助けるひとつのシステムを構築したその政策は、やはり高く評価されて然るべきものだろう。古代からの事業の継承にすぎない、という見方はできるし、多分それが正しいのだけれども、全国規模で完成させたのは徳川である。ただ無論、五街道だけではとても全国を網羅しきれるものではなく、五街道から様々な道が縦横に延びていくことによって、初めて道というものは全体として機能する。

 だから例えば東海道からも、様々なローカル街道が枝分かれし、それぞれが様々な機能を担っていた。ある街道は難所の迂回を可能にし、また他の街道は東海道沿線から遠く離れた街との連絡路となった。わが静岡県下では、伊豆の下田街道や、遠州の姫街道などが有名であり、それらは総称して脇街道、あるいは脇往還などと呼ばれる。そして、藤枝宿から分岐し海岸沿いの相良へと至る田沼街道も、その脇街道のひとつ、ということになる。

 江戸時代の田沼、と聞いて思い出されるのは、やはり田沼意次であろう。そう、この田沼街道は、他ならぬその田沼意次によって整備されたのである。いつぞやの梶原景時に続いて、またしても「悪役」の登場の感があるが、別に駿河国にゆかりのある人物はみんな悪人、という訳じゃあない。たまたま、である。

 田沼意次は、享保四年(1719年)、田沼意行という旗本の長男として生まれたひとで、その父親から継いだ家督はわずか600石であった。しかし第9代将軍徳川家重、そして第10代家治の側近くつかえて出世、相良藩5万7000石の大名、及び幕府の老中を兼任するまでになった。能力が並外れて高いひとであったことは確かであろう。

 幕府政治の中心に近づき、幕政を主導するようになると、意次はその能力を幕府の財政の立て直しのために発揮する。相場が不安定な年貢米ではなく、商業を保護、奨励することによってそこから得る貨幣収入を重視、さらには貨幣の統一等の政策によって財政を安定させるなど、その手法は「重商主義」だと評価される。彼の政策によって、幕府の備蓄金はそれまでの最高額にまで増加したというから、成功した、といってよいだろう。彼が幕政を主導したこの時期のことは、「田沼時代」と呼ばれる。

 その他にも、鎖国の緩和や町人資本による新田開発、蘭学の保護等、様々な改革を試みた意次であるが、結果的には、彼の後に権力を握った松平定信に追われる形で、領地も私財もほとんど没収されて幕政の場から退くことになる。

 失脚の理由のひとつとして、意次の重商主義が「拝金主義」とみられた、というものがある。「賄賂政治家」としての彼のイメージもこの辺りに起因するのだろう。意次を失脚させ、処罰した松平定信に主導された、所謂「寛政の改革」が、享保、天保の両改革と同じく「重農主義」であったことからも明らかなように、重農主義が元来の徳川幕府の伝統であった。ようするに、意次のやり方は「嫌われた」のである。(無論、定信との確執というか、政策の違いとは別のところでの、権力争いとしての政治的対立も無視はできないが。)

 それ故か、田沼意次といえば悪徳政治家の代名詞のようにいわれてきたのであるが、近年になって、その政治手腕は近代的、先進的なものとして高く評価されているようである。実際、米収入に頼る重農主義の三大改革のどれよりも、幕府の財政健全化には成功している訳だし、他にも身分制度にとらわれない能力主義の人事などの試みまでしていたりと、先進的、という言葉は確かに彼に相応しいといえるだろう。

 だが、事はそんなに単純でもない、という気もする。近年になって意次が高く評価されるようになったのは、「近年になった」からこそ、即ち現代的価値観から彼をみているからこそ、だとは考えられないだろうか。つまり、現代という時代の価値観が重商主義であるからこそ、彼の重商主義が受け入れられる、ということだ。

 時代にそぐわなかったならば、それがいかなるものであろうとも、やはり時代はそれを拒絶するのである。江戸時代はいわば「ロマン主義」の時代であった。あの時代には、いくら意次の政治が「合理的」であったとしても、それを拒絶する価値基準が支配的であった。だから彼は「悪徳政治家」として排斥されたのではなかろうか。

 と、ちょっと調べてみただけの田沼意次について、エラそうに意見など宣ってしまったけれども、私の主眼はあくまでも「田沼街道」、即ち幕府の老中としての意次の仕事ではなく、相良藩の藩主としての大名田沼意次の事績、である。またしてもワザとらしく長たらしい前置きがすんだところで、スーパーカブ110による早朝お散歩史跡めぐりツーリング、冬期中断明けの今年の第一弾は、この田沼街道を辿ってみることにしました。

 東海道は、その名の通り、大体海沿いを通っていく街道なのであるが、藤枝宿辺りからは、御前崎に向ってぐっと南下する駿河湾西岸の海岸線から離れ、その御前崎の突出をショートカットするように、内陸部を真直ぐに浜松を目差して続いていく。その東海道から、藤枝宿の少し西側、瀬戸川という小さな川のほとりで分岐し、海岸線を目差して南へ伸びて、約七里(大体28km)先の相良に続いていたのが、田沼街道という脇街道である。

 


IMG_0749_convert_20160306080717.jpg

 ここがその起点である。今回のお散歩はここをスタートとする。斜めに降りていく道の方が、旧田沼街道になる。時間は朝の6時過ぎ、ちょうど日の出の時刻である。その日は、あったかくなるよ、という天気予報だったのだが、やはり、早朝はまだ冷え込んだ。ぶるぶるふるえながら、ああ、もうちょっと暖かくなってからにすればよかったかな、と少し後悔。川沿いに立ち並ぶ木々は全てソメイヨシノだ。もう少し遅い時期にすれば、暖かいだけでなく、満開の素晴らしい景色がみられたはずなのに、などと、ひとりぶつくさ文句をいいつつ、カブをスタートさせた……ところで、なんだか長くなってしまったので、次回に続く。ああ、まだ1mも走ってねえや(笑)


関連記事
カブのこと 1・県道396号線 その1・富士、蒲原
カブのこと 4・鎌倉街道(徒歩0分)その1・梶原一族最期
カブのこと 6・旧東海道、静岡市内
カブのこと 8・旧東海道 安倍川から大井川
カブのこと 10・旧東海道 大井川から掛川宿
カブのこと 15・旧東海道 富士川東岸、吉原宿
カブのこと 16・旧東海道、原宿、沼津宿、三島宿、三嶋大社
カブのこと 17・旧東海道、箱根
カブのこと 19・清水港湾地区

にほんブログ村 バイクブログ カブ系へ
にほんブログ村

PageTop

カブのこと 21


 清水港湾地区・その3 三保半島、清水港


 自宅から30分くらいの距離にある、極めて狭い範囲をめぐった、文字通りの「お散歩ツーリング」でありながら、だらだらと第三回、となってしまいました。

 駿河湾側の海岸にある小さな飛行場から、半島を横断、清水エスパルスの練習グラウンドあたりから(J2に落ちたので、写真は撮ってあげない(笑))、折戸湾側の海岸へ。

 



IMG_0619_convert_20151115092152.jpg

 この日、風もなく駿河湾は穏やかであった。三保半島に守られた折戸湾は、なおさら静かである。




IMG_0617_convert_20151115092114.jpg

 この辺りの海岸は、昔は海水浴場であった。「海の家」が立ち並ぶような賑わいもみせていた。そしてその内の一軒は、私の伯母夫婦が営んでいた。民宿も一緒に経営していた。夏には毎年のように泊まりがけで遊びに行っていたものだ。しかしそれも私が小学校低学年の頃までの話である。この海水浴場自体が廃れたこともあり、伯母の海の家も廃業してしまった。

 ただ、ここよりももっと半島突端に近い辺りでは、未だシーズンには海水浴客で賑わっているいるようである。いつか、子供等を連れて遊びにこようかと思っている。三保の内海はいつでも波が穏やかで、小さな子供を遊ばせるには良い浜辺なのだ。砂でなく、小石の浜ではあるけれど。




IMG_0616_convert_20151115092045.jpg

 猫がいた。この面構え、ただ者ではなさそうだ(笑)。この辺りの有力者かもしれないので、一応彼にご挨拶をして、三保を後にする。次なる目的地は、再び、対岸の清水港である。現在の港のようすなど、見に行こうと思う。




IMG_0621_convert_20151115092303.jpg
 
IMG_0641_convert_20151115094022.jpg

IMG_0622_convert_20151115092330.jpg

IMG_0642_convert_20151115094058.jpg

IMG_0630_convert_20151115093715.jpg

 清水港から望む富士山。




IMG_0638_convert_20151115093930.jpg

IMG_0639_convert_20151115093952.jpg

 倉庫街の雰囲気は好きだ。トラック運転手という職業柄、仕事ではこの辺りにはよく来るのだが、こうしてじっくり眺めることはないので、あちこちうろうろしていたら、意外なものに出くわし、驚かされた。なんと……




IMG_0637_convert_20151115093901.jpg

 埠頭に、こんな船が……!

 


IMG_0623_convert_20151115092402.jpg

 大型練習帆船「日本丸」であった。清水港にはこうした帆船や、豪華客船なども時折寄港するのだが、この日に来ていたとは知らなかった。




IMG_0627_convert_20151115092430.jpg

IMG_0628_convert_20151115092456.jpg

 その美しい姿を、しばし、堪能。




IMG_0631_convert_20151115093740.jpg

IMG_0632_convert_20151115093810.jpg

IMG_0636_convert_20151115093835.jpg

 この「日本丸」は、調べてみると「Ⅱ世」であるらしい。以下、Wikipediaより。


 日本丸の後継として、1984年(昭和59年)に日本丸Ⅱ世が就航した。日本丸Ⅱ世は帆装艤装設計から製作まで、すべて日本国内で行われた初の大型帆船である。住友重機機械工業浦賀工場で建造された。
 先代の日本丸に比べて帆走性能が大幅に向上しており、世界でも有数の高速帆船として名をつらねている。(後略)


 主要諸元(日本丸Ⅱ世)

・船種(帆装形式) − 4檣バーグ型帆船
・総トン数 − 2570トン
・全長 − 110.09m
・全幅 − 13.80m
・メインマスト高 − 43.5m(船楼甲板からの高さ)
・喫水 − 6.57m
・総帆数 − 36枚(横帆18枚、縦帆18枚)
・最大搭載人員 − 190名
・他 − ディーゼル機関(2機)による機走可能

 <Wikipedia 「日本丸」>

 聞けば、どうやらこの日の午前中には、清水港を出港の予定だったらしい。このすばらしき僥倖に満足しつつ、そろそろ今回のお散歩も終わりとしよう。




IMG_0644_convert_20151115094138.jpg

 再び、JR清水駅に戻ってきた。ただし、こちらは海側、スタート地点とは線路を挟んだ反対側である。近年キレイに整備された。私としては、以前の小汚い雰囲気のほうが好きだったのだが、ま、しかたない、これも時代の流れであり、そしてこの流れの積み重ねがあってこその、史跡めぐりである。さて、次はどこへいこうか。またあれこれ探して出掛けてみよう。では、次の機会に。


にほんブログ村 バイクブログ カブ系へ
にほんブログ村

PageTop