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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

カブのこと 20



 清水港湾地区・その2 三保半島


 三保半島は、安倍川から流出した土砂が堆積して形成された砂嘴である。三保半島に折戸という地名があり、そこの特産品である「折戸茄子」というナスが、他ならぬ、初夢にみると縁起がいいとされる「一富士二鷹三茄子」のサンナスビだ、といわれる。みっつとも、徳川家康が好んだことがその元ネタだという。

 旧江尻宿からスーパーカブで、早朝の道が空いている時間ならば5分ほどで、三保に着く。国道150号を走ってくるのが一番わかりやすい。駒越東町という交差点で、150号線はそのまま焼津方面に伸びていってしまうが、そこを左へ逸れれば、その道が、三保街道という三保半島の真ん中を貫いて先端あたりまで続く道である。




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 これが三保街道。真正面に富士山が見える! 真冬の空気が澄んだ時期に、この辺りから望む雪化粧の富士山は、本当に綺麗である。現在、富士山がもっと美しく見られるように、電線を地中に埋める工事をしているという。世界遺産に相応しい景観を、という訳だ。

 そう、「世界遺産」である。次なる目的地は、今年世界文化遺産に登録されたばかりの、「三保の松原」なのだ。富士山の世界文化遺産登録に、この三保の松原までもが含まれると聞いたときには驚いたが、まあ、地元民としては嬉しいことである。ただ、以前のように気軽に遊びに行くことはできなくなった。混雑するからである。しかしこうして、早朝にくれば問題は無い。遠方からの観光客はまだいないし、夜明け直後の富士山の姿は見られるしで、良いことずくめである。




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 まずは、「御穂神社」。この神社もまた、世界文化遺産たる富士山の構成資産「三保の松原」に含まれる。祭神は「大己貴命(大国主神)」、「三穂津姫命」。創建は不詳。駿河国三宮。




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 慎ましい拝殿。慶長年間には徳川幕府によって壮麗なる社殿が造営されるも、寛文8年(1668年)の落雷によって焼失、今の社殿はその後に仮宮として建てられたもの、だそうだ。残念ではあるが、それでも、現存の建物だとて市の指定有形文化財である。




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 神社の前から、海岸に向って真っすぐ伸びていくのが、「神の道」。勿論人間も通ることはできるが、当然これは歩道なので、車両は脇の車道を走っていく。




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 すると見えてくるのが、「三保の松原」入り口である。典型的な田舎の寂れた観光地にしか見えないが、それも無理もない話で、今年の6月に世界遺産に登録されるまでは、まさしく典型的な田舎の寂れた観光地だったのである。以前には、仕事の途中に2t車をこの駐車場に停めて、コンビニ弁当を食べたり海岸で遊んだりして昼休みを過ごしたこともある。本当にそんな、あまり人気の無い、平日には外回りの営業マンの絶好のサボりスポットみたいな場所だったので、正直なところ、世界遺産に登録されたと聞いて驚かなかった地元民は少なかっただろうと思う。だが、おかげでこの場所の文化的価値について、地元民もまた見直し、考え直す機会を得た訳で、やはりこれはよいことだったと私は思う。




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 松原の様子。




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 これが、「羽衣の松」。天女が舞い降りたという有名な伝説において、天女が脱いだ羽衣をかけたのが、この松の枝だという。なんだか羽衣を引っかけやすそうな枝がちゃんとあるところが面白い。まああの伝説自体、元々はきっと中国から伝わったものだろう……なんて無粋なことはいわずにおこう。




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 松林を抜けると、




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 一気に視界が開け、駿河湾のひろがりと朝日が眼に飛び込んでくる。そして左に視線を向ければ、




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 富士山である。もう言葉はいらない。ただ、見入るばかりである。海岸にはすでに、何人かの人たちがいたが、広い浜にバラバラに広がりつつも皆、富士山の方をむいて立ち尽くしていた。私もまた、その姿を楽しもう。




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 富士山の世界遺産登録には、ご存知の通り、まず自然遺産として申請するも、ゴミの問題等で登録ならず、文化遺産として申請しなおしてようやく登録された、という経緯がある。汚いから申請却下、とは恥ずかしい話だが、結果として、私は文化遺産として登録されてよかったと思う。

 我々の「富士山を愛でる思い」というものは、貴重で希有な自然物に寄せるもの、というよりは、「信仰の対象と芸術の源泉」という言葉がやはりしっくりくると思うからだ。換言するならば、それは富士山の美しさを尊び、それを愛するということである。それは例えば、日本人が知床半島の自然に寄せる思いとは全く違うものではないだろうか。まあいずれにせよ、文化遺産でなければ、この三保の松原は全然関係のない話になってしまうので、そうした意味でもよかった、とはいえるだろう。

 ではもう少し、三保半島の他の場所をまわってみよう。




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 清水灯台。別称、三保灯台。明治四十五年(1912年)完成の、日本初の鉄筋コンクリート造りの灯台である。




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 その頭頂部の風見鶏は、羽衣伝説にちなんで「天女」である。




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 灯台のそばにある、「甲飛予科練之像」。第二次世界大戦末期、三保に清水海軍航空隊があり、甲種飛行予科練習生が、立派な航空兵たるべく訓練に勤めていたが、戦況の悪化に伴い航空隊は解隊、練習生は全員特攻隊に編入された。三保には、特攻兵器の格納庫とされる倉庫が幾つか今も残っているそうである。




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 灯台から、海沿いの道を半島突端の方向へ少し走ると、小型の飛行機が駐機されていた。




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 小さな滑走路がある。大正時代に造られた「三保飛行場」。『静岡県の歴史散歩』によると、現在は赤十字飛行隊の練習基地であるが、かつては、清水・羽田(東京)間を結ぶ水上機の旅客航路があったそうで、昭和六年(1931年)の日本初の客室乗務員の搭乗は、なんとこの航路だったそうである。

 さて、ここまでは、全て三保半島の駿河湾側、即ち地元での呼称でいうところの「外海」側にあるものだった。次は、半島の折戸湾側、即ち「内海」側にいってみよう、というところで、またしても長くなってしまった。次回に続く。


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カブのこと 19



 清水港湾地区・その1 清水湊 


 ホンダ・スーパーカブ110購入からはじまった早朝お散歩ツーリング。これまでは主に旧東海道を辿りつつ、その周辺の史跡をめぐるような具合で進めてきたが、静岡市の自宅から、西へは旧掛川宿、東へは旧箱根宿にまで至るに及び、いよいよ、その距離は「お散歩ツーリング」の範疇には収まらなくなってきた。しかもその上、その外的条件もまた悪化の一途を辿りつつある。

 生来の頭の悪さの故とおぼしき強烈な遅筆のために、この記事の元ネタとなるお散歩をした時点で実はまだ11月初旬なのであるが、女房子供が起きて活動を始める前の早朝にしかバイクで遊ぶ時間がとれない悲しい家長たる私にとっては、もうすでに、気温の低下と日の出の時間の遅れのために、距離を走るツーリングにはどうにも出掛けられなくなってしまっていたのだ。

 そこで、しばらくは旧東海道に拘らない形で、史跡めぐりなどをしてみよう、ということにした。街道、というものは無論歴史の動きに大きな影響を与えてきたものであり、結果として街道の周囲に史跡が多数見出されるのは道理なのであるが、これまたいうまでもなく、歴史的事件の全てが所謂旧街道とその沿線で起こったという訳ではないし、街道から外れた場所に史跡が見出されない道理もないのだ。

 ただ、本来が道というものへの興味から始まったこのお散歩であるから、これまでに街道に沿って「線」を伸ばす方向に進めてきたものを元に、それを「面」の方向に広めていく、あるいは、歴史的に掘り下げていくような形にしようと思う。

 ということでとりあえず、以前に行った江尻宿周辺から行ってみることにした。




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 午前6時、JR清水駅前。まだ暗い。私は幼少期、旧清水市(現静岡市清水区)に住んでいた。だからその頃、どこか遠くへ、例えば横浜の伯母さんのところなどに出掛けるときには、ここから「国鉄」の急行に乗ったりなどした訳だ。駅の様子は当時とは幾分か変わりつつあるけれども、この小さな田舎の駅舎を見ると、あの出発時のわくわく感などが思い出され、やはり、懐かしい。




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 清水銀座商店街入り口。これがつまり、清水の街の繁華街の中心である。典型的な、田舎の寂れた商店街だが、清水に住んでいた幼少期の私にとっては、ときどき連れて行ってもらえる賑やかで楽しい場所であり、何でも売っている「都会」であった。実際その頃には、今よりも栄えていたのも確かなのだろう。そしてこの清水銀座商店街は、かつての東海道の江尻宿があった場所である。その江尻の地名は現在もまだ残っているのであるが、その隣には入江、という地名もある。この入江は、かつて入江氏という武士が本拠地とした場所であった。

 以前、梶原景時最期の地について記事にした。鎌倉から京に逃れんとした梶原一族が、私の実家のすぐ近所で、待ち伏せにあって自害した、というような記事であったが、その梶原一族を待ち伏せした御家人というのが、他でもない、この入江氏であった。その記事のなかで、私はこの入江氏について、田舎の野武士みたいな連中だ、みたいなことを、よく知りもせずに書いてしまったが、実は、けっこうな有力武士であったことを、その後に知った。

 よく考えてもみれば、鎌倉時代初期にこうしてその名がすでにあり、そしてその本拠地の地名としてその名が現在にまで残っているのであるから、得体の知れない野武士なんかである訳はないのである。その系譜だとか歴史だとかについては割愛するが、最近読んだ『三つの東海道』(湯之上隆著)という本によると、『保元物語』にはすでに、保元の乱(1156年)の際に源義朝の隋兵としてその名が記されているようである。もう、文句のつけようもない、立派な御家人である。

 ではなぜ入江氏が、こんな片田舎にありながら有力武士たり得たのかというと、その本拠地が「江尻津」であったから、と考えるのは自然であろう。「津」とは船着き場、港の意であるから、つまり江尻に港があり、そこを支配することによって力を得ていた、と簡単にいうとそういう訳だ。

 湾の最奥部、即ち富士市の田子ノ浦あたりから、外洋との境を成す御前崎の突起に至るまで、駿河湾の西岸は、だいたい真っすぐで起伏の少ない海岸線が続いているのだが、その中程で、出し抜けにひょっこり飛び出しているのが三保半島である。この三保半島に抱かれているような、折戸湾と呼ばれる狭い海域に、一本の川が流れ出す。その川が、このブログでもよく登場する、ちびまる子ちゃんで有名(?)な巴川であり、その河口にあったのが、江尻津である。

 上記『三つの東海道』によると、江尻津がひらかれた時期はよくわかっていないらしいが、西暦1000年ぐらいにはすでに入江氏がこの辺りを支配していたことから、まあそれに近い頃だろう、ということだ。この江尻津が、その後の江尻湊、及び清水湊の発端となった訳で、その賑わいは、結果として陸路の東海道の道筋にも変化を与えることとなった。

 以前江尻宿に来たときの記事にも書いた通り、東海道は、興津宿から、元々はもっと内陸部を通って府中宿に繋がっていた。付言するならば、その途中にあったのが、古代の「駅」であった瀬名川、即ち梶原景時が討たれた場所、である。つまり鎌倉時代には、東海道は静岡市のもっと山に近いあたりを通っていたということだ。その東海道を、五街道整備の際に、徳川幕府が江尻宿を設けて海寄りを通るようにした。湊町である江尻に賑わいがあったからである。幕府は42 軒の廻船問屋に営業権を与え、江戸と大坂間の海上輸送の中継点として、清水湊はさらに発展することとなった。
 
 清水駅の前で、北側の興津方面から伸びてきた国道一号線は直角に西に曲がり、そのまま、清水駅に背を向けて伸びていく。しかしそちらへは曲がらず、「さつき通り」という道(国道149号線及び県道75号線)を南へ真っすぐに進めば、清水湊のあったあたりに辿り着く。




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 これがその「さつき通り」。昔はここに路面電車が走っていた。1974年の「七夕豪雨」と呼ばれる記録的な大雨の洪水被害にあって、残念ながら廃線となったため、1971年生まれの私はその電車のことを覚えていないが、聞けば母親に連れられて乗ったことがあるそうだ。ただ線路だけはその後もしばらく残されてあり、私も子供の頃に見たことを覚えている。で、その路面電車路線の南端があった辺りで、道は丁字路にぶつかるのだが、その角にあるのが、「船宿末廣」である。





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 ここを営んでいたのが、他でもない、「海道一の大親分」清水次郎長である。開業は明治十九年(1886年)というから、やくざ者として名を馳せ、数々の逸話を残した(そのほとんどはフィクションらいしいが)時代の後の話、ということになろう。では、この有名人にゆかりの場所を幾つか、回ってみよう。




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 「末廣」前の交差点。写真右手に行けば清水駅。写真奥は、港橋という、巴川に架かる橋。




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 橋の反対、海の方向に伸びるのが、エスパルス通り。J2陥落の清水エスパルス……かつての「サッカー王国」もカタナシである。




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 橋の辺りから、巴川の景色。昭和っぽい、寂れた雰囲気が、なかなか。巴川沿いの、細い路地を辿ると、




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 「壮士墓」。例の「静岡県の歴史散歩」によると、江戸幕府の軍艦咸臨丸(かんりんまる)は、明治元年(1868年)、元海軍総裁榎本式揚の指揮のもと、品川から脱出、蝦夷地を目指すも暴風雨に遭遇して漂流、清水港に避難した。しかし官軍の攻撃にあい乗務員は殺され、その遺体は港を漂っていたが、地元民は官軍を怖れてそれを放置した。それを見かねて手下に命じて遺体を回収、ここに葬ったのが、他でもない、次郎長親分であった。

 この出来事は、ヤクザ者だった次郎長が改心し、郷土のために尽くすようになるきっかけともなった。「末廣」開業もこの後のことであるが、他にも、富士の裾野の開墾だとか、清水港の整備だとかにも尽力し、「末廣」の一室には英語塾まで開いていたらしい。まさしく地元の名士たるに相応しい活躍ぶりである。




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 先ほどの「末廣」の交差点まで戻って、今度は港橋で巴川を渡り、少し進んで左折すれば、「次郎長商店街」と呼ばれる通りに出る。




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 この通りにあるのが、「次郎長生家」である。次郎長愛用の品々等が保存、展示されているらしいが、またしても朝早すぎて見られず。




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 そしてこちらが、次郎長終焉の地、「梅蔭寺」。次郎長の墓のあるお寺。「次郎長生家」の近所にある。

 そもそも、江尻が「津」として存立し得たのは、三保半島という自然の防波堤ともいうべきものが、巴川の河口域を守ってくれているという、恵まれた地理的条件があってのことだ、といえるだろう。では、次はその三保半島に行ってみることにしよう、というところで、長くなったので、次回に続く。


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カブのこと 18


 旧東海道 箱根
 その2・箱根宿、箱根関所、箱根神社



 一眼レフカメラのバッテリーを忘れるという、信じ難い失敗ツーリングとなった今回。手元にあるのは、最近すっかり調子の悪くなったiPhone5の、なんだか何をどう撮ってもモヤがかかったような写真しか撮れないカメラのみ。沈む気持ちに引き摺られるように、箱根峠の高みから、芦ノ湖畔へと坂道を下っていく私とスーパーカブ110であった。

   


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 芦ノ湖が見えてきた。




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 そして、旧東海道10番目の宿場町、箱根宿のあった辺り。現在の神奈川県足柄下郡箱根町、である。



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 箱根といえば、宿場町として、よりも、どちらかというと、関所として有名、なのではないだろうか。で、関所改め、といえば「入り鉄砲に出女」だが、「入り鉄砲」すなわち西国から、東国、江戸方面に持ち込まれる鉄砲については、新居宿の今切関で主に取り調べられ、箱根関では「出女」の方を主に調べていたという。現在、関所の建物等が見事に復元され、公開されている。




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 こんな感じ。残念ながら、またしても時間が早すぎて入れない。ただ、だれもおらず、特にフェンス等で入れなくしてある訳でもないので、ちょっとだけ入らせてもらい、写真を撮っちゃった。




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 朝日がまだ山の稜線の下におり、黒い建物がなおさら真っ黒に写ってしまい、なんだかわかりにくいですね……ああ、一眼レフだったなら(以下略)。本当に誰もおらず、その気になれば中に入ってそのまま通り抜けることもできそうだったが、「関所破り」は親殺し、主殺しに次ぐ大罪だったそうなので、やめておこう。

 さらに湖畔に沿って街道を進むと、大きな鳥居がみえてくる。そこで、街道は芦ノ湖畔を離れ、また山間に入っていくのだが、私とカブはそのまま鳥居をくぐって湖畔沿いの道を行く。




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 すると見えてくるのが、箱根神社である。

 公式のウェブサイトによると、「人皇第五代孝昭天皇の御代(2400有余年前)聖占上人が箱根山の駒ヶ岳より、同主峰の神山を神体山としてお祀りされて以来、関東における山岳信仰の一大霊場となりました。」とのこと。2400年前というと、弥生時代であろうか。……まあ、とても歴史のある神社だ、ということだ。

 祭神は、「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)」とあり、「この三柱の神々を総称して「箱根大神(ハコネノオオカミ)」という、そうだが、この三柱の神々がどんな神様たちなのか、それを考えてみると、なんとなく、この神社の性質、というか、存在意義とでもいったものが、みえてくる気がする。

 そこで、久しぶりに『古事記』など引っ張り出してみる。上の三柱の内、まず最初に登場するのが「 瓊瓊杵尊」すなわち『古事記』での「日子番能邇邇芸の命(ひこほのににぎのみこと)」で、場面は、大国主神の国譲りのエピソードの直後である。


 かれ、建御雷の神、返り参上りて、葦原の中つ国を言向け和平したる状を復奏しき。
 しかして、天照大御神・高木の神の命もちて、太子正勝吾勝々速日天の忍穂耳の命に詔らししく、
 「今、葦原の中つ国を平らげつと白す。かれ、言依さしたまいしまにまに降りまして知らしめせ」
 しかして、その太子正勝吾勝々速日天の忍穂耳の命の答え白したまひしく、
 「あは、降らむ装束しつる間に、子生れ出でぬ。名は、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸の命、この子降すべし。」

(新潮日本古典集成 『古事記』上つ巻)

 国譲りが無事に終わり、中つ国が平穏になったと、建御雷の神から知らされた天照大御神は、御子である忍穂耳の命に天降るよう命ずる。しかしその準備中に日子番能邇邇芸の命が生まれたので、父である忍穂耳の命代わりに、子である日子番能邇邇芸の命が天降ることになる。これは所謂「天孫降臨」のはじめの場面になる。で、次に登場するのが「木花咲耶姫命(『古事記』では「木花之佐久夜毘売」と表記)」である。


 ここに、天津日高日子番能邇邇芸の命、笠沙の御前に、麗しき美人(をとめ)に遇ひたまひき。しかして、
 「誰が女(むすめ)ぞ」
と問ひたまへば、答へ白ししく、
 「大山津見の神の女、名は神阿多都比売、亦の名は 木花之佐久夜毘売といふ」

(同上)

 
 日子番能邇邇芸の命は、木花之佐久夜毘売と結婚する。そして生まれた三柱の神々の内の末子が、 「彦火火出見尊」、『古事記』で「火遠理(ほをり)の命。亦の名は、天津日高日子穂々手見(あまつひこひこほほでみ)の命」といわれる神であり、有名な「海幸山幸」の物語の、山幸彦(山佐知毘古)である。

 で、この日子穂々手見の命の子が、天津日高日子波建鵜葺草葺不合(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへず)の命であり、その末子が、若御毛沼(わかみけぬ)の命、亦の名を神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)の命、すなわち後の神武天皇である。

 こうしてみると、この所謂「箱根大神」が、天つ神、特に天照大御神と、神武天皇との繋がりという意味において非常に重要な位置にある神々だ、ということが理解されるだろう。




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 参道入り口あたりにある、「来宮神社」(奥)と、「日吉神社」。




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 参道。杉の大木が立ち並ぶ様に圧倒される。




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 その内の一本、「矢立のスギ」。征夷大将軍坂上田村麻呂ゆかりの杉。




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 手水舎のところに。名句。




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 石段を登る。




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 拝殿。




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 拝殿脇に、九頭龍神社新宮。




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 さて、箱根神社参拝も終わったところで、一息つくために芦ノ湖畔へ。一眼レフのバッテリーを忘れたことがなんとも悔やまれる好天。悔し紛れに、逆光で撮影すると、




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 ちょっとステキな写真(笑)。夕暮れみたいだ。

 今回はここまで。次は、もう小田原宿である。いよいよ、東方面も遠くなってきた。次は、西を目指そうかな、などと思いつつ、帰路につく。




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 峠を越えて、三島へ下る途中、往路では見逃していた、芭蕉の句碑を発見。

 霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き

 せっかく晴れて、富士山もキレイに見えたのに、一眼レフで撮影できないもどかしさ。しかし芭蕉は、霧にかくれて見えない富士山をも、見事にうたってみせた。ま、失敗ツーリングもまたツーリングであると、私もそう思うことにしよう。それでは、また。




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カブのこと 17


 旧東海道 箱根
 その1・中山城跡、箱根峠




 静岡県と神奈川県との県境を越える道といえば、東名高速道路、国道246号線、そして国道1号線、である。他に無い訳ではないが、我々大型トラックの運転手が選択できる道となると、実質この3本に限られる。

 経費の節減のために高速道路を使わず、一般道を走って関東方面に行くとき、私はまず国一は走らない。246号を走る。積んでいる荷物が重い場合には尚更である。理由は様々ある。246のほうが目的地への連絡がよい場合が多いことが大体主な理由なのだが、もうひとつ、国一には箱根越えがあるからである。最大積載量13600kgの私のトラックに、リミットいっぱいの重さの荷物を積んで箱根を走ったりなどすれば、エンジンがオーバーヒートする危険がある。トラックドライバーにとっては、箱根はいまだ難所であり続けており、実際、トラックの交通量は246号のほうが断然多い。

 歴史的にも、もともとは東海道を行く旅人たちも主に足柄峠を越えていたらしい。だから徳川家康もまずは足柄峠に関所を設けた。箱根越えが一般的になったのは、元和四年(1618年)に箱根宿ができてからだという。厳しい取り調べで有名な箱根の関所ができたのは、よって箱根宿開設の翌年即ち元和五年のことである(渡辺和敏著、『東海道の宿場と交通』参照)。

 その後人々は主に箱根を越えるようになったのであるが、また時代がかわって、現代の「馬の口とらへて老をむかふる物」として、「日々旅にして旅を栖とす」るトラックドライバーたちが、足柄越えをより容易にするためにつくられた246号のほうを主に利用するようになった、というのは、こうしてみると面白い話である。産業の中心地の盛衰や移動といった大きな範囲での環境の変化、また、道を行くものの交通手段や通行目的の変化に伴って、道というものも歴史的に変化していく、これまたその顕著なる一例といえるのだろう。そしてさらにまた、その道の変化というものが、逆に環境や通行者の変化を促していくのだ。

 で、わが早朝お散歩史跡めぐりカブツーリングも、東は三島宿まで走ったので、次はいよいよ箱根越え、ということになる。私もそれなりに気合いを入れて準備を整え、夜明けの一時間半前に静岡市の自宅を出発し、次第に白んでいく空を前方に眺めながら国道1号線を走り、おお今日は天気が良さそうだぞと期待に胸膨らませ、いよいよ冷たさを増す朝風にすら心地よさを覚えつつ、前回のゴール地点である三嶋大社に到着、早速、さあここがスタートだ、という写真を撮ろうとバックからカメラをさっと取り出し、大社の鳥居とわが愛車スーパーカブ110をファインダーに捉え、いざとばかりにシャッターを押し込んで愕然とした。

 オートフォーカスがぴくりとも動かない。故障か、と電源スイッチを入れ直したところで思い出した、昨晩の就寝前にバッテリーを充電器につないだことを。そう、カメラのバッテリーを忘れてきたのである。これにはさすがにがっくり来た。がっくりきつつも仕方なくiPhoneで撮影したのがこれである。




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 わがiPhone5君、最近あちこちガタがきて、なんだかカメラの調子も悪く、画像がぼんやりと霧がかったみたいなんだよね……。しかしここまで来て、バッテリーの為に一度帰宅する訳にもいかず、このiPhoneで今回はなんとか乗り切る覚悟を決め、気を落としつつ、そしてまた無用の長物、いや重量物となった一眼レフと交換レンズ一本の重みを悲しくこらえつつ、箱根峠を目指すことにした。




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 道はすぐに国道1号に合流。その先の松並木のなかにあるのが、「錦田一里塚」。日本橋から数えて、二十八里目の一里塚。これは下り線側のものだが、上り線側にもある。道の両側にある一里塚、というものが珍しいらしく、そのため、大正十一年に国の史跡に指定された、とのこと。

 一里塚には決まって榎が植えられている。大久保彦左衛門が、徳川家康に、街道沿いには松を植えたが、一里塚には何を植えるべきか尋ねた際、家康は「余の木(松以外の木、の意)」と答えたのだが、年老いて耳が遠くなっていた彦左衛門がそれを「えのき」と聞き間違えたために、榎が植えられた、という逸話があるらしいが、真偽のほどは定かではない(上記『東海道の宿場と交通』より)。




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 松並木の先で、また旧東海道は現国道1号から左に逸れる。そして旧街道と国道1号は、絡み合うように、それぞれが峠に向けて伸びていく。




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 遠く、富士の麗しき姿。ああ、一眼レフならもっとキレイに撮れるのだろうに。




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 「こわめし坂」の入り口。あまりに坂がきつくて、背負った生米が汗や体温などで蒸されて「強飯(こわめし)」になってしまうほどだ、ということでこの名がついた坂。

 この辺りの旧街道は、石畳を復元する形でハイキングコースとして整備されている。ただ、特に「車両進入禁止」の標識も看板もないので、もしかしたらカブでなら走れるかな、と、試しに進入してみる。




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 しかし、こんな感じでなかなか凹凸が大きく、とてもじゃないが走れそうになかった。仕方なく、旧街道を辿ることは諦め、現国道1号を走る。オフロードバイクならば、あるいは走行可能なのかもしれないが、やはり、走るべきではなさそうな雰囲気だった。あくまでも遊歩道、ハイキングコースとみるべきである。石畳が傷むことも考えられるし、ね。ちなみに、金谷坂の石畳よりは、平らで歩きやすそうだった。金谷の石はいくらなんでも丸すぎる。




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 中山城跡。北条氏の本拠地小田原を守る為の、極めて重要な山城であったが、天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城。よく整備された史跡で、お散歩コースとしてもなかなか良いと思われる。

 また金谷との比較になるが、諏訪原城趾よりも、芝生を敷かれたりなどしてキレイにされている。さすが箱根は有名観光地、というところだろうが、「兵どもが夢のあと」らしき雰囲気は、諏訪原城趾のほうがあるような気もする。広さは、中山城のほうが広いだろうか。 




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 天守櫓跡。




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 諏訪・駒形神社。




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 あちこち歩き回り、ここから出てきた。駐車場から、国一を百メートルほど登ったところである。仕方なく、国道を歩いて駐車場へ戻る。ここから峠までは、一気に国道1号で走ってしまう。




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 柴切地蔵尊。山中城跡のちかくに。




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 箱根峠。標高846m。静岡県はここまで。この先は神奈川県である。ついに箱根。ついに、という達成感よりは、いまだひきずっているがっくり感に沈みつつ、ここから、箱根駅伝の折り返し地点である芦ノ湖へ向けて下っていく。と、いったところで、続きは次回に。


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カブのこと 16・旧東海道、原宿、沼津宿、三島宿、三嶋大社

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カブのこと 16


 旧東海道・原宿、沼津宿、三島宿、三嶋大社


 前回は、富士川から吉原宿まで走った。今回も、その続きから旧東海道を東へ向う。またしても早朝スタート。ただ、日に日に日の出は遅くなり、我がカブタイムはどんどん短くなる。さて、今日はどこまで行けるものやら。あ、今回もまた、旧東海道にこだわってなぞってみます。




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 JR東海道本線吉原駅。ここをスタートとする。東へ100m弱で旧東海道、即ち県道170号線に。170号はまた県道380号線に合流、今度はそちらが旧東海道である。さらに東進、東田子ノ浦駅を過ぎた、富士市と沼津市の市境辺りで、道の右側に松原があらわれる。




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 千本松原。富士市の田子の浦港から沼津市の狩野川河口あたりまで約10kmに渡って続く、日本有数の松原である。松の茂りの向こうは海。前回も見たが、やはり私は海が好きなので、また立ち寄ってしまおう。




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 海はいいねえ。彼方にみえるのは伊豆半島。しかしまだスタートしたばかりで、休憩には早すぎるし、あんまりのんびりもしていられないので、また街道にもどる。松原沿いを伸びていく380号をそのまま走りたいところだが、残念ながら、旧東海道は、市境手前で、左方向、即ち内陸方向へ斜めに分岐する、県道163号線のほうなので、そちらを走る。




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 こんな感じの道。しばらく走ると、




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 JR原駅。この辺りが、旧東海道13番目の宿場、原宿があった辺りである。ただ、史跡らしきものはみあたらない。

 


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 唯一みつけたそれらしきもの。「浅間神社」前の石碑、「高札所跡」。




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 さらに東進。ここで380号と斜めに交差。旧東海道である163号はそのまま直進、である。




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 またしても「浅間神社」。富士山の近く、ということで、木花咲耶姫命を祀る「浅間神社」の名前を持つ神社があちらこちらにある、ということか。この先の交差点で、左折、県道160号線に。そちらが旧街道である。




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 直ぐに右折。この辺りが、旧東海道 12番目の宿場、沼津宿のあった辺り。またしても、史跡らしきものはみつけられず。この先、ぐっと直角にまがる狩野川沿いを走るように、旧街道は幾度か右左折を繰り返し、さきほど交差した県道380号とまた合流する形になる。その後、沼津警察署を越えた辺りで県道145号線に分岐するのだが、この辺り、ちょっと道を間違えたりなどして、旧街道をなぞれなかった。なぜ間違えたのかというと、




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 この神社を探していたからだ。「八幡神社」。素直に145号を走っていれば、参道入り口に着けたのだが、地図を見間違えて、変な具合に裏の方から狭い道を走ってくるハメになった。




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 拝殿。八幡神社、といえば、源氏の氏神であるから、無論その関係は浅かろうはずはないのだが、ここは源氏にとっては、数ある「八幡神社」のなかでも特別な場所である。




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 その理由が、これ。「対面石」。治承四年(1180年)、あの平氏が水鳥の羽音に驚いて戦わずして敗走したといわれる「富士川の戦い」のあと、当時の東海道にあった宿場である黄瀬川宿に陣を張っていた源頼朝のもとに、奥州平泉から源義経が駆けつけ、この石に腰掛けて対面したと伝えられるもの。

 こうした伝承をあまり馬鹿正直に真に受けるのも問題があるが、もし富士川において実際に合戦が行われ、何かの拍子に平家が優勢になり、源氏が苦戦して敗走しなければならない事態になっていたとしたら、あるいは、合戦に間に合わなかった義経の立場はその後辛いものになり、あれほどの活躍もできなかったのではないか、などと考えると、本当に、歴史というものは面白いものである。




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 県道145号すなわち旧東海道は、国道一号線と交差して北寄りに伸びていく。




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 常夜灯。




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 その先、ちょっと見にくいけれど、「千貫樋(せんがんどい)」。側の説明書きより引用。


 伊豆、駿河の国境、境川にかけられてある樋で、長さ四十二・七m、巾一・九m、深さ四十五cm、高さ四・二mである。
 創設については諸説があるが、天文二十四年(一五五五年)今川、武田、北條三家の和睦が成立した時、北條氏真に聟引出物として、小浜池から長堤を築き、その水を駿河に疎通させたというのが一般に認められている。
 (中略)
 樋は、はじめ木樋であったが大正十二年関東大震災の際、崩落したので現在の鉄筋コンクリートに改めた。(後略)

 (清水町教育委員会)


つまり、我が駿河国はここまで、この先は伊豆国、ということになる。




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 道はやがて、伊豆箱根鉄道三島広小路駅付近で、県道22号線と名前が変わる。そしてこの辺りが、旧東海道11番目の宿場、三島宿があった場所である。この三島宿は伊豆国唯一の宿場であり、静岡県の最東端の宿場、ということになる。




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 「世古本陣跡」。




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 その向かい、「樋口本陣跡」。




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 そして、三島といえば、「三嶋大社」。祭神は、大山祇命、積羽八重事代主神(二神を総じて三嶋大明神と称する)。創建年代は不明であるが、奈良、平安時代の文献にもその名がみられる、らしい。伊豆に流されていた源頼朝が、挙兵に際して源氏再興を祈願したことは有名、だそうだ。(らしい、とか、だそうだ、ばかりでスミマセン)。




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 鳥居をくぐるとすぐにあるのが、これ。「安達藤九郎盛長警護の跡」。「治承四年(一一八〇)源頼朝が源家再興を祈願し百日間毎暁蛭島より三島大社に日参するに際し従者盛長が此の所で警護したち伝えられている」とのこと。




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 こちらは、「源頼朝・北條政子腰掛石」。頼朝が上記の百日の日参の際、腰掛けて休憩したとされる石。右のちいさいのが、北條政子の休んだ石。




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 天然記念物、「三島大社の金木犀」。樹齢およそ1200年という老木。見慣れた金木犀の木とはまるで違う異形に、何やら故知れぬ畏怖の念。




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 拝殿。

 三島宿を過ぎれば、次はいよいよ「天下の険」、箱根峠である。しかしもう帰らなければいけない時間だ、とシンデレラみたいなことをいいつつ、国道一号線で帰路につく。最後に一カ所、寄り道をする。




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 国道1号の脇、沼津の、もう富士市との境に近い辺りにみえて、いつもなんだか気になっていた水門。もうその機能は失われているのかもしれない。ただ、「史跡」とか「歴史的建造物」とするには新しすぎる。こういう中途半端に古い建造物が、邪魔だからとか、作り替えるとかの理由で取り壊されるのか、それとも何かの理由でそのまま残るのかによって、後世において「史跡」だの「歴史的建造物」になり得るのか否かが決まるのだろう。

 さて、今回はここまで。次は、箱根にしようか、それとも、西の掛川宿の先へいこうか。いずれにせよ、いよいよ簡単には行けなくなってきた。この先寒くなるし。しかし、何とか時間を作っていこうとは思う。乞うご期待。


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