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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

旅のおもいで・ 道具 その1

地図

 お久しぶりの更新となってしましました。何となく、新しい生活のペースをつかみつつある、静磨です。とはいいつつ、なかなか読書感想は書けずにいるので、日々の生活の内から、ひとつ。

 iPadを買っちゃいました。新しい職場での仕事は、トラックの運転手さんなので、地図が必要になったのです。他にも、出先での待ち時間などに、ブログ記事など書くこともできそうだなと、そんなことを思ったこともあります。暇つぶしにネット閲覧なんかもできるし。

 しかしまあ、第一の目的は勿論地図だ。中部、北信越、関東あたりの、仕事で行きそうな所の『マップル』は持っているのだが、やはりより詳細な地図というものは欲しい。なにせ、有名な観光地などではなく、全く知らない街にある会社の倉庫だとか物流センターだとかに、ピンポイントでたどり着けなければならなのだから。 その点において、ネット上の地図にまさるものはない。任意の縮尺でサクッと検索できてしまうのだから。

 本当に、時代の変化というものを感じさせられる。ムカシは、こんなもの無かったもの。ということで、過去の私の旅における「地図事情」について、ちょっと書いてみることにした。(本を読んでいる時間が、相変わらず無いこともあり)。

 どこかへ出掛けるためには、地図はどうしても必要か、というと、勿論そんなことはない。私は例えば日帰りツーリングなどのときには、地図など持っていかないことのほうが多かった。バイクで日帰りできる距離ならば、まあなんとなくどこになんという街があるかわかっているので、道路の案内標識だけで、大概の場所には行くことができた。そしてこういうスタイルのほうが、気分次第で行き先を変えるようなツーリングには向いているともいえるだろう。地図を見てルートを確認する、ということは、同時に行き先とそこに至る道順を固定化する、という意味もあるからだ。

 しかしやはり、明確な目的をもって出発する場合には、行き先が不案内な場所ならば、やはり地図は必要だ。この点を甘く見て、一度酷い目にあったことがある。和歌山県は高野山大学に通う友人の下宿に遊びに行ったときのことだ。高野山は、有名な場所だ。だからいつもの通り、案内標識を辿っていけば何とかなるだろうと、ロクな地図も持たずに出掛けてしまった。二十歳の、関西へなどバイクでは一度もいったことがなかった頃のことだ。

 その結果、奈良の山奥の小さな街の交番に雨のなか駆け込み、「すみません、和歌山県はどっちですか」などどいう訳のわからない道の尋ね方で、おまわりさんを困惑させることとなった。そして最終的には、日没後に高野山を登る道を走るハメになり、霧に視界を奪われて道が分岐した所で急ブレーキ、何とか停止はしたものの、山中ということで路面が傾斜していてバランスを崩し、荷物を積んだバイクの重さをこらえきれずに転倒(いわゆる立ちゴケ)し、自慢の愛車をキズモノにしてしまい、後日、修理代に数万円を費やすこととなった。

 そんな痛い思いをしたため、というばかりでもないが、その翌年、初めての北海道ツーリングに出掛ける際には、きっちり北海道の道路地図を準備していった。昭文社の『マップル』である。バイクツーリングで使用する地図といえば、『ツーリングマップル』が定番であるが、私は、B4版という馬鹿でかいサイズの『マップル』を選んだ。理由はただひとつ、「大きいほうがみやすいから」。

 旅慣れない者のやることは、万事つけてこの有様である。ページが大きければ、確かに、同縮尺の小さな地図よりも、広域を見渡すことができる。しかし、バイクでの旅においては、全ての荷物はとにかくコンパクトであることが第一条件なのである。私の大判地図は、バックには収めにくいし、雨の日にひろげれば面積が大きい分たっぷり雨粒を受けてずぶ濡れになるしで(これは風についても同じことがいえる)、いいことはなかった。まわりでスマートにコンパクトな『ツーリングマップル』(こちらはA5版)をひろげている他のライダーたちが羨ましく、また素人丸出しの大判地図が恥ずかしく、切ない思いをしたものだった。

 ということで、それから数年後の二度目の北海道ツーリングでは、定番の『ツーリングマップル』を持っていった。



ツーリングマップル北海道2012ツーリングマップル北海道2012
(2012/02/17)
昭文社出版編集部

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 これは、目的がバイクツーリングに特化した地図であり、それだけに、大きさといい使い勝手といい、道路の混雑具合や路面状況、キャンプ場やライダーハウスその他のお役立ち情報といい、さすがにこれ以上の地図は私は寡聞にして知らない。バイクツーリングに特化、とはいえ、他の場合には使えないのかといえば勿論そんなことはないので、レンタカーで北海道をドライブ旅行した新婚旅行のときも、私は『ツーリングマップル』を持っていった。そういう場合は、『るるぶ』などを併用すれば、ドライブ旅行に適した情報も得られるのだ。

 地図というものは、使い慣れしたものがやはり一番よい。だから、良い地図を使い込み、使い慣れることが大切だ。私は『ツーリングマップル』が使い慣れてしまったので、特にバイクで走るのならば、これ以外はもう使いたくはない。この地図ならば、例えば見開きの一番右からまっすぐ一番左までならば、どの位の距離で、自分の走りならば何時間で走れるのか、すぐに見当がつく。

 この「距離感」をページ上で掴むことは非常に大切なことで、これがきちんとできないと、一日の旅程を決めることすらままならなくなる。バイクはなんといっても車よりも体力を消耗しやすいので、無理な走行は事故などのトラブルに直結しやすい。そのため、キチンとした予定が地図上で立てられることも、じつはバイクツーリング(特にロングツーリング)に必要なスキルだといえるのである。

 なんてことをいいつつ、今回、冒頭で述べたように、iPadといういわば「最新式」の地図に鞍替えしてしまった訳であるが、やはり、全くそこに不都合がなかった、という具合にはいかなかった、のは確かだ。ただ、これはバイクツーリングではなく仕事のためのものなので、単純に『ツーリングマップル』と比較して評価する訳にはいかないだろう。

 前述のように、ある建物に、正確に確実にたどり着くためには、詳細で、しかも最新の地図が必要なのであり、その上、可能性としては日本全国どこへでも行くことがあり得る訳なので、その全ての地図が必要、というこになると、もうwebに頼るというのは自然な選択であるし、そうなると、スマートフォンより画面が大きく、タッチパネルで操作ができる点でトラックの車内ではノート型パソコンよりも使い勝手がいいタブレット端末は、今のところ最良の選択であったのではないかと思っている。

 ただ、今は持ち運びのできるカーナビなんてものもあり、これを選ぶという選択肢もないことはなかった。しかし職場の先輩によると、カーナビは「トラックが通れる道を案内してくれるとは限らない」とのことで、あまり頼りすぎると危険らしい。そしてiPadには、web閲覧という最強の暇つぶし機能もあるのだ。そう考えると、やはりiPadである。

 と、こんな具合に、俄かにデジタル化した私の地図事情ではあるが、実は、iPadと共に、前述の関東から中部あたりの『マップル』もまた、持ち歩いている。何故なら、紙の地図は、電池切れも故障も絶対に起こらないという、最強のバックアップだからである。私の世代は、大体高校生の頃にレコードからCDへの移行期を迎えた、アナログ時代とデジタル時代をまたがって生きてきた世代であるせいか、どうも、何だか紙の地図がないと安心できないのだ。

 そしてまた、紙の地図にはやはり、独特の良さがある。紙の地図というものは、良い意味では「汚れ」が残るものだ。過去に私が旅の共に使用した「マップル」には、前述のように雨風にさらされた跡だとか、目印を書き込んだものだとか、予定ルートを蛍光マーカーでなぞったものだとかが、そのまま残っている。こうした地図を今眺めることは、下手な文学作品を読むことよりも、感動させられることだ。

 雨の冷たさだとか、森を抜ける道の匂い、両手をしびれさせる愛車のエンンジの振動にいたるまで、それらの「汚れ」に秘められた記憶は、私だけに読み取れる秘密の文字となって、過去から語りかけてくれる。こんな芸当は、日々最新版に更新されてしまうweb上の地図にはできないことだろう。

 だから、もしいつか再び、幸運にも旅に出る機会に恵まれたのならば、やはり紙の『ツーリングマップル』を持っていくことだろう、なんてことを思いながら、日々トラックを走らせる私なのであった。毎日走る国道が、その旅立ちのときに辿るであろう同じ道であることに心を慰めつつ。

 ということで、わたくし、未だ何とか生きております。一応、読書感想も書きつつあるのですよ。それもまた、近々。以上、はじめてiPadで書いた記事でした(笑) それでは、また。


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旅のおもいで・出会い その2

(この記事は、本当はもう少し後にアップするつもりだった。しかし、記事に登場する友人Yが、とある手術のために入院することになってしまった。病院では、インターネットの閲覧もままならないだろうと思い、我々ふたりにとって共通の思い出を扱ったこの記事を、予定を早めて彼の入院の前にアップすることにした。Yは、このブログの読者でもいてくれているのだ。)

シモちゃん

 旅は道連れ、などという言葉もあるが、実際に、旅先で出会った、全く初対面の人と、何日間かの旅を共にする、ということは、私の場合それほど多くない、というよりほとんどない。

 特にオートバイでの一人旅のときには、もう最初から「ひとりで旅をするのだ」と決めてかかっているので、同宿の相手と夜中まで話し込むことはあっても、「一緒に行きませんか」とは間違っても私からはいわない。一人旅の寂しさを感じることは勿論ある。しかし一人旅の自由気ままさを、そのために失おうとは簡単には思えない。

 オートバイでの旅には、自分のペース、というものがあるのだ。一日の走行距離にも、休憩のタイミングにも。それはライディングのキャリアや技術に大きく左右されるので、ぴったり合う相手など容易にみつかるものではないのだ。

 しかし、道連れができた、ということが全くない訳ではない。地元の仲間らしきマスツーリングのグループにまぜてもらったこともあるし、ベースキャンプから初対面の人と二人乗りで出掛けたこともある。そして今回は、その中でも特に印象深い出会いについて、書いてみようと思う。

 1993年の夏の、私の初めての北海道ツーリングは、一人旅ではなかった。連れがいた。中学二、三年のときの同級生で、高校も同じだった友人Yが一緒だった。ただ、当時彼は関西の大学に通っており、そちらに下宿していたために、地元静岡にいた私と出発のスケジュールを会わせるのが面倒だったので、話し合って「現地集合」にしよう、ということになった。

 8月10日の午後三時に、長万部駅前で待ち合わせ。決めたのはそれだけだった。携帯電話の一般的な普及などまだまだ先のことであった当時としては、なかなかのギャンブルだった。旅先の、全く知らない土地のこととて、何が起こるかわからないからだ。一応、なにかあったらお互いの実家に連絡する、という決め事はあったが、しかし会えずに終わる可能性は充分あった。

 私は静岡を8月7日に出発し、その翌日の8日には北海道に上陸していた。9日は道南をうろうろして、10日の約束の時間ぴったりには、もう長万部駅前で一服していた。長万部駅はちいさな駅なので、いればすぐにわかるはずなのだが、三時を過ぎてもYの姿はなかった。ただ、Yは昔からの遅刻常習犯なので、私はそれほど心配せずに待っていた。

 三時を二十分ほど過ぎた頃、駅前の小さなロータリーに、二台のオートバイが入ってきた。その内の一台が、ようやくやってきた友人Yだった。彼もまた私をみつけ、近づいてきた。だが、もう一台も一緒にやってくる。そして二台ともが私の眼の前に止まった。

 見知らぬバイクと、ガタイのいい乗り手。それが、シモちゃんだった。津軽海峡を渡るカーフェリーでYと一緒になり、ふたりともカワサキのエリミネーター400というバイクに乗っていたこともあって意気投合し、しばらく一緒に走ろう、ということになったのだ、と説明を受けた。

 正直なところ、初めてのロングツーリングということで、見知らぬ土地で少々心細い思いをしていた私は、ようやくYに会えたばかりか、思いがけない仲間までひとり増えたことを、とても嬉しく思った。そしてその日は洞爺湖畔まで走り、そこでキャンプしたのだったが、その間にはもう、シモちゃんの愛すべき人柄が明らかになった。

 大きながっしりとした体格と、いかにも人の良さそうな眼をしたシモちゃんは、仙台の出身であり、歳は当時二十一歳で私やYと同い歳だった。人なつこい明るい性格で、誰とでもすぐに親しめる、そんな男だった。シモちゃんが、あの旅そのものを変えてくれた部分は、決して小さくなかったと思っている。

 当時、二十一歳の夏の私は、酷くメランコリックな時期にあった。基本的には楽観論的であり、人間の本質は善きものであると信じ、「善意思」だとか、「内なる道徳律」だとかいうものを素直に無邪気に信じていた少年が、世間というものをそろそろ知りはじめ、そしてまた自身の中にも狡さや卑劣さを見出し、かつて自分が信じていたものを疑わざるを得ない現実、というものとぶつかり、痛い目にもあい、結果、逆に人間不信だとか、厭世的な気分だとか、悲観論的な価値観だとかを抱かされるに至った、あの頃の私はつまりそういう時期にあった。

 さらには、失恋、もしていた。ミュッセの『世紀児の告白』の主人公とともに、「人間が恋において嘘をつけるとは思っていなかった」私は、また彼とともに、恋の相手が「私を愛するのをやめたということではなくて、私を欺いたこと」に傷ついていた。つまり簡単にいうと、人間づき合いというものに嫌気がさしていたのだ。

 だから、私にとってのあの旅は当初、地元静岡での人間関係だとか生活上の雑事だとかから逃れる意味が大きく、できるだけ他人との関わり合いを避けよう、という気分が強かったのだ。だが実際に旅を始めてみると、やはり見知らぬ土地ではひどく心細いものだ。
よって前述のように、私はYやシモちゃんと合流できたことを喜んだのだったが、シモちゃんは、単に道連れになってくれたということにとどまらず、私の「人間からの逃避としての旅」に、「社交性」という、全く逆向きの力を与えてくれたのだった。

 旅というものは、自分の生活のある場所からは遠く離れるものであり、生活のなかの人間関係とも遠く離れるものではあるけれど、しかし、砂漠だとかジャングルの奥地だとか南極だとかといった、全く人間のいない場所に行きでもしない限りは、必ず、人間というものとは関わり続けるものだ。

 それがつまり、旅先での出会い、ということになるのだが、その出会いをどう捉えるか、ということになると、勿論、人それぞれ、ということになる。できる限りひとを避け、ひとり黙々と旅を続けるというひともいるだろうし、場合によっては、そうあらねば旅そのものの意義が失われる、という類いの動機付けの元にある旅もまたあり得るものだ。ただ、前述のようにどうあがいても国内旅行である限りはひとと関わらない訳にはいかないのであり、ならば、その出会いというものを積極的に受け入れる方向で旅を進めていくのは、旅を「楽しむ」ためにならば理にかなった方法だといえよう。私は、シモちゃんにそのことを教えてもらったのだった。

 いや、彼の具体的実際的な行動をみて、それを学んだ、というのではない。例えば、たまたまフェリーで出会っただけの相手と、すぐさま一緒に旅をすることにしてしまうような彼の「姿勢」を、学んだのだ。その後、つまりこの最初のツーリングの後にも、また私が北海道を旅しようという気になり、そしてその旅を楽しむことができたのも、この「姿勢」を、シモちゃんほどの積極性を持たない形であったとしても、学ぶことができていたからこそのことだと、私は信じている。

 そして、そういう「姿勢」はまた、旅の最中のみならず、その後の日常生活のなかでも、私をよい方向に導いてくれたように思っている。

 世の中は、そしてそこで出会う人びとは、かつての私が思っていたような「善きもの」ばかりではなかったかもしれない。だが、人びとが私の思っていたような人びとではなかったからといって、それが何であろうか。確かに善人ばかりではない。しかし悪人ばかりでもないのだ。皆、それぞれ、善人であり、悪人である者として生きている。私自身も含めてだ。しかも、その善悪をはかる基準そのものからして、ひとそれぞれ違うものなのだ。

 私はようやく、それを受け入れるための準備ができたのだ。そう、とにかくまずは人と関わろうという「姿勢」を身につけることによって、だ。実社会というものに幻滅し、人間不信になりかけて旅立った若者は、こうして、少しばかり成長して旅から戻ることができた。その成長を、つまりはシモちゃんが助けてくれたのだった。

 勿論、あの旅をきっかけに、がらりと変わることができた訳ではない。成長というものは、そんなに急激なものではない。私が、その「姿勢」を、実際に日常生活のなかに生かすことができるようになるためには、もうすこし苦しむことが必要だった。自分の排他的、独善的な「理想」の過ちを認め、他者を受け入れることの必要を学ぶために、私には異常なほどの読書をこなす必要があった。

 あの最初の北海道ツーリングが終わってからの二年ほどの間に、私は、私のこれまでの人生の内で最も沢山の本を読んだ。そして、自分がシモちゃんと出会ったことの重要性を知ったのは、その後のことだった。

 シモちゃんとは、結局8日間を共に過ごした。当時の日記を調べると、確かに8日間なのだが、何だか、もっと長い間、少なくとも二週間は一緒にいたような印象がある。彼は一度、静岡に遊びにきてくれた。Yの家に泊まり、私たちは一緒に静岡市内をバイクで走った。彼の住む仙台にも行きたい、などと、当時はYと話したものだが、今日に至るまでそれは果たされていない。

 静岡で会ったのが最後で、今はもう、彼とは音信不通である。

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旅のおもいで・出会い その1

動物たち

 私は中学1年生の夏休みに、父親と兄とともに南アルプスに登った。悪沢岳、別名東岳という、荒川三山のひとつで、標高3141メートル、日本で6番目に高い山、だそうだ。3000メートルを超える山であるから、その山頂部はハイマツ帯に入り、背の低い高山植物ばかりで、高い樹木は育つことができず、一本もない。

 その山頂から眺めた夜明けの景色は、霧の晴れたとたんに広がった高く澄みきった空や、真っ赤に染まった赤石岳の姿など、今でも忘れられない。また行きたくとも簡単には行けない場所であるだけに、その思い出は憧れとなって今でも胸を締めつける。そしてその思い出に、心を和ませるような彩りを添えてくれているのが、あのときに出会ったライチョウの親子の姿だ。

 あの丸々とした姿は、親鳥でも可愛らしいのだが、その後ろ一生懸命追いかけていたヒナ鳥たちのヨチヨチ歩きときたら、本当に登山の疲れも忘れて見入ってしまうに充分なものだった。出先での出会いは様々だが、こうした動物達との出会いは格別だ。何せ、人間などどこにでもいるが、野生動物というものはなかなか出会える相手ではないからだ。そこで今回は、こうした動物たちとの思い出を、書いてみようと思う。

 国道362号線は、簡単にいってしまうと静岡県の中部から西部に、そして更には愛知県の豊川市に向けて、山間をはしっていく道なのであるが、オートバイに乗り始めた十代のある時期、この道を静岡市から、大井川の上流部にある谷あいの街である川根本町という所まで行き、あとは大井川に沿って海に向けて南下、そして国道1号線なり150号線なりで帰ってくる、というコースを、夜中に暇つぶしに走ることが、習慣になってしまったことがあった。

 愛車はカワサキのZ400GPという中型バイクで、1983年製だったから、当時すなわち1991年にはもうすでにかなりくたびれた年代物のバイクだったが、初心者であった私にも扱いやすく感じられるとても良いバイクであり、そのバイクでとにかく山間のワインディングロードを走ることが楽しくでしょうがなかったのだ。

 今でこそ整備が進み、静岡市街地から川根本町間の362号線もかなり走りやすくなったが、当時はまだ、林道をそのまま舗装しただけ、というような区間がほとんどだった。そんな道を幾度も走ったおかげか、あのZ400GPに、私がこれまでに乗ってきた10台のバイクの中で、最も強く「人車一体感」を感じることができた。

 それはさておき、とにかく夜中にそんな山奥の道を走るのであるから、時折野生動物にでくわすことがあった。タヌキや野ウサギなどだ。タヌキは、何だかヘッドライトに向かって走ってくるような感じで、怖い。ウサギは逃げる。素早いものだ。しかしもっとも驚かされたのは、あるときに出会ったイタチだった。

 道幅は狭く、急勾配な上に、極端なヘアピンカーブ、ということで、私はゆっくりとそのカーブに進入したのだが、突然、ヘッドライトの視界の中にイタチが走りこんできたかと思うと、タイミングを合わせるかのように私のバイクの前輪に向かってきた。急カーブを曲がっている途中ということで、こちらもそう簡単に減速できない。あれよあれよと両者は急接近し、私のバイクの前輪は、イタチの胴体を乗り越えてしまった。

 私も驚いたが、イタチのほうはもっと驚いたことだろう。一度は道路上に横倒しになった彼だったが、すぐに体勢を立て直し、そのまま薮の中に猛スピードで消えていった。あのイタチはどうなったのだろうか。私は未だに気にかかっている。まあ、あの時無事だったとしても、もうとっくに天寿を全うしているのだろうけれど。

 その後、となると、北陸に自動車旅行に行った帰り道に、白山でサルの群れに出会ったりなどもしたが、やはりなんといっても北海道だ。初めて北海道に上陸したときには、牛がいるだけで感激し、写真などとっていたが、あの土地には牛などは山ほどいることがわかると、もう柵のなかに飼われている動物になど興味はもてなくなる。

 キタキツネに初めて出会ったのはいつだったろうか。もう忘れたが、そんなに何度も会っている訳ではない。せいぜい三、四回だが、そのうち一回は、妻との新婚旅行の途中だった。雪解けの頃で、ひどく痩せてみすぼらしかったが、キツネはキツネだ。毛並みも悪くあんまり可愛くなかったけれど。

 エゾリスはよくみた。道端を走っている。不幸にも車にはねられてしまったエゾリスも時折みた。リスといえば、支笏湖畔のキャンプ場では、シマリスと出会った。バイクから荷物を降ろしていると、すぐ足元で何か食べていた。ペットショップでは見たことがあったが、野生は初めてだった。とても可愛かったが、動くと逃げられそうで写真もとれなかったのが残念だった。距離的には、そのとき持っていた唯一のカメラである携帯電話のカメラでも、充分にいい写真がとれたはずだったのだが。

 礼文島の最北部で出会ったのは、ゴマフアザラシの群れだった。三十頭ぐらいはいたと思う。海岸から程近い、岩場の浅瀬に、小さいのから大きいの、黒っぽいのや白っぽいのと様々なアザラシたちが、皆で寝転がって日向ぼっこをしていた。のどかな風景ではあったが、そうした平和なひとときを得るために、彼らが日々生き抜いている「生存競争」を思うと、感慨深いものがあった。

単に、その日向ぼっこの場所を確保するためだけにでも、彼らは戦わなければならないのだ。日々自由を戦い取ることこそが、彼らの生活というものなんだなあと、私はバイクを止めてしばらく彼らをみていた。旅先のセンチメントも、大いに私に働きかけていたとは思うが。

 こんなのんびりした出会いでないこともある。そう、あのイタチのようにだ。確か根室から海岸沿いを知床に向けて走っていたときだと思うが、林の中を抜けていくような道で、ちょっとしたカーブを何気なく抜けたそのとき、いきなり大きな鹿があらわれた。

 ぶつかる、と思った瞬間、向こうもビックリしたのだろう、慌てて反転し、林の中におどり込み、姿を消した。カツッという、蹄がアスファルトを蹴る音が聞こえたぐらいの距離だった。もしぶつかっていたら、イタチのときのようにはいかず、鹿も私も大変なことになっていただろう。ほんとうに危なかった。

 北海道では、「鹿飛び出し注意」の看板はいたるところにみられるが、私が鹿と出会ったのはそれが最初だった。なかなか会えず、他のライダーたちに「しょっちゅうみるよ」などといわれて、ずっと会いたかったのだが、三度目の北海道ツーリングにしてやっと訪れた出会いがこれだった。その後にはなぜか、牧草地に入り込んで草を食んでいる姿などを、よく見かけるようになったのだったが。

 なかなか会えなかった動物に、もうひとつ、タンチョウヅルがある。これは勿論、生息地が限られており、そこらへんを走っていていきなり鹿だのキツネだののように出会えるものではないはず、なのだが、実はそれに近いような形で、私は彼らに出会ったのだった。

 やはり2005年の三度目のツーリングのときに、ツルが見たい、ということで、釧路湿原の周辺の道路を走り回ったり、しまいには道路よりも湿原寄りを走っている、釧網線という電車に乗ってみたりもしたのであったが、いっこうに会えず、もう諦めてしまったころ、いきなり「そのとき」はやってきた。

 霧多布岬から、摩周湖のそば近くにある弟子屈という街に向っていたとき、だから、釧路湿原よりもずいぶんと東をはしる、なんの変哲もない道道(県でいうところの県道)を走行中のことだった。周囲にひろがるのは、もう見慣れてしまった牧草地ばかり。正直にいって、少々退屈な道だったのだが、その牧草地のなかに、私はあの真っ白な姿を見出したのだった。

 私のようなツーリングバイクばかりではなく、乗用車やトラックも通る、本当にどうということはない、近所には農家まで一軒建っている道の、すぐ脇の牧草地に、タンチョウヅルがいたのだ。私はあわててブレーキをかけ、バイクを路肩に停めた。

 眼の前、ほんの20から30メートル先に、二羽のつがいのツルが、ゆっくりと歩いていた。なぜこんなところに、と、周囲を見渡した私は、さらに驚かされた。道の反対側の牧草地にもさらに一羽、また、一番近いつがいのいるところから、防風林を隔てた向こう側のひろい牧草地にも三羽、合計6羽のツルが、周囲に散在していたのだ。しかも、三羽の組の内の一羽は、羽の色が茶色っぽかった。かなり距離があったのではっきりとはみえなかったが、多分、あれはひな鳥だったのだろう。

 一羽だけでいたツルは、すぐにどこかへ歩いていってしまった。私は、眼の前のつがいをしばらく眺めていた。そのすらりとした美しい姿に、魅せられてしまったのだ。いや、ただ姿が美しいというばかりではない。その動きの優美さといったらどうだろう。ゆったりとしていて、しかも凛とした気高さを一瞬たりとも失わないその動き。そのつがいは、その舞踏のような気品ある身のこなしを、二羽で完璧に調和させていた。

 つかずはなれず、長い足でステップを踏んでいたと思うと、突然、何の先触れもなく、互いに向き合い、羽を広げてクチバシを天にむけるあの動作を、二羽同時に行うのだ。それを何度も繰り返すのだが、そのタイミングがずれることは決してなかった。

 こうした同調は、たとえば人が訓練によって獲得する踊りの「技術」とは、きっと、根本からしてその性質を異にしているのだろう。我々には「理解」することなど決してできない何かを、あの二羽のタンチョウヅルは、お互いに「感じ」合っているのだ。私は小一時間も、その場でこの二羽の優雅な舞踏に見入っていた。背後を走り抜けていく車やトラックのことなどかまわずに。

 私がタンチョウヅルと出会ったのは、その一度きりだ。無論、もう一度会いたいとは思うが、こればかりは運まかせであり、いつかその機会が来てくれることを願うばかりだ。そして私には、長年会いたいと思っているにもかかわらず、いまだ会えずにいる動物がまだいる。それはクマだ。本州のツキノワグマもいいが、やはり、ヒグマに会いたい。しかし、場合によっては、鹿の飛び出し以上に危険な出会いになってしまう可能性があるところが、少々、どころか大いに気がかりなのではあるが。

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旅のおもいで・場所 その3

オロロンライン

 北海道の日本海側。札幌市の北に位置する石狩市から発して、北へ伸びる国号231号線、そして更に留萌市からは国道232号線として北上、また更に、天塩町から道道106号線として稚内市にまで至る、この海岸線をはしる一連の道路が、通称オロロンラインと呼ばれる道だ。

 ざっと日本地図を眺めてみていただいたなら、本州の真ん中あたりから出発し、東京を通過して東北自動車道に乗り、そこからひたすら北へ北へとオートバイを走らせ、津軽海峡を越えてようやく北海道は函館に上陸した21歳の若者が、吸い寄せられるようにこの道を目指したことの理由を、あるいはご理解いただけるのではないだろうか。

 もう、とにかく、彼はひたすら北を目指して走ってきたのである。ここまで来たのならと、さらに「最北端」を目指すことは、人の心理としてごく自然なことではないだろうか。そして函館からその「最北端」を目指そうというとき、地図上をまっすぐに北に伸びていくこのオロロンラインに眼を奪われること、これもまた、ごく自然なことだというものだ。

 1993年の夏、初めて北海道にやってきた私が、最初に目指し、走り、そして稚内に、宗谷岬にたどり着いたこのオロロンライン。そのせいか、私にとってこの道は、「北を目指す旅」である北海道ツーリングを象徴するような道であり、そしてまた、多くの思い出に彩られた道なのだ。今回はその、この道にまつわる思い出などを、幾つか書いてみようと思う。

 私が摩周湖へ行くと必ず晴れる、というジンクスについては以前書かせていただいたが、このオロロンラインについてはというと、私としてはどうも「悪天候」のイメージが強い。単に「天気が悪い」というにとどまらず、「荒れた天気」になることが多かった。最初に走ったときからして、もう雨が降ったりやんだりという天気だったのだが、さらに印象深いのは、やはりその最初の北海道ツーリングも終わりに近づいた頃のことだ。

 八月も終わろうかという頃、そのツーリングを一緒に走ってきた友人Yは、「もう金が無い」ということで、帰路に着いた。私はもうしばらく北海道にいたかったので、小樽で彼と別れた。しかし私もそろそろお金が乏しくなってはきていたので、もう一度最北端を目指し、それから帰ろう、ということにして、またしてもオロロンラインを辿ったのだった。

 ただ、心配なことがあった。台風が近づいていたのだった。北海道にまでたどり着く台風は珍しいが、その年は何といっても「戦後最悪の冷夏」といわれたほどの異常気象であり、七月にはあの奥尻島を津波が襲った北海道南西沖地震もあったりで、もう、本当に何が起きてもおかしくないような夏だったのだ。

 で、その台風の進路だが、ちょうど日本海を北海道の海岸線に沿って稚内市に向かうという、まさにオロロンラインをなぞるような具合だった。台風がまっすぐ北上するのならば、東の方へひょいとよけてしまえばよいのだが、そうもいかない事情があった。

 私は稚内で、Yとは別の友人と待ち合わせをしてしまったのだ。自転車で旅をする、小学校以来の友人Hとであった。携帯電話などない当時のこと、予定の変更などそうそう簡単にできるものではなかった。まあしかし、台風より早く稚内に着いてしまえば何とかなるだろうと、とにかく私はオロロンラインを北へ向かった。

 どんなに足の速い台風でも、まさかバイクより速いということはない。しかし台風はノンストップで走り続けるのに対し、こちらはどうしても止まらずにはいられない。いろいろと事情が重なって小樽を出発するのが遅れたために、その日は留萌市までしか行けなかった。仕方なくその留萌で、無料のライダーハウス(ミツバチハウス、だったかな? そんな感じの名前だった)で一泊してしまった。

 私の計算では、それでもまだ台風には追いつかれないはずであり、実際確かにその通りだったのだが、しかし台風というものは、暴風域に入る前から雨が降り出すものだ。台風の先駆けとして、南からせりあがる雨雲。私の北上は、その雨雲との文字通りの追いかけっことなってしまった。

 とにかく、止まって休憩などしていると、雨が追いついてきて降り始めるのだ。誰だって好き好んで雨の中をバイクで走りたいとは思わない。慌てて走り出し、雨から逃げる。留萌から稚内まで約200km。一気に走れない距離ではなかった。しかしあの「記録的冷夏」の夏も、もう八月下旬となり、しかも天気も悪いとなると、大げさでなくほとんど静岡の真冬に近いような寒さで、ちょっと走ると身体が凍えて硬直するほどであり、休憩を挟まないわけにはいかなかった。

 しかし、あるコンビニに逃げ込んで肉まんを買おうとしたときには、よほど私が寒そうにしていたのだろう、レジ係のお姉さんが、時間切れで売れなくなったソーセージのでっかいのを焼いたヤツを、こっそりわけてくれたのはありがたかった。もう表面がパリパリになってしまっていたが、お姉さんの気持ちだけで抜群に美味しく感じた。ちょっとキレイな若いお姉さんだったからなおさらだ。

 そんな調子で稚内まで走り、無事友人Hとも合流し、共に屋根の下で台風を迎えることができた。しかし、こんなに北まではるばるやってきた台風は、やはりもうその勢力をかなり弱めており、実はそんなにビクビクするほどものでもなかったのだが、本当の「悪天候」は、その台風の後に本番を迎えたのだった。

 空は晴れていた。しかし、Hと別れ、故郷を目指して果てしない南下を始めた私を襲ったのは、海からの強烈な横風だった。本当に、バイクをちょっと海側に傾けていなければ、みるみる道路外へ向かって走っていってしまうぐらいの酷い風だった。50ccのスクーターではない。1100cc、乾燥重量220kgの大型バイクが、真っ直ぐ走れないのである。

 オロロンライン北端部の道道106号は、何もないサロベツ原野(北部日本海岸に沿って南北に長く広がる湿原)の海岸線を、ガードレールもろくにないまっすぐな道がひたすら続くことで有名な道で、「ツーリングライダーの憧れ」とも称されているのだが、それはつまり風を遮ってくれるものが何もないことをも意味する訳で、このときは本当に、バイクで走ることどころか、立ちションすることにさえ難儀した。

 で、留萌を過ぎた辺りでようやく風はおさまり、ほっと息をついてトイレを借りようとコンビニに立ち寄ったのだが、そこで自分の姿を鏡映しにみて愕然とした。私はそのとき、黒のレザージャケットを着ていたのだが、そのジャケットが見事に真っ白だったのである。ナンジャこりゃと良くみれば、なんと一面に塩がのっていた。風に飛ばされた海水がずっと私に降りかかり、風がやんだところで水分が走行風によって乾かされ、後に塩が残ったと、そういうことだった。つまり、「走る塩田」状態だった訳だ。おかげでバイクも塩まみれになり、帰宅後、錆に悩まされることとなった。

 この、留萌以北のオロロンラインでは、それ以後にも風に悩まされたことがある。2005年に泊まった、初山別村というところの「みさき台公園」というキャンプ場は、海に迫った崖の上のようなところにキャンプサイトがあり、とても見晴らしがよいのが特徴で、夕刻、日本海に沈む壮大な夕日をゆっくりと堪能し、静かな夜を迎えたのだが、キャンプ場が寝静まった真夜中に、事態は一変した。

 只ならぬ物音に目を覚ました私は、まず、自分のテントが異様に変形していることに驚かされた。強風がテントのポールを押し曲げていることは、すぐに知れた。恐る恐る外をのぞけば、風を大きく受ける大型のファミリー用のテントが数張り、風に飛ばされて恐慌状態の真っ只中だった。これは助けねばと外に出ようとしたところで、私は思いとどまった。もし自分が外に出れば、私の体重で何とか地面に固定されている自分のテントが、あっという間に飛ばされることは確実であることに気づいたのだ。

 強風のなか、慌てふためく人たちには申し訳ないが、自分のテントを守ることに精一杯の私は、そのままテントを押さえながら、便所にも行けずに耐えるしかなかった。夜が明け、風の収まったキャンプ場の惨状については、もうここではいわないことにしよう。

 ただ、好天に恵まれたときのオロロンラインの景色については、もう、何処をとってもはずれなし、の感があり、本当に素晴らしいものがある。私にとって特に印象深いのは、やはり2005年の、これまた8月末のことだ。

 道北の東海岸、つまりオホーツク海岸にある、クッチャロ湖という湖のほとりにあるキャンプ場で、私はひどい雨の朝を迎え、憂鬱な気分で出発したのだったが、そこから真っ直ぐに西へ、つまり日本海側へ向かって道道84号を雨中走っていると、日本海まで数km、豊富という街のあたりで、急に雨が上り、前方に青空が見えた。

 その空の青がとても美しく眼に染み入った。予感に胸を膨らませながら、私はサロベツ原野を横切り、オロロンラインに出た。そしてそこに広がった景色に、思わずバイクを止めた。砂浜におりる。粉雪のようにきめ細かな砂の上に立った私の眼の前には、青い景色が広がった。

 雲ひとつない色の濃い青空を限るものは何もなく、そしてその下にひろがる、穏やかに凪いだ日本海もまた、空の青に深海の群青までもを加えたような青。さらには、アクセントを与える点景のような利尻山が、その美しい山体をはっきりとみせていた。水平線を限るものは他に何もなく、そしてその水平線は、南北両方で、そのまま地平線につながり、そしてその地平線のかなたに、オロロンラインの両端がのびていた。

 あの景色を思い出すたびに、私は、オロロンラインを走りたいという欲求にさいなまれる。私の北海道ツーリングを象徴するあの道こそは、いつまでも、私の「彼方への憧れ」を象徴する道であり続けるのだろう。

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旅のおもいで・場所 その2

富士山

 我が静岡県の、地形的特徴は、主にその極端な「高低差」にある。

 まず、最も低い場所は、まあ海岸の海抜ゼロメートル地点、ということになるのだが、静岡県がぐるりと取り囲む駿河湾をも県の一部と考えて、その海底の最深部は、ということになると、なんと水深約2500メートルだ。駿河湾は、内海としては世界で最も深い海なのである。

 そして、もっとも高い場所、というと、これはいうまでもなく富士山頂で、その頂は海抜3776メートルだ。すると、その高低差は、約6200メートル、ということになる。つまり静岡県は、深海魚の住処から、高山植物の世界までの、実に様々な自然環境がみられるという、きわめて特異な場所、ということができる訳だ。

 と、こうした見方をするとき、静岡県民である私は、当然のように富士山を「静岡県の山」と考えている訳だが、お隣の山梨県の方々からすれば、「おいおい、ちょっとまてよ」ということになるのだろう。富士山は何県の山なのか、実はこれは、昔から静岡、山梨両県民の間で、よく論争になるところの問題なのだ。

 地図を見る。すると県境は、見事に山をまっぷたつに割るような線を描いて、富士山を貫いている。まるで、「さあ、お前ら富士山の取り合いをしろ」と、両県をけしかけてでもいるかのようだ。

 さて、富士山は何県の山なのか。山梨県の方が、以前テレビでこんなことをいっていた。
「富士山周辺の観光地は、ほとんど山梨県にあるじゃないか」と。もっともな言い分ではある。富士山周辺の観光地、というと、何といっても富士五湖がその中心、ということになるのだが、この富士五湖は、五つ共全て、山梨県にある。「だから、富士山、といえば山梨県だろう。」というのが、その方の主張だった。

 なるほど、とは思う。しかし私も静岡県民だ。そう簡単に、この「日本一の山」を渡すわけにはいかない。静岡県民が、富士山を我がものとすることの論拠は、主に、「だいたい富士山は誰のものなんだ」という点にある。つまり、何県に含まれるのか、という以前の、「誰のものなのか」ということを、問うわけだ。

 実は、富士山の山頂とは、神社の境内なのである。一体どこの神社なのかといえば、静岡県富士宮市にある、浅間大社の境内なのだ。つまり、富士山のてっぺんは、静岡県の神社の一部だということだ。これは、もう、富士山が静岡県だ、ということの証だといってしまってよいのではないか。富士五湖などは、所詮は麓のみずうみに過ぎないではないか。最高地点の剣が峰が、静岡の神社のものなのだから、これは、静岡県のものだときまったようなものだろう。

 と、まあ、「静岡県民の主張」はこれぐらいにして、この富士山にまつわる私の思い出などを、書いてみよう。まず、最も古い思い出は、というと、小学校一年生の夏休みに、この山を登ったことだ。家族と、いとこのお兄さんと、父の友人とで登った。

 2歳年下の妹は、途中から父の背中でぐっすり眠っていたが、私は最後まで自力で登った。小学一年生にして山頂まで登り、高山病でダウンした母や兄を横目に、きっちりお鉢巡り(山頂の噴火口を一周すること。1時間以上は優にかかかるコースだ)までしてきたのだから、我ながら大したものだと思うが、一番すごいのは、やはり娘を背負って登りきった父だろう。今は老いにし我が父も、あのころはまだ若かったのだ。

 その後、となると、やはり高校を卒業し、オートバイに乗り始めてから、ということになる。「旅のおもいで」とはいっても、勿論、県内の山であるから、その全ては「日帰り旅行」なのだけれども、とにかくもう、この富士山周辺には、何度走りに行ったかわからない。

 国道一号線でまず富士市へ、そこから国道139号で北上、富士宮市の市街地を抜けて朝霧高原、さらに北上して県境を超え、そのまま富士五湖を辿り、芦ノ湖を通って箱根峠で再び国道一号に戻り、帰路に着くというコース、あるいはこれを逆まわりに辿る、つまりは富士山をぐるりと一周するこのコースを基本に、その日の気分であちらこちらに寄り道をする日帰りツーリングを、私は一体、何度繰り返したのだろうか。

 伊豆半島一周コースと並んで、私はこの富士山一周コースが大のお気に入りであり、本当に幾度も幾度も走りにいった。一日かけてのんびりまわってくるにはちょうど良い距離であり、しかも、バイクで走って楽しい道が多いのだ。そして勿論、景色もよい。なんといっても間近に富士山がそびえるのだから、景色が悪い訳がない。

 佐藤春夫には「俗悪なまでに有名な山」と、そして太宰治にはその頂角が鈍すぎると評されたこの山。連山の内のひとつではなく、裾野を四方にたおやかに広げる独峰としてそびえるその姿には、遠目には険しさよりは女性的な美しさが感じられる。うるわしき女神たる木花咲耶姫命(コノハナノサクヤビメ)の山、とされるも故なしとしない、というところか。しかしそのゆるやかなせり上がりが、やがて日本の最高地点に達するのであるから、その山体の大きさは推して知るべし、である。

 よって、富士を間近に見上げると、その物凄い迫力に圧倒されることになる。さらには、その山体が雪に包まれる冬場にはなおさらだ。そう、やはり富士山には雪化粧が欠かせない。厳冬期、富士山の美しさは頂点に達するのだ、と私は断言してしまおう。そして私がもっとも愛する富士山の姿を、ご紹介させて頂く。

 一月か二月の、よく晴れた夜、しかも月が出る夜に、富士山の西側にひろがる朝霧高原に行ってみて頂きたい。月は、満月ではない方が良い(明るすぎるので)が、あまり小さくても(今度は暗すぎて)ダメなので、半月か、もう少し大きいぐらいの頃がいい。そこから見上げる富士山の姿を初めて眺めたとき、私は息をのみ、しばしその場から動けなくなったことを覚えている。大袈裟ではなく、本当に阿呆のように立ち尽くしてしまった。二十歳の頃のことだ。

 月光が透き通るような青に染め上げた、高原の鋭く冴えた大気のなかに、雪をまとった途方もなく巨大な山体が、幻想的な碧い姿で浮かびあがって圧倒的に迫り、そしてその背景には、冬の星座が一面に広がる。その美しさに、私はすっかり飲み込まれてしまった。身を切るような寒さも、しばし忘れてしまったほどだ。

 そう、信じ難いことに私は、真冬の夜の朝霧高原に、バイクで行ったのだった。体感温度は氷点下、いや、実際に気温は氷点下だった可能性も充分ある。なにせ朝霧高原の標高は1000メートルに近いのだから。何を思ってそんな真似をしたのかはもう忘れてしまったが、そんな、バイクにまたがった姿のまま全身の関節が固まってしまうような寒さの中を走り、すっかり冷えきってしまった自分の身体のことをすら忘れてしまうほどに、あの富士山の姿は美しかった。まさに、女神の座たるに相応しく。

 私はいまだに、この「月夜富士」(と、勝手に私が名付けた)よりも、美しい富士山の姿をみたことはない。とはいえ、例えば東名高速道路の鮎沢パーキングエリアから、例えば三保の松原から、例えば伊豆半島の大瀬崎からみた富士山が、美しくないということでは勿論全くない。夕暮れの本栖湖からみた、金色に輝く富士山なども、とても綺麗だった。

 九州出身の私の妻は、「静岡の人は、富士山が見えるってことを、当り前だと思いすぎている」という。彼女が大学受験のために初めて静岡に来たとき、新幹線が浜松駅を過ぎた辺りから、ずっと窓外に富士山を探し続けたそうだ。さすがに、もっと東の、静岡駅に近づいたあたりからしか、富士山は見えないのだが(多分)、富士山の見えないところに暮らすひとにとっては、富士山とは「そういう山だ」と、彼女はいう。

 つまり、それは「見える」山ではなく、「見たい」山なのだ、ということだ。確かに、私たちにとっての富士山は、生まれたときからいつも「そこにあって当り前」の山であり、天気さえよければいつでも見られる山であり、つまり、日常の風景の一部分としての山だ。しかし考えてみれば、こうして富士山を間近に見られる場所、というのは、日本の中でもごく限られた地域に限られるものなのであり、大多数の日本人にとっては、わざわざ遠方から出掛けてこなければ見ることにできない山なのだ。

 私たちが、富士山を見るならここからに限る、だとか、富士山は自分たちの県のものだ、だとかいうのは、そう思うとなんだかとても贅沢なことだという気がしてくる。あの文句なしに日本一の山を、こうして毎日のように見られ、一日あればその周辺でたっぷり遊んでくることもできる距離に暮らしているということ、ただそれだけでも、幸せなことだと思うべきなのだろう。

 私も家族ができ、かつての「富士山一周ツーリング」とは違う形で、この山と付き合うようになった。家族連れで楽しめる場所をえらんで、遊びにいくようになった。富士山はいつでもそこに変らずあり、我々を受け入れてくれる。またいつか、登ってみたいとも思うが、体力的にはとても心配なものがある。少なくとも、子どもを背負って登ることなどは絶対にできない。しかし、子どもが大きくなったころ、親子で挑戦するのも悪くはないと思う。それまで、体力を維持しなければならない。そして、かつて私の父が私にみせたような「強さ」を、私も子どもたちにみせられるとよいのだが。




富士山1

 昨年の年末に取った写真。古い写真でスミマセン、これしかなかったもので。私の住んでいる街の、「日常の風景」です。

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