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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

カブのこと 27


 田沼街道 その2・藤枝側起点から大井川





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 県道32号、即ち旧東海道を、旧藤枝宿から西へ。程なくして、瀬戸川に架かる勝草橋に出る。橋を渡り、川の西岸の土手道を下流方向へ100m程進んだところに、田沼街道の藤枝側起点がある。ここから、土手を降りる道の方へ。




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 すぐにみつけた、合衆国の史跡(笑)。アメリカの物質文化というもの、実は私、嫌いではない。




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 ガードをくぐる。上を走るのは、県道381号、即ち旧国道1号線である。




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 その先に、こんな説明書きがあった。明和五年(1768年)、相良城築城を起工した田沼意次が、同じ頃、既存の街道即ち小山街道や浜海道を、連結、修復、拡幅するかたちで、相良城と藤枝宿とを繋ぐ田沼街道を開通させた由、書かれている。

 そう、意次が田沼街道を整備したのは、相良城と東海道との連絡をよくするのが目的であった。旗本から出世し、ついに宝暦八年(1758年)、相良1万石の大名となった意次は、その後築城をまで許され、相良の地に築城を開始した。武家諸法度によって、新たな築城が厳しく禁じられていた時代に、いくら将軍の覚えがめでたいとはいえ、親藩や譜代大名の出身どころか、ただの旗本出身でしかない意次が、築城を許可され、さらには天守閣の建設までもを許されたのだから、これは例外中の例外的出来事だというべきだろう。

 そしてさらに、こうして街道まで一本通してしまった。確かに、自領に道を造るぐらいのことならば、多くの大名たちもやっていることだろう。しかし意次の場合、まさにこの場所にこの形で街道を通したところに、注目すべき点があるのである。ここら辺りのことに留意しつつ、先を急ごう。




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 しばらく行くと、道は県道に合流する。県道33号線、通称「田沼街道」である。

 田沼街道の名前は、現在この街道の名前として残っている訳である。この街道のことはすっと以前から知っていたが、正直、私はこの街道と田沼意次との関係など、最近になって旧東海道のことなど調べ始めるまではまるっきり知らなかった。この近所に、田沼という地名があるので、単にそのためにこの道が田沼街道と呼ばれているのだと思っていた。しかし多分事情はその逆だったのだろう。つまり、田沼街道があったから、その沿線のある地域が田沼の名で呼ばれるようになった、と考える方が自然である。

 さらにこのことにより、過去に走った旧東海道と同じく、田沼街道もまた、歴史的な変換、というものからは逃れられなかった、ということがわかる。私がこれから辿ろうという田沼街道は、「旧田沼街道」と呼ぶのが正しいのだろう。そしてその道も、多分、かつての意次が整備した道筋そのままではなく、「その旧道に一番近い場所を現在通っている道」、と考えたほうがよいのだろう。




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 JR東海道線を藤枝駅東側でくぐり、さらに東海道新幹線もくぐった先で、「旧田沼街道」はまた、「現田沼街道」と別れる。写真右に逸れていく道がそれである。見ての通りの、まるっきりの裏道、生活道路である。

 


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 栃山川を越えて、




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 途中、新しい道に遮られながらも旧道は続き、また、県道と合流。歩道橋の先にみえる防音板は、東名高速道路のもの。その東名高速をくぐってすぐのところに、




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 藤枝市と焼津市の市境がある。そしてこの「焼津市」の看板の下にあるのが、




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 「田沼街道境橋」である。橋が跨ぐ川は、御覧の通り川というよりは用水路とでも呼びたい程度のものだが、古来、ここが駿河と遠江との国境をなしてきた、という。そう、この辺りでは国境は大井川ではなく、この境川であった。




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 また細い裏道。ほぼ南下していた道筋は、この辺りから、ぐっと西へ向きを変え、大井川に真直ぐ向いだす。




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 その途中。「百ヶ間地田跡」。江戸中期寛文年間に、豪農河守惣太夫秀延は、屋敷の前の所有地をななつの大区画に、そしてそれをさらに102の長方形に整然と区画し、それが「百ヶ間地田」と呼ばれた云々の説明書きあり。ようは、このあたりの区画整理をしたひとの墓石を、記念碑がわりにここにたててあるのだろう。この区画整理によって生まれた真直ぐな道が、田沼街道の元となったと考えることは自然であろう。確証はないけれど。




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 その近所に、「八幡宮」。ただし、旧田沼街道を辿ってくると、写真右奥の、神社の裏手から入ることになってしまう。 




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 そしてその先に、「田沼街道下瀬越跡」。すなわち、田沼街道の大井川渡河地点、である。今の大井川からは、まだ200m程離れているのであるが、昔はこの辺りに岸があった、ということなのだろう。




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 で、大井川に至る。田沼街道を行く人々は、このあたりで大井川を越えていた、ということだ。……と、さらっといってしまうほど、その事実は軽いものではない、と私は思う。

 大井川の渡し、といえば、東海道の島田・金谷間の渡し場以外での渡河は禁止されていた。渡河の場所を限定し、制限することには様々な理由があったことと思う。大井川を、江戸を西国から守るいわば東国の「外堀」とすることも勿論だし、渡し場を関所がわりに利用することもあっただろう。また、渡しの業務は宿場の重要な収入源になっていたことから、既得権益としてそれを守りたい島田、金谷の両宿場からの要望もあったはずだ。

 しかし最も大切なのは、理由はなんであれ、それが幕府が決めた禁止事項であった、という事実であろう。支配者の定めた規則というもの、それは、例えいかに理不尽で不合理であろうとも、まずなによりも支配者の権威が守られる為に、絶対に犯してはならないものである。渡河に関わる禁制を破ることは、幕府の意向を無視することを意味した。故に、禁を破る者は厳罰に処されたのである。

 増水すればすぐに「川留め」となって、川越人夫が渡してくれなくなり、何日も水がひくのを待たなければならない大井川は、だからこそ箱根峠以上の難所だといわれた。しかし田沼意次は、そんな大井川を、東海道の正規の、そして唯一許された渡し場からは、ずっと下流の浅瀬で渡ってしまう田沼街道を、特に幕府から許可をもらった訳でもなく通してしまったのである。

 上で、「まさにこの場所にこの形で街道を通したこと」に大きな意味がある、と書いたことの理由のひとつが、これである。よりによって大井川を勝手に渡ってしまう街道を通してしまった、このことを当時の意次の権勢の大きさを示すものとしてみることに、無理はないだろう。

 田沼街道開通以前から、増水しても歩いて渡れてしまうこの下流域の浅瀬を、勝手に渡ってしまう者は少なくなかった、というのも事実ではあるらしい。まあ、今の我々が交通ルールを厳格に守らずに、平気な顔をして車を走らせているような具合に、庶民というものはいつの時代も、お上のルールをすり抜けてしまうものだ、ということだろう。そして庶民のやることならば、お上も「まあしょうがないか」で済ませてくれもしよう。川留めで長逗留となれば、旅費がかさんで、やっとのことで旅をしている庶民には財布に厳しいことになることは、お上もわかっていたはずだからだ。

 しかし、大名が堂々と街道を通してしまうことは、そんな庶民のささやかな脱法行為と同列に語られることではあるまい。徳川将軍家がこれをどうみていたのか。それはわからないけれども、少なくとも何のお咎めもなかったようである。これは意次の権勢の大きさあらわすと共に、将軍家からの信頼のあつさ、というものも、我々に知らしめてくれてはいないだろうか。




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 私はむしろ、この「将軍の信頼」というものが大切だと思う。このことは、この先にさらにはっきりしてくるのではないか、というところで、前方に大井川を渡る国道150号線を望みつつ、次回へ続く。


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カブのこと 26


 田沼街道 その1  藤枝側起点

 全ての道はローマに通ず。ローマ帝国があれだけの広大な領土を支配し、繁栄できたのは、領土の隅々まで道をつなげたからだ、とはよくいわれることだ。それは物資の運搬を容易にして交易の発達を促すのみならず、何より、兵力の素早い移動を可能にしてくれる。だから洋の東西を問わず、支配者達はいつでも、自国自領の街道整備に力を注いだ。よって徳川の五街道整備も、その常套手段にならったものだ、ということができる訳だ。

 江戸の日本橋を起点にした五街道。単に道をつなげるのみならず、宿場を設置して、物資や人員の移動を助けるひとつのシステムを構築したその政策は、やはり高く評価されて然るべきものだろう。古代からの事業の継承にすぎない、という見方はできるし、多分それが正しいのだけれども、全国規模で完成させたのは徳川である。ただ無論、五街道だけではとても全国を網羅しきれるものではなく、五街道から様々な道が縦横に延びていくことによって、初めて道というものは全体として機能する。

 だから例えば東海道からも、様々なローカル街道が枝分かれし、それぞれが様々な機能を担っていた。ある街道は難所の迂回を可能にし、また他の街道は東海道沿線から遠く離れた街との連絡路となった。わが静岡県下では、伊豆の下田街道や、遠州の姫街道などが有名であり、それらは総称して脇街道、あるいは脇往還などと呼ばれる。そして、藤枝宿から分岐し海岸沿いの相良へと至る田沼街道も、その脇街道のひとつ、ということになる。

 江戸時代の田沼、と聞いて思い出されるのは、やはり田沼意次であろう。そう、この田沼街道は、他ならぬその田沼意次によって整備されたのである。いつぞやの梶原景時に続いて、またしても「悪役」の登場の感があるが、別に駿河国にゆかりのある人物はみんな悪人、という訳じゃあない。たまたま、である。

 田沼意次は、享保四年(1719年)、田沼意行という旗本の長男として生まれたひとで、その父親から継いだ家督はわずか600石であった。しかし第9代将軍徳川家重、そして第10代家治の側近くつかえて出世、相良藩5万7000石の大名、及び幕府の老中を兼任するまでになった。能力が並外れて高いひとであったことは確かであろう。

 幕府政治の中心に近づき、幕政を主導するようになると、意次はその能力を幕府の財政の立て直しのために発揮する。相場が不安定な年貢米ではなく、商業を保護、奨励することによってそこから得る貨幣収入を重視、さらには貨幣の統一等の政策によって財政を安定させるなど、その手法は「重商主義」だと評価される。彼の政策によって、幕府の備蓄金はそれまでの最高額にまで増加したというから、成功した、といってよいだろう。彼が幕政を主導したこの時期のことは、「田沼時代」と呼ばれる。

 その他にも、鎖国の緩和や町人資本による新田開発、蘭学の保護等、様々な改革を試みた意次であるが、結果的には、彼の後に権力を握った松平定信に追われる形で、領地も私財もほとんど没収されて幕政の場から退くことになる。

 失脚の理由のひとつとして、意次の重商主義が「拝金主義」とみられた、というものがある。「賄賂政治家」としての彼のイメージもこの辺りに起因するのだろう。意次を失脚させ、処罰した松平定信に主導された、所謂「寛政の改革」が、享保、天保の両改革と同じく「重農主義」であったことからも明らかなように、重農主義が元来の徳川幕府の伝統であった。ようするに、意次のやり方は「嫌われた」のである。(無論、定信との確執というか、政策の違いとは別のところでの、権力争いとしての政治的対立も無視はできないが。)

 それ故か、田沼意次といえば悪徳政治家の代名詞のようにいわれてきたのであるが、近年になって、その政治手腕は近代的、先進的なものとして高く評価されているようである。実際、米収入に頼る重農主義の三大改革のどれよりも、幕府の財政健全化には成功している訳だし、他にも身分制度にとらわれない能力主義の人事などの試みまでしていたりと、先進的、という言葉は確かに彼に相応しいといえるだろう。

 だが、事はそんなに単純でもない、という気もする。近年になって意次が高く評価されるようになったのは、「近年になった」からこそ、即ち現代的価値観から彼をみているからこそ、だとは考えられないだろうか。つまり、現代という時代の価値観が重商主義であるからこそ、彼の重商主義が受け入れられる、ということだ。

 時代にそぐわなかったならば、それがいかなるものであろうとも、やはり時代はそれを拒絶するのである。江戸時代はいわば「ロマン主義」の時代であった。あの時代には、いくら意次の政治が「合理的」であったとしても、それを拒絶する価値基準が支配的であった。だから彼は「悪徳政治家」として排斥されたのではなかろうか。

 と、ちょっと調べてみただけの田沼意次について、エラそうに意見など宣ってしまったけれども、私の主眼はあくまでも「田沼街道」、即ち幕府の老中としての意次の仕事ではなく、相良藩の藩主としての大名田沼意次の事績、である。またしてもワザとらしく長たらしい前置きがすんだところで、スーパーカブ110による早朝お散歩史跡めぐりツーリング、冬期中断明けの今年の第一弾は、この田沼街道を辿ってみることにしました。

 東海道は、その名の通り、大体海沿いを通っていく街道なのであるが、藤枝宿辺りからは、御前崎に向ってぐっと南下する駿河湾西岸の海岸線から離れ、その御前崎の突出をショートカットするように、内陸部を真直ぐに浜松を目差して続いていく。その東海道から、藤枝宿の少し西側、瀬戸川という小さな川のほとりで分岐し、海岸線を目差して南へ伸びて、約七里(大体28km)先の相良に続いていたのが、田沼街道という脇街道である。

 


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 ここがその起点である。今回のお散歩はここをスタートとする。斜めに降りていく道の方が、旧田沼街道になる。時間は朝の6時過ぎ、ちょうど日の出の時刻である。その日は、あったかくなるよ、という天気予報だったのだが、やはり、早朝はまだ冷え込んだ。ぶるぶるふるえながら、ああ、もうちょっと暖かくなってからにすればよかったかな、と少し後悔。川沿いに立ち並ぶ木々は全てソメイヨシノだ。もう少し遅い時期にすれば、暖かいだけでなく、満開の素晴らしい景色がみられたはずなのに、などと、ひとりぶつくさ文句をいいつつ、カブをスタートさせた……ところで、なんだか長くなってしまったので、次回に続く。ああ、まだ1mも走ってねえや(笑)


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カブのこと 25


 木箱、リサイズ

 
 インフルエンザをきっかけに始まった『カブに木箱取り付けプロジェクト』。木箱購入から、とりあえずはカブをシングルシート&荷台仕様に変更し、カブの方の準備は整った訳だが、考えれば考えるほど、実際の取り付けには障害だの難問だのが山積していることが判明してきた。

 そのひとつひとつをこれから克服していこうと思うのだが、まずは、木箱の大きさの問題を何とかすることにした。何はともあれ、どこにどう取り付けるのか、寸法をはっきりさせなくてはならないのである。そのためには、箱の大きさを決定せねばならぬ。いや、もう箱は買ってある訳だし、今更箱の大きさなど云々しようもないではないか、というご意見はごもっとも。しかし、せっかく買った木箱、実はカブに積むには少々大きすぎたのである。

 具体的には、高さ45cm、縦46cm、横68cm、である。高さと縦のサイズは、ほぼ理想的、しかし横68cm、これが問題であった。これでは、カブの進行方向に向って縦積みするにせよ横積みするにせよ、荷台から半分以上がはみ出てしまう。さらにこの木箱、書籍流通用の通箱だったこともあり、なかなか作りがしっかりしていて重いのである。正直、この箱はやめて別のものを、とも考えた。しかしせっかく2100円もだして買ったのである。無駄にしたくはなかった。他に使い道もなさそうだし。

 そこで、思いきって箱を小さくすることにした。横サイズ68cmを、理想の50cmまで縮めるのである。マイナス18cm。簡単な話、側面の板をひとまず取り払い、横板と底板を18cm切って、また側面の板を釘うちすればよい訳である。しかしまあ、謂うは易し、行うは難し。やるとなるとこれがなかなかの手間である。

 問題は、横板に入っている「大坂屋」のロゴマークである。ほとんどこれが気に入って買ったようなものなので、これを生かさねばならぬのだが、サイズを縮めるのに、片側をばっさり18cm切ってしまったなら、このマークが片方に寄ってしまう。それではいくらなんでもカッコ悪いというもの。よって両側から9cmづつ切り詰めねばならぬ。しかしそうなるともう、箱を一度バラバラにして、切るべきを切り、また組み上げる覚悟が必要になる。

 案ずるより産むが易し、このままでは使い物にならぬのだから、是が非でもやらねばならぬ。ただ、バイクいじりならば少しはやったことがあるし、道具もある程度はそろっているのだが、木工となるとほとんど中学での技術の時間以来やったこともなければ道具も無い。そこで頼るのはまたしても親の脛、我が老父が幸いにして日曜大工を趣味としており、これが結構な凝りようで、道具ばかりは玄人はだしの立派なものがひと通りそろっている。古く重く大きすぎる木箱を抱え、迷わず実家に向った。

 で、こんなブログなどやっている以上、その行程など逐一写真に収め、記事にでもしてやろうなどとたくらみつつ、丸ノコ借りるよ、と父親に一言声をかけ、裏庭にどっかりと木箱を置いたところに、居間で昼寝をしかけていた父親がいそいそと出てきた。箱の両端から9cmのところに鉛筆で線など引っぱっている私の横に、あれこれとご自慢の道具をそろえてすっかり段取りを整え、さあとばかり、頼みもしないうちに手を出してきた。

 日曜大工を趣味とする父と、木工はほとんどやったことの無い息子。父にいわれるがまま、あの、写真を撮りたいのですが、と言い出す間もなく作業は進んでいく。丸ノコでギャーンと切られ、古釘も片端から引っこ抜かれてバラバラになった木箱。しかしまあ、トンカチで左の人差し指を殴りつけて血豆をこしらえながらも、気がつけばなんとか、箱の形に戻っていた。




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 これが元々の姿。これが、




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 こうなった訳である。かなり小さくなりました。

 この大きさならば、カブの荷台には問題なく取り付けられるはずである。また、一泊程度のツーリングの荷物ならば、やはり問題なく収められる容量は充分にある。




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 仮置きすると、こんな感じ。まあ、いいんじゃないか。

 これでひとまず、大きさの問題はクリア、である。しかしクリアしなければならない問題はまだまだたっぷりある。さて、無事完成にこぎつけることができるのか否か、未だ我が事ながら、というか、我が事なればこそ不安は払拭されず、それどころかつのるばかり、といったところだが、ひとつひとつ、やっつけていこうと思う。そのいちいちを記事にしていくつもりでおりますので、乞う、ご期待。写真も、なるべく撮るようにしますので(笑)。


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かブのこと 24


 カブ、仕様変更


 カブに木箱を取り付ける、という一大プロジェクトがナシクズシ的に開始した訳だが、そのためにはまず、カブを木箱が取り付けられる状態にしなくてはならぬ。

 バイクに荷物を積む、というと、まあ普通は、シート後部にゴムヒモかなにかでくくりつける、というのが常套手段であるが、わがカブ君においてはこの手段はとれない。何故とならば、カブの給油口というものは、シートを持ち上げたその下にあるのである。よって、シートの上に荷物なんか積んでしまったら、給油の度にその荷物を全部おろさなければならなくなってしまう。

 そうならない為の手っ取り早い手段は、シートを元々のシングルシートに戻し、後部の荷台も取り付ける、というものである。まあ、こうして書いてもわかりにくいので、実際にやってみる。




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 これが、




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 こうなった。作業時間は十分ぐらい。カッコイイからダブルシートのままに、なんて書いたばかりだったが、いきなりの仕様変更である。一気に実用車としてのカブの本来的雰囲気が強まりましたね。




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 この頑丈そうな荷台。これならば、荷物はたっぷり積めるはず。

 しかし、まだ最低限の準備ができただけ、である。実際に木箱を積むことを考えると、いろいろと工夫しなければならないことがわかってきた。さて、一応夏に予定している泊まりがけツーリングまでには、完成させたいものである。



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カブのこと 23


 ヒマにまかせ、ヤフオクにて木箱落札


 インフルエンザ罹患、である。まあ、先に罹った息子の隣で寝ていたのだから、感染しても不思議はなかろうというものである。何やらだんだん熱が出てきて、頭痛もしてきて、これはいかんと病院へ行き、インフルエンザA型感染の診断を受け、タミフルとカロナールを処方されて帰ってきたのが二日前。このタミフルなる薬、インフルエンザに罹るたびに思うのだが、本当に善く効く薬で、服用開始直後から症状改善の徴候が見られ、三日目の朝には平熱まで体温は下がってしまった。

 しかし無論、だからといって仕事に出掛けてよい訳ではなく、同じく熱も下がって元気になってきた五歳の息子共々、家に籠って安静にしていなくてはならぬのだが、これがヒマでかなわない。妻は仕事でいないので、息子を放っておいてずっと寝ている訳にもいかないし、第一、いくら病気だからといってそうそう寝ていられるものでもない。平日昼間のテレビなんてものはつまらないものと決まっているし、ああ、ヒマだ、ということで、買い替えたばかりのスマホなど取り出し、インターネット接続、とある探し物をヤフーオークションで探し始める。

 と、意外と早くみつかった。入札。結果をいうなら、入札者一名で無事落札。商品代引きで発送してもらい、翌日受け取り。それが、これである。





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 古い木箱。書物の通函箱として使用されていたもの、との説明書きがあった。なんでまたこんなものを買ったのか。スーパーカブに乗っている方々ならば、ま、こんな木箱ときたら、何に使うかはもうすぐにおわかりのことだろう。

 そう、この木箱、カブの後ろに荷物入れとして取り付けてしまおう、と思っている。では何故、こんなでかい荷物入れが必要なのか、というならば、実はわたくし、今年中に、久々の泊まりがけツーリングになど出掛けてしまおうか、などと目論んでいるのだ。

 去年からはじめ、現在冬期中断中の旧東海道史跡めぐりお散歩ツーリングであるが、静岡市の自宅から、西は掛川宿、東は箱根宿にまで至るに及び、いよいよ、泊まりがけ前提でないとツーリングプランが成り立たない距離にまで、範囲が広がってしまった、という訳である。

 ただ、逆に考えるならば、泊まりがけ、ということさえ前提してしまったならば、スーパーカブ110でのツーリングとはいえ、その行動半径はぐっと広がってくる、ということである。東は箱根の先の相模国、のみならず、なんだか日本橋までが射程距離に入るんじゃないか、という気もしてくるし、そうなると、西も遠州をこえてどこまでいけるのか、まさか京都は無理だが名古屋くらいはなんとか、などと気持ちが大きくなってくる。

 という訳で、これからしばらく、この箱をカブに取り付ける工夫をあれこれ考えることになりそうである。それにそろそろ暖かくなりつつある。手始めに近場から、お散歩ツーリングを再開したいな、とも思っている。だがまあしかし、まずはインフルエンザを完治させなければお話にならないか(笑)。


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