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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

私とオートバイ・その15 SR500S


 ふたたび #2 (1996-1998年)


 1995年の日記を読み返すと、4月15日に、24歳の私はこう書いている。


 「今年の7月15日から30日まで、これを北海道ツーリングにあてよう。不安はある。しかし、行動よってそれを払拭する、という手段を択ぶ。」


 最初の北海道以来、すっかり「内向的」な人間になっていた私は、SRを買い、再びバイクに乗り始めたものの、そう簡単には、GPやカタナに乗っていた頃のようにはなれずにいた。相変わらず本を読んでばかりおり、引きこもりがちで、何週間もSRに乗らずにいることも珍しくはなかった。

 つまり、「バイク乗り」としての体力、気力、そして感性が、「なまって」いたのだ。日常的にバイクに乗っている訳でもない自分が、あの東北自動車道を走り抜き、北海道に辿り着けるものなのか、まるきり自信がなかった。オートバイは、感覚の乗り物である。自分の感覚は、身体的にも、精神的にも、以前程バイクという乗り物とシンクロしてはいないと自覚していた。

 しかも、四気筒DOHC1100cc、111馬力のエンジンを積んだバイクであれだけ苦労した東北道を、今度は、単気筒SOHC500cc、たった32馬力のちいさなバイクで走らなければならないのである。自分にそれができるのか。その不安を、私は、「行動によって払拭」しようとしたのだ。それはようするに、自信があろうとなかろうと「やってしまう」ということである。

 その手始めとして、確か5月か6月のある休日、山梨の清里方面へのツーリングに出掛けた。一日中走るようなツーリングは、SRでは初めてだった。自分が一日中走れるのか、それを試す意味もあったが、ツーリングユースでの燃費を確認しておきたい、という目的もあった。まずタンクを満タンにしてから出発し、国道52 号線という山越えの国道から中央高速道など、いろいろな道路を走って帰ってきた。SRのタンク容量は確か12リットルである。実はこれが少しばかり気になっていた。ひろい北海道を走るには、少々小さすぎないか、ということである。

 街から街が、本州では考えられないほど離れているため、必然的にガソリンスタンドも離れている北海道では、気をつけていないと、次のスタンドまで辿り着けなくて本当にガス欠になる可能性がある。休日には当然のようにお休みになるスタンドも多いのでなおさらだ。

 だがSRはこの日、総走行距離370kmを無給油で走りきり、帰ってきて自宅の近所のスタンドで給油してみれば、10リットルしか入らなかった。つまり、1リットルあたり37kmも走ったのである。これならば、いくら北海道でも心配はいらなかった。不安はひとつ、払拭されたという訳だ。少なくとも、バイクに問題はない、ということである。

 そして、持ち物の準備、であるが、これは前回の北海道ツーリングのときのものがそのまま使えたので、ほとんど買い足す必要はなかった。無駄な工具類など、経験的に必要なさそうなものを減らしたぐらいであった。最初のときはなんだかあれもこれもと、経験不足を物を準備して備えることで補おうとしていたようだった。が、北海道は別に前人未到の処女地かなにかではない。むこうで何か足りなければ、現地で買えば良いのである。つまり、使うのかどうかわからないようなものは、とりあえず持っていかず、そのぶんお金を余分に持っていくべきなのだ。このことを理解したことで、ずいぶん荷物は減らせた。

 迷ったのはセパレートハンドルだった。私の好みとしてSRはセパハンのほうがカッコイイので、本当はそのままで行きたかったのだが、あの小さな車体でセパハンでは、実際清里ツーリングのときもちょっときつかったし、シート後部に大荷物を積むとなればさらにライディングポジションは窮屈になるので、ロングツーリングではまたしてもゼファーの事故で痛めた腰が悪くなる可能性があった。それに、カタナでもあの前傾姿勢には度々苦しめられたことを思い出し、結局、ノーマルのアップハンドルに戻すことにした。

 準備、という点で、もっとも苦労しそうだと思われたのは、勤め先で休みをもらうこと、だった。もう私はアルバイトではなかった。正規採用でもないが、一応、社員番号ももらった契約社員だった。さて、半月も休みが取れるのだろうか。ただ、契約社員の給料は時給計算だった。つまり、働かなければ単に自分の給料が減るだけなのである。その点に望みをかけて、担当者にお願いをしたところ、以外にもあっさりと休みはもらえた。その頃、不景気で仕事が激減していたことも幸いしたのだろう。

 こうして、出発準備は何の滞りもなく進んでいった。残る問題は、私自身のみ、であった。

 自信など、なかった。しかし北海道を求める気持ちは強まるばかりだった。そしてそれが強まれば強まるほど、日常生活の煩雑さ、不自由さ、狭苦しさを厭う気持ちも強まった。7月に入る頃には、もう出発が待ち遠しくてならなくなった。私自身も、少なくとも心の準備はできたようだった。

 しかしもしかしたら、この時点で私は、今一度冷静に考えるべきだったのかも知れない。引きこもりがちで、休日に外出することもおっくうで、部屋で本を読んでばかりいた自分が、どうして北海道へいくことだけはこんなにも強く求めたのだろうか、そのことについて、考えるべきだったのかも知れない。


 かつての「外向性」が、最初の北海道ツーリングを機に一気に「内向性」へと方向転換し、そしてそのままそれは続いていた。そしてその「内向性」こそは、自分本来のあるべき姿であり、バイクに乗り始めることによって一時的に「外向的」になっていたあの時期のほうが実は自分にとっては本来的でない状態だったのだと、当時すでに私は思っていたし、実際その見方は、今現在の私の視点から判断しても正しかった。

 それでもなお私が北海道へ行くことを強く求めていたとするならば、それは実際の、はるか北方にある北海道を、というよりは、私の「内側」にある北海道を求めていたのだ。

 しかし当時の私は、肝心なそのことを理解できずにいた。北海道へ行きさえすれば、またあの頃の自分に戻れるのだと信じていた。日常生活にくたびれた「大人」ではない、自由と若さとを両翼にして飛びまわっていたあの頃にもどれるのだと。

 理解せぬまま、私はその日を迎えた。7月15日を最終の準備の日にあて、16日の昼間に睡眠を取り、その夜、私は二度目の北海道ツーリングに出発した。
 

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私とオートバイ・その14 SR500S


 ふたたび  #1(1996-1998年)




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 Yamaha SR500S
 1992年式
 空冷4サイクル単気筒499cc
 最高出力 32ps/6500rpm

 (写真はSR500。なぜか、SR500Sの写真がみつからない。何枚かは撮ったはずなんだけど……。しかしまあ、違いは色だけなので、これで勘弁してください(笑))


 Z750を手放し、バイクに乗らなくなった私。年齢も23になり、職場でも若手の中での指導者的立場になった。ただただバイクに乗り、そして北海道を目指すためにバイトをしていた頃とは、同じ場所で同じことをしながら日常を送っていたとしても、確実に、その生活の実質は変化していた。

 大人になる、ということを意識せずにはいられなかった。社会の中で、あるポジションにつき、そこでの役割をこなすことで、自分の生活を組み上げていくということ。そのことの意味を少しずつ知り、そして、それへ向けて、自分もまた歩みを進めつつあるという事実。こういうことなのかな、と思った。こうして日々与えられる自分の役目をこなしていくことで、人は、別段意識しなくても大人に、つまり「ちゃんとした社会人」になっていくものなのだ。

 周囲もまた、それを私に求めた。勤め先の会社は、しきりに正社員になることを勧めてきたし、両親もまた、契約社員という不安定な立場を心配していた。どうせ同じ職場で同じ仕事をするのならば、正社員になってしまったほうが給料も上がるのだし、嫌になってしまったら辞めれば良いのは雇用形態がどうあろうと変わらないのだし、正社員にならない理由などないといえた。しかし、私はその踏ん切りがつかずにいた。

 北海道の思い出が、私を引き止めていたのだ。同じ場所で日々繰り返される日常。それはあまりにも、あの「絶えざる移動の日々」とは対象的だった。日常を生きるということが自分の中で大きく、重くなればなるほど、北海道でのことが思い出された。なんという身軽さ、なんという気軽さだっただろう。ただオートバイで走り続けることに充たされた日々……。

 正社員になってしまえば、あんな旅はもうできなくなるだろう。あんなに長い休みなどとれるはずがないからだ。そう思うと、なおさらにもう一度北海道に行きたくなった。日常の世界が狭く息苦しく思われ、その分だけ北海道の広さ、心安さが懐かしく思われた。

 もう一度、行きたい。だが今の自分にはバイクすらなかった。その事実によって、自分がいかに不自由であるかを思い知らされている気がした。あの気の遠くなるような東北自動車道の彼方にある、憧れの土地。しかし自分には、そこへ行く手段がないのだ。あの東北道。この日常世界と、津軽海峡の彼方の麗しい世界との間に横たわる、679.5km。自分には、あの道を越えていける翼が、もうないのだ。

 殊にあの帰りの極寒の東北道が思い出された。そして、私の中であの夜が、象徴的な意味を持ち始めた。あの夜通し走った帰りの東北道が、若く自由な旅人であったはずの自分と、今の日常に縛られた、当り前の「大人」になりつつある自分とを決定的に隔てているように思った。あの夜を、もう一度「逆向きに」越えていけば、再びあの北海道を旅していた自分に戻れるような気がした。

 そうだ、自分はまだ23歳なのだ。若い頃を懐かしむような歳でもなければ、様々なしがらみに身動きがとれなくなってしまったような不幸な大人でもない。自分は未だ若く、自由なのだ。私はそれを、自分自身に証明したかった。自分は若く、自由なのだと、証明したかった。もう一度北海道へ行くことこそ、そのための唯一の手段だった。

 来年の夏に、北海道へ行こう。私はそう決めてしまった。旅費を貯めるために、アパートを引き払って実家に戻った。そしてまたバイクを買うことにした。車種は、バイク屋に行く前から決めてあった。ヤマハ、SR500。

 あの1993年の北海道ツーリングについて、私は自分なりに反省したのだった。あのツーリングは、あまりにも性急でありすぎた。あそこへ行きたい、こんどはあそこへ、と、北海道の広さも考えずに、あちこち走り回り過ぎたのだ。おかげで、道東、道北、道南、道央、ほぼ隈無く走りまわった割に、何も見ておらず、市販のガイドブックに載っているような有名な場所ですら、ほとんど行ったことがない気がした。

 一度目は、それでよかった。あるいは、そうあるべきだった、というべきかも知れない。ただ、二度目はそれではいけないと思った。地図を見返せば、幹線路をあっちへこっちへと走りまわり、私の航跡は北海道の上に荒い網の目を描いていた。その網の目を、より細かくしたかった。出来れば、面にしたかった。あの土地を、もっと知りたかった。

 そのためには、大排気量のバイクで一気に長距離移動をするような走り方ではなく、軽いバイクで小回りを利かせる必要があると思った。ただ、北海道までは高速道路を走らなければならない。それにはやはりある程度の排気量が欲しくなる。その条件にぴったりなのが、SR500だった。勿論、そうした実利的な理由ばかりではなく、カッコイイ、というのも大きかったが。

 バイク屋へ。程度のよい中古車があれば、と思い、大きな量販店に行った。ただ、SR500はSR400にくらべ、例の免許制度のせいか市場にでた台数が圧倒的に少ないので、あまり期待はしていなかった。よいものがなければ新車か、などと思いつつ店内をうろつくと、あった。それも、手頃な値段で。このときもまた、私は運がよかった、というべきだった。それも、常識はずれなほどに。

 見たこともないようなカラーリングの、SR。車種名をみれば、「SR500S」とある。S?  お店の人に聞けば、特別色の限定車だ、という。まあ、色へのこだわりは特になかったので、全体の程度も悪くなかったし、ということで、私は例によってその場で購入をきめてしまった。

 何とういか、深いえんじ色にラメが入ったような色と、濃いめのクリーム色とのツートンカラーの、SR。実はこれ、またしても後に知ったことであるが、極めて少数しか生産されなかったモデルらしく、その希少価値たるや、かつての愛車たるZ400GPのライムグリーンバージョンや、SL型のカタナの比ではない、というシロモノだった、らいし。しかし、当時携帯電話すら持たず、インターネットに接続する手段をまるで持たなかった私は、大した情報収集もできず、その辺りのことはよくわからないままに、何のこだわりもなく、そのSR500Sに乗り始めた。

 薄いスタイリッシュなシートにルーカスのヘッドライト、セパレートハンドルにホワイトブロス・スーパートラップのマフラー、等々。「いじってナンボ」なところのあるSRということで、私も自分好みにちょこちょこ改造しつつ、SRを楽しんだ。実際それは、じつに乗って楽しいバイクだった。

 カタナの111馬力は論外として、Z750の70馬力、あるいはSRよりも小排気量のZ400GPの48馬力と比較しても、SRの32馬力のエンジンは非力であった。しかし数値的にはそうであっても、単気筒のロングストロークエンジン特有のあの感覚には、高回転型の多気筒エンジンでは決して味わえない「力強さ」があった。その他、身軽な車体やドラムブレーキなどが生み出すその乗り味は、言葉や数字であらわせない、極めて感覚的な魅力に充ちていた。

 そう、感覚的、だ。感覚とは主観的なものである。だからそれは、比較的に自発的で自己完結的な楽しみだった、といえる。無論それは相対的な評価であり、何と比較して相対的か、というならば、私の場合は、カタナやZ750など、ということになるだろう。だから逆にいうならば、カタナやZ750の楽しみには、どこか「対外的」な、悪い言葉でいうならば「自己顕示的」な部分があった、ということだろう。

 カタナの記事のところで、当時は大型バイクに乗っているだけで「大したこと」だった、などということを書いたが、つまりそれは、他者に「大した」ものだと思われることで、満足を覚えている、と言い換えることが出来る訳だ。そしてそこに、大型バイクに乗ることの「理由」の一端を見出していたとしたならば、やはりそれは自己顕示欲の満足を求めてのことだった、といえることになる。無論理由はそればかりとはいえないし、反対にSRに乗ることにも自己顕示的な部分が全くない訳ではないだろう。あくまでも相対的、比較的な話、である。

 まあ何にせよ、私はSRに乗ることに、これまでのバイクでは知らなかった魅力を見出しており、そして、このバイクでならば北海道へ行ける、と思えたこと、それが何よりも重要だった。1997年を迎える頃には、二度目の北海道ツーリングは私のなかで具体性をましてきていた。


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私とオートバイ・その13 Z750four


 変化 #2 (1994-1995年)




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 富士市の海岸にて。本ブログに初登場の私の姿(二十年前ですが)。安物コンパクトカメラのセルフタイマーで撮影。一発勝負、現像するまで出来がわからないフイルムカメラにしては、奇跡的に上手く撮れたんじゃないですかね(笑)




 良いバイク、であった。これは間違いなく名車だと思った。無論、新型バイクのような軽快さはなく、重くどっしりとしたハンドリングではあるが、素直で安定感のあるそのコーナーリングの感覚は、何というか、癖になるような魅力があった。大きく持ち上がったアップハンドルと、厚みのある車体、そしてダウンステップが生み出す所謂「殿様スタイル」のライディングポジションで、鉄の塊然とした重量感たっぷりの大柄な車体を操るその前時代的な乗り味に、オートバイに乗ることの楽しみというものの、原点をみたような気さえした。

 その形式名称(Z2)から、一般的に「ゼッツー」などと呼ばれる、カワサキ750RSが発売されたのは1973年。それから年ごとにマイナーチェンジを繰り返し、六代目のモデルが、この78年型Z750four、形式名称Z750D1である。その外見はほとんどZ2そのままだが、形式上は別モデルであり、どちらかというと翌年79年発売のZ750FX(D2)に近い、ということになる、らしい。このあたりややこしいのだが、初代の「ゼッツー」から、そのFXまでに共通しているのが、エンジンである。




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 名機、Z2E型エンジン。DOHC8バルブ。私が乗った当時すでに開発から21年、製造から16年が過ぎたエンジンだったが、マルチエンジンらしくスムーズに回る素直な特性で、実に扱いやすかった。Z750FXの1980年モデル(D3型)からは、このZ2Eは使われなくなり、カワサキの750ccモデルは、Z650のエンジンをベースに排気量アップした、よりコンパクトなエンジンを搭載するようになった。

 よって、私が乗ったZ750は、エンジン的にはモデル最後期に属することになり、名機の熟成が最も高まった時期にあたるモデルだ、ということができるだろう。現在、70年代の所謂「空冷Z」の中古車市場においては、古いモデルほど高値がつく状態にあるので何だか錯覚しがちだが、車体の完成度は高年式のモデルの方が高いのはいうまでもない。(いや、マケオシミではないですよ(笑))。だがその「名車」を、私がたっぷりと堪能したのか、というと、残念ながら否、といわざるを得ない。

 「カタナに飽きた」と思い、Z750に乗り換えた私だったが、最初の目新しさからくる一種の興奮状態が過ぎると、何だか、次第にバイクへの情熱が冷めていくのを自分でもはっきりと感じた。そしてこのころ、初めて車を買った、ということ、これは大きな出来事だった。




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 88年式のミニ1000。またヒトクセもフタクセもある車だが、私はこちらに夢中になった。バイクへの興味の減衰が私に車を購入させたのか、それとも、車の購入がバイクへの興味を決定的に失わせたのか、それをはっきりさせることは困難だし、きっとその両方の相乗効果、とするのが一番正しいのだろうけれど、いずれにせよ、アパートの駐車場には車をおかなければならなかったので、バイクは、実家の納屋に保管されることとなり、結果、乗る機会が激減したのは大きかった。

 さらには、古いバイクは手が掛かる、という当り前といえば当り前の事情もあった。古い機械なのであるから、すこしずつ、トラブルが発生するのである。私のZ750においては、特にキャブレターまわりにトラブルが起こった。

 機械というものは消耗品の塊である。殊にバイクにおいては、エンジンがむき出しで雨ざらし陽ざらしなのであるから、痛みも進みやすいというものである。ゴムパッキンだの、ガスケットだの、ブッシュ類だのといった細かい部品の老朽化が、ときに大きなトラブルを呼び込む。古い機械を扱うということは、それらとの戦いであるいってしまってもよいだろう。

 インテークマニホールド辺りからの二次空気、ガソリンコックからの燃料漏れ等々、エンジンの不調に直結するようなトラブルに、立て続けに悩まされた。バイクに乗りたい、と思ったときにトラブルによって乗れないということが何度もあった。やはり、こういう「旧車」は、本当に好きで、トラブルも楽しめるような人でなければ乗れないのだろう。限定解除をして、大型バイクで北海道へ、という目標の全てを成し遂げてしまった後に、そんな手のかかるバイクに楽しんで乗り続けられるほど、当時の私のバイクに対する情熱は強くはなかった。Z750は、納屋に放っておかれる日々が続いた。

 こうなると、もう全ては悪循環に陥る。まずバッテリーがあがる。古いバイクはキックスターターがついているので何とかなるが、しかしいくら四気筒エンジンの軽いキックだとはいえ、50回もキックするのは楽な作業ではない。それが嫌で、ますます乗らなくなる。すると早晩、ガソリンが腐りだす。固化して、キャブレターが詰まる。こうなったら、もう一日や二日では直せない。

 何もかも、交換できる部品は全て交換してしまったならば、あるいはそうしたトラブルからしばらくは逃れられたのかもしれない。しかしそれにはお金が掛かるものだ。アパート暮らしを始めていた私には厳しい話だった。それに、生活費を切り詰めてまで、そんな「レストア」に近いような大修理をしようという気にはなれなかった。

 Z750を購入してから一年が過ぎた頃には、すっかり、実家の納屋の邪魔者でしかなくなってしまった。そしてその頃に、職場のある先輩から声がかかった。知り合いが欲しいといっているんだが譲ってくれないか、とのこと。現状を説明し、動かない状態だがよいかと聞けば、それでいいという。実家から、乗らないなら邪魔だから処分しろといわれていたこともあり、私はその申し出に応じることにした。

 こうして私は、二束三文でZ750を手放した。バイクのない日々が、始まった。

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私とオートバイ・その12 Z750Four


 変化 #1 (1994-1995年)

 1978年式
 Kawasaki Z750four (D1)
 空冷4サイクル直列四気筒746cc
 最高出力 70ps/9000rpm





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 1994年秋、富士宮のある寺院にて。写真がなんだかセピア色で、このバイクが発売された1970年代の写真みたいですが、そうじゃありません(笑)。写真の保存が悪かっただけです。



 
 ファビアンは今、武器を投げ出し、自分の気だるさと節々の痛さを感じ、貧しさも富みの一種だと知って、この土地に住む素朴な人間になり、変わることのない景色を窓からながめて暮らしたい気持ちだった。この小っぽけな村に住むこと、これさえ彼は受け入れたはずだ、一旦やりたいことをしとげたあとなら、人は生活上の偶然を受け入れて、それを愛することも可能なはずだから。
 サン=テグジュペリ『夜間飛行』 堀口大学訳


 北海道ツーリングから帰った私の心境を、少々大袈裟に言い表すならば、こんな具合だった。

 最早外界には、興味を向けるべきものもやるべきこともないのだといわんばかりに、部屋に閉じこもり本を読むことばかりに没頭し始めた、1993年の秋。それは「思想的」にいうならば、それまでの新プラトン主義的な傾向から、極端な主観主義、ショウペンハウアー主義への宗旨替え、という、私の価値観、世界観の転換を意味したのだが、ま、ここではあまりそこに深入りしないでおこう。

 問題は、私が外の世界について酷く無関心になった、ということだった。それは外界からの働きかけを遮断してしまう、ということではなかった。それでさえ当時の私には「積極的な」態度だと思われたことだろう。当時の私は、外界がどうあり、私をどう扱おうと、どうでもよかった。

 なんにせよ、本当にただ本を読んでばかりいる訳にはいかず、外に働きに出てお金を稼がなければならないことは確かだった。ならば、それが私生活を著しく侵害しない限りは、外界が求めるものを無批判に受け入れ、それに従ってしまうことが、結局、外界に煩わされることを可能な限り防ぐことになるのだと、私は思った。

 ツーリング前に勤めていたバイト先に、また雇ってもらった私だが、その秋その職場で、社内規定の変更だか労働法関係のコンプライアンスの厳格化だか知らないが、あまりに長期にわたってアルバイトを続けることができなくなり、長い連中は皆契約社員という雇用形態に変更されることになった。それが嫌ならば辞めなければならなかったが、いまさら他にバイト先を探してそこで一から仕事を覚えることの煩わしさを思うと、契約社員となってバイトよりも責任ある立場におかれるのだとしても、そのまま同じ仕事を続ける方が気は楽だった。ということで、私はフリーアルバイターを卒業し、まがりなりにもある大手運送会社の契約社員となったのだが、これなどもまた、実は逆説的なその「外界軽視」のあらわれだったといえよう。  

 逆説的、といえばもうひとつ、逆説的というべき出来事があった。1994年4月、私は静岡市内にアパートを借り、一人暮らしを始めた。これまた一見、親元を離れて自立しようというのだから、外向的な行動のようにみえるが、その実は、本当に一人になれる時間、というものを求めてのものだった。つまり、ひとり集中して読書に没頭するには、実家での家族との共同生活では騒がしすぎたのである。

 そして迎えた5月。こうして私の生活が、しだいにその変化を顕著にあらわし始めたこの頃、またしても仕事中、トラックの助手席からみつけた1台のオートバイ。それが、カワサキZ750Fourだった。

 少なくとも自分では「カタナに飽きた」と思っていた当時の私の眼に、そのバイクは実に魅力的にうつった。それもそのはず、というべきだろう。かつて、ずっとレーサーレプリカに乗りたいと思い続けていたくせに、ゼファーを目の当たりにして一目惚れし、その場で購入を決めてしまった私であるが、そのゼファーのデザインの原型は、1973年発売の750RS、一般に形式名である「Z2(ゼットツー、転じてゼッツー)」の名で呼ばれるモデルにあり、そしてZ750Fourは、その750RSとほぼ同じ外観だった。つまり、元来からして私が好きなスタイルだった、というわけである。

 仕事が終わると、またしてもその足でそのバイク屋さんに直行、Z750の値段を聞き、乗ってきたカタナを査定してもらって下取り価格を聞き、納得、例によって即決してしまった。私には昔から、いまだにそうなのだが、数千円単位の安価なものを買う時はあれこれと迷うくせに、数十万円単位以上の買い物はあまり考えずにすぐ決めてしまうという、少々危険なクセがあるのだ。

 飽きた。……求め続け、そして得たあの北海道ツーリングを共にした愛車に対し、ずいぶんな言い草だとは、私も思う。初めは「鉄のかたまり」であったカタナも、日常生活を一年、そしてあの25日間の旅を共にするうち、我が身に馴染み、愛車と呼ぶに相応しい相手になっていたのは確かだった。しかし、かつて心情的にあれほどに「共感」し得たZ400GPですら、時が至って「手放すとき」を迎えたならば、心は次のバイクに向ったのだ。それを薄情だというべきか否かは別として、その「時」がくれば、手放そうという気になってしまうのは事実である。

 そう、確かに私は変化の時を迎えていたのだった。あの北海道ツーリングが私の「青春」の象徴であり、その行き着いた先であったとするならば、その旅の終わりとは即ち、私の「青春」の終焉だった。私はきっと、無意識的に落ち着く先を求めていたに違いない。「いままで」とは違う場所で、私の「これから」が営まれるべき環境、それが必要だった。端的にいうならば、私は「大人」になろうとしていたのである。当時すでに私は22歳であったから、遅いといえばあまりに遅すぎたのだとしても、それが私の成長のペースというものだったのだろう。

 だから、内へ閉じこもり、読書に没頭した、というのも、それはいってみれば「さなぎ」の時期だったのだ。私はこれまでとは違う何者かとなるために、これまとは違う場所から、全く新しいものを内へ取り込み、そして自分なりにそれを咀嚼し、吸収し、我がものとすることを求め、為に、あの内向した日々を必要としたのだった。

 職場での新しい立場、ワンルームアパートという新しい生活の場、そして新しいオートバイ。きっと、それは私なりのけじめだったのだと、今では思う。カタナは、遠くへ行くための乗り物だった。当時すでに「16年落ちの旧車」であったZ750には、私は違うものを求めた。それはもう「少年の旅の道連れ」ではなかった。

 だが結論からいってしまうならば、私はすんなりと「大人」になどなれなかったのである。私の迷走は、まだしばらく続くこととなった。



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私とオートバイ・その11 GSX1100S


 到達点 #5 (1992-1994年)


 1993年8月30日朝。小樽で北海道最後の夜を明かし、テントをたたんだ私は、カタナに跨がり、静岡への帰路についた。国道5号線を辿り、羊蹄山を横目に長万部へ抜け、大沼公園横を経て函館へ。フェリーで津軽海峡を渡り、そして再び、東北自動車道。青森インターに入ったのは、確か夜7時ぐらいだった、と思う。

 北日本を、記録的冷夏が襲ったこの年。結局気象庁からは梅雨明け宣言がなされないまま、8月末にはもう北国はまるきり秋になってしまった。私はあの夜通し走った東北道を忘れられない。往路の東北道も勿論印象深かったが、帰りの東北道の寒さは異常だった。

 気の遠くなるような距離。だがそれ以上に、あの寒さが、その夜に越え難い長さを、そして深さと厚みとを与えた。それは冬期ツーリングそのものだった。しかし装備は無論冬用ではない。北海道の寒さに驚いて、少々厚手の服を購入していたものの、そんなものではとても防ぎきれる寒さではなかった。

 走行風が、体力をどんどん奪っていくのがはっきりと自覚された。それは大袈裟でなく私の生存本能が生命の危機を覚える寒さだった。連続して100km以上はどうあっても走れなかった。また、100km/h以上のスピードではどうあっても走れなかった。指先はかじかみ、手足の関節は凍りついたようにこわばり、運転に支障が出るほどだった。

 真っ暗闇の高速道路。交通量は極端に少なく、当時まだスピードリミッターの装着義務のなかった大型トラックが、時折猛スピードで追い抜いていくばかり。毎日長距離を走るバイクツーリングを二十日以上も続け、長距離走行には、この道を北へむかった時よりも慣れているはずだった。しかし帰りの東北自動車道は、行きよりも何倍も長くなったように感じられた。そしてそれだけ、その夜が理不尽なほどに長く感じられた。その闇が、やがて夜明けを迎えるのだとは信じられなかった。

 速度はどんどん落ちていく。100km/hだった巡航速度はやがて90km/h、そして80km/hまで落ち込み、それに伴い、一度の走行距離も短くなって、まるでパーキングエリアがある度に止まっているような調子になる。タバコと、ホットコーヒー。おかげでトイレも近くなる。それでも、やはりラッシュアワーが始まるまでには、東京を抜けたかった。東北道を走り抜いて疲れきった身体で、渋滞する首都高速を走りたくはなかった。走る自信がなかった。

 しかし一晩の悪戦苦闘は、明けない夜はないこと、そして走り続けている限りはたどり着けないゴールもないこと、そんな当り前のことをあらためて教えてくれた。川口料金所、東北道の南の端に辿り着いたとき、時間は朝の5時頃だった。ぎりぎり、ラッシュアワーをさけられた。

 目覚めかけの首都高速が、前方に広がる日本一の大都会のなかに続いていく様を、待ちわびた朝日のなかに私は眺めた。危険に満ちた首都高が、この時ばかりはどこか優しくもの柔らかに感じられた。それは確かに、私を東名高速道路へと導いてくれる道だった。私が生まれ育った、私の日常生活がある街へと、一直線につながる、よく知った高速道路へ。それはまさしく、旅が終わったときだった。その先、東京より西には、ただ日常生活と、それを取り巻く当り前の場所があるばかりだったのだから。

 そう、あの北海道ツーリングが、私にとって象徴的なものだとするならば、あの東北自動車の夜間走行は、その象徴的な、いわば非日常の「夢のような」世界と、静岡での、日常的な、現実の世界とを、私のなかではっきりとわける境界線となった。あの夜がなかったならば、私はあるいは簡単には日常生活に戻れなかったのかも知れない。あの夜が、旅を終わらせてくれた。このことは、当時の私が思った以上に、重要な意味を持つことになるのだが、無論、それに気付けたのはずっと後のことである。

 25日間、約7000kmのツーリング。カタナは見事、トラブル無しで走りきってくれた。悪天候の多い、バイクにとってはなかなかタフな旅であったはずなのだが、81年に生産を開始して、ずっと造られてきた長寿モデルのカタナである。その間メーカーは、マイナーチェンジともいえないような、微調整に近い細かな手直しをずっと続けてきたはずであり、製品としての成熟度はかなりのレベルにあったはずだ。私が乗ったSL型は、111馬力の輸出用モデル、所謂「フルパワー仕様」のセンヒャクカタナとしては最終モデルである。私はいわば最も「オイシイ」カタナで、旅をすることができたという訳だ。

 カタナをロングツーリングに使用するというとについて、せっかくだからちょっと私なりに書いておきたいと思う。まずエンジンだが、発売当時、最高速度は約240km/hで世界最速といわれたハイスペックエンジンであるにもかかわらず、トルクフルで低回転からとても扱いやすく、また、意外にも非常に燃費の良いエンジンで、市街地走行でも1リッターあたり20km近く走ることも珍しくないほどであり、高速道路や、北海道の信号のない直線路などでは25km以上走ったこともあったぐらいで、これはとてもツーリングに向いていると思われる。

 また、あの特徴的なスタイルのシートだが、後ろの部分が長く真っ平らなので、リアキャリアなどがなくてもとても荷物が積みやすかった。これもツーリングバイクとしては、とても大切なことではないだろうか。積載が不安定では危険であるし、走行中は後ろの確認などできないので、荷物の積みつけについて、不安というか、自信をもって走れない、というのは、精神衛生上もよろしくないだろう。

 ただこのシート、表面が特殊な、固いスポンジのような材質であり、それが雨をたっぷり吸い込んでしまう、という欠点がある。雨天走行の翌日、漸く晴れたのに、雨を吸ったシートのおかげで私だけジーパンのお尻を濡らして走っていた、なんてことも一度や二度ではなかった。これはロングツーリングにおいては大きなマイナスポイントだろう。不快だし、ちょっと周囲に誤解も生みそうだし……。

 また、あの前傾したライディングポジションも、ツーリング向きとはいえない。カタナはもともと、何というかスペシャルな車両であり、スタンダードモデルではないのだから、これは仕方がないのかも知れない。しかしあの巨体を、セパレートハンドルとバックステップで扱うのは、スポーツ走行ならいいが、ツーリングユースではやはり厳しいものがある。私などは、例のゼファーでの転倒事故で痛めた腰が、酷いことになったこともしばしばだった。

 で、結論をいうと、特別にカタナに思い入れがある人、どうしてもカタナでなきゃ嫌だ、という人以外は、わざわざツーリング用にカタナを選ぶべきではないかな、というところである。無論、ハンドルをアップハンドルにしたり、ダウンステップをなんとか工夫して取り付ける、という手もあるが、まあ、そこまでしようという人には、私は何も言わない。バイクなどは所詮一人で乗るものなので、最終的には、自分の好きにするのが一番なのだから。

 静岡に帰ってきた私は、おかしな感覚にとらわれた。自分では、とてつもなく長い旅から帰ってきたような気がするのに、静岡での日常世界は、ほんのひと月足らずの時間しか過ぎておらず、無論何も変わらないまま、以前の通り在り、以前の通りに動いていた。その様子はまるで、何百年でもこのまま何の変化もせずにあり続けようとしているかのようだった。あの時の私はいわば、真逆の浦島太郎状態だった訳だ。竜宮城でとても長い時間をすごしたつもりだったのに、帰ってみれば地上ではほんのわずかな時間しか過ぎていなかった。

 だが時間というものは、アインシュタインを俟つまでもなく相対的なものである。日常世界の時間経過が如何様にあろうとも、若者が旅をし、そこである充実というか、充足、あるいは充溢を覚えつつ長い時間を過ごした、という事実に変わりはない。そしてそのような経験は、若者を変化させずにはいなかった。

 バイクに乗り始めて以来、私は、常に「外側」をむいていた。移動手段を手に入れたことで、行動範囲が一気に広がり、私はその新しい世界に魅了されていた。そしてさらなる広がりを求めた。北海道ツーリングが、その延長であり、その到達点であった。そしてさらには、バイクを通じて「世間」を知る、という意味でも、やはり外向きであったといえよう。二輪免許の取得には公的な手続きを知る必要があり、それはバイクの購入に際しても同じだった。また、バイクに乗るにはお金が必要だったから、バイトとはいえ働く必要があり、それはある企業の業務について具体的に知ることを意味し、同時にまたそこで人間関係というものの一端を知ることとなった。

 しかしその外向性が、北海道ツーリングから帰った途端に、一気に内向性へと向きを変えたのである。まるで、外界に求めるべきものはもう充分に得たのだとでも謂わんばかりに、私は内に閉じこもった。具体的には、自分でも呆れるほどに本を読み始めたのである。ただ、この辺りのことについて詳述するのは、ここでは場違いというものだろう(いや、「読書ブログ」としてはホントはこっちのほうが大切なのですが)。重要なのは、部屋に閉じこもり、自分の内側にばかり眼を向けるようになったことにより、オートバイへの興味が一気に薄れていった、ということである。

 当時、日常の足といってはカタナしかなく、ツーリング前にしていたバイトをまた始めた私は、その通勤のために毎日カタナに乗っていることに変わりはなかったのだが、以前のようにそれは「自分が本来あるべき場所」だとは感じられなくなった。ただの通勤手段に近くなった。バイクに乗る時間があるならば、1ページでも本を読んでいたかった。

 ただそのときの私は、それは単に「カタナに飽きた」ということだと思っていた。秋が過ぎ、冬を越え、春を迎える頃には、そろそろ、カタナの車検の期限が意識されてきた。何だか急に乗るのが楽しくなくなってしまったカタナ。北海道ツーリングという大役を勤め上げたこの愛車を、そろそろ引退させようかなどと、私は考え始めた。

 実際、何となく調子が悪くなり始めていたのも確かだった。シリンダーヘッドの異音はタペット調整の必要を訴えていたし、北海道で浴びた潮風のせいであちらこちらにサビが浮いてきていた。以前ならば躊躇なくエンジンは修理に出し、サビなどは必死に磨いたことだろうが、なんとなく、そんな気になれなかった。

 そんなときに、またしても私は、あるバイク屋さんの店先に1台のバイクを見出してしまったのである。


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