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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

私とオートバイ・その10 GSX1100S


 到達点 #4 (1992-1994年)




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 北海道上陸後、初めて撮った写真。牧場だの牛だのが珍しかったのだろうが、無論、数日後には牛など見飽きることとなる。



 1993年7月12日、奥尻島沖の日本海海底で地震発生。マグニチュード7.8。震源に近い奥尻島には地震発生から数分後に津波が到達、その遡上高は島西部で30メートルを超え、死者及び行方不明者数が、奥尻島だけで合わせて200名を超える大惨事となった。(数値データはWikipediaより)
 
 またこの年は記録的な冷夏であった。特に東北地方以北での稲作が、日照不足や低温によって深刻な冷害にあい、その秋には後に「平成の米騒動」と呼ばれることになる、全国的な米不足が発生するほどであった。

 私が初めて北海道を訪れたこの年は、すなわち北海道の方々にとってはまさに試練と受難の年であった訳だ。実際、フェリーが接岸した真夜中の函館は不安になるほどに寒かった。北海道の夏は涼しいとはいっても、初めての北海道である私にもさすがにこれは異常だとすぐにわかるような、晩秋か、あるいは大袈裟でなく静岡の初冬、といってしまってもよかろうような寒さだった。

 そして、地震の傷跡。さすがに奥尻島へは行かなかったが、道南の日本海側にも、私が訪れた8月にもまだ、崖崩れ等で全面通行止めの国道が幾つかあったし、長万部あたりの道路も、場所によっては路面が波打っていたように記憶している。

 1993年夏の北海道は、だから元来からして「例外的」で「異常」な状況にあった訳だが、私にとっては尚更に、特別なものとなった。

 それはひとつの「結論」といえた。DJ-1というスクーターから始まった私のオートバイライフ、のみならず、それ以前から始まっていた、私の、月並みでクサい言葉だが、きっと最も正確で最も美しい表現で謂うところの「青春」というものの、決着点であった。十代前半のある時期から、あの8月に至るまでの期間。四十数年という私の半生と比しても決して長くはない、だがこれ以上に私の人生を左右することはないであろう、極めて重要な意味を持つあの十年足らずの時間の、到達点であった。あの若い日々に、努力の末にか偶然にか私が手にしたもの、あるいは、怠惰の故にか不運のためにか失ったもの、そうした全てが、あの夏にいわば決算のときを迎えたのだ。

 だから今あのロングツーリングの日々を振り返るとき、それは出来事の記憶というよりは、ひとつの象徴として、私の脳裏に去来する。端的にいうならばそれは私の「若さ」だ。決して充実したものとも、喜びに満ちたものともいえない、どちらかというならばつまらなく味気なく、憶えていたいことよりは忘れたいことのほうが多そうな、我が人生の最初の二十年だとしても、その全てを、私は「あの8月」というフィルターを通して振り返ることができる。その全てが、「あの8月」のもとに収斂したのだ、という思いが、私をしてその二十年に首肯させてくれる。全ては、あそこに至る路であったのだから、まあ、よしとしようと思わせてくれる。

 ただそうはいっても、あのツーリング自体からして、全てが善き愉しきものだった、などといえるものであった訳では勿論ない。北海道の人が驚くほどの寒さと、連日の悪天候のなか、ツーリング初心者にありがちな不手際、持っていて然るべきだが持っていないもの、使わないままバックの底で場所だけ取り続ける無駄なもの、そんなものを引き摺ったままに走り回っていた。しかしそんな足枷が何であろう。さらに先へ、未だ知らない土地へ、北海道の真っすぐな道が続く限りどこまででも走り続けようというような、あの故知れぬ焦燥に駆られたような、若者らしい脇目もふらぬ「走り」に充ちた日々。ただ、オートバイで走り続けることに充たされた日々。……

 求めていたものを、得られたと思えた。あてもなく、しかし留まることも知らない旅の日々を充たしていたもの、あの遥けき景色、自分と同じよう旅をする若者達の聲、雨かぜの匂いや、熱せられたエンジンのメカノイズ、家畜小屋の温気、テントやシュラフの化学繊維の感触、下草の湿気や気化ガソリンのにおいに至るまで、それら全てが渾然一体となって生み出されたあの8月に、私は溶け入るように同化し、浸っていた。こここそが、自分のあるべき場所だと思われた。求めたものは、得られたのだった。

 旅の一日一日を刻んだ、個々の出来事、それも無論記憶に印象深く残されてはいる。しかしやはりあの旅は、全体として意味するものこそが重要だった。そしてその全体は、旅も終わりに近づいた頃にたどり着いた、ある景色のうちにさらに象徴化されている。いや、あの景色にたどり着いたからこそ、あの旅は終わることができたのだ、というべきなのかもしれない。何の変哲もない、ある景色。




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 これが、その景色だ。8月25日、朱鞠内湖付近で出会った、本当に、何てことの無い、ある静かな蕎麦畑だった。あの旅を共にした友人が帰路に着いた後も、ただひとり旅を続け、もう一度最北端をめざしたその途上に、偶然みつけ、なぜだかひどく心惹かれてバイクをとめた。夕刻、山の端にすでに隠れた夏の陽の残光が、大気を金色に染めるなかにひろがっていた、あの蕎麦畑。

 まるで自分は、ここに来るためにはるばる走ってきたのだと思われた。この景色に出会うためにこの旅は始められ、続けられてきたのだと思われた。そして今、当時のことを思い出しても、やはりまずはこの景色のことが思い出される。あの旅の象徴として、あの美しく静けさと単純さに支配された黄昏の景色が、思い出される。

 ここに至って、私は自分が充分に走ったことを自覚した。無論、あの広大な北海道の、ほんの一端をしか自分はまだ見ていないのだ、とは思っていた。しかしそれでも、私は満足した。自分は充分に走り、充分に長く旅を続けた、と思えた。そして、そこで初めて、旅を終え、帰ることを具体的に考えた。そう、なんのあても目的もない旅、というものは、始めることよりも終えることの方が難しい、ということもあり得る。私はこのきっかけを得たことで、何というか、再び日常生活に戻る踏ん切りが着いたのだった。




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 8月30日、大沼公園にて。稚内から気の遠くなるような南下を始めた私が、その途上、北海道で最後に撮った写真。

 静岡の自宅に帰り着いたのは、8月31日の午前中だった。25日間、全走行距離6993kmの旅が終わった。こうして数字だけでみると、自分でも意外なほどの短期間、短距離であるように感じる。実感としては、何年もかけて、十万kmぐらい走ったような旅だったが、何にせよ、それは単にあのツーリングが終わったというばかりではく、私の人生における「ある時期」が終わりを迎えたとき、であった。




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 おまけ。サロマ湖畔にて。ここでのある出来事については、以前、記事にしたことがある(こちら。「サン=テグジュペリ『人間の土地』 思い出話」)。ただ、その出来事は2005年のことである。1993年のこのとき、二十一歳の私は、2005年に再び、のみならず、2008年の新婚旅行の際にみたび、ここに来ることになろうとは無論思ってもいなかった。
 
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他、「旅のおもいで」カテゴリーの記事にも、この北海道ツーリングに関する記事があります。よろしかったら、どうぞ。


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私とオートバイ・その9 GSX1100S


到達点 #3 (1992-1994年)




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 1993年8月8日。東北自動車道、青森インターにて。やっとここまできた、という写真。しかし旅は始まったばかり、であった。




 1993年7月初頭のある日。バイト先からの帰り道、静岡市内の国道一号線をダラダラとカタナで走っていると、私鉄の高架橋をくぐった先の脇道から、私の眼の前に普通自動車が飛び出してきた。高架の橋脚のせいでとても見通しの悪い場所であり、お互いがお互いを確認できなかったのだ。車の運転手が私のバイクを視認し、ブレーキをかけたときにはすでに、自動車は私の車線を完全に塞いでしまっていた。

 私は、というと、何となく、その交差点の死角に変な雰囲気を感じ、ブレーキはかけないまでも、スロットルは全閉にしていた。ただ、車が眼の前に現れたときには、とてもではないが安全に停止できる距離は残されていなかった。フルブレーキをかけながら、車の前方の空きスペースに向けて懸命に方向転換を試みた。

 ドスッという鈍い音と、衝撃。カタナの大きく横に張り出したエンジンが、相手の車のバンパーにぶつかった。しかし多分、その当たり方が良かったのだろう。その接触の衝撃は、ほとんどが車のバンパーを車体からもぎ離す方向に作用し、私は転倒すらせず、カタナの盛り上がったガソリンタンクの後端に股間を打って少々痛い思いをしながらも、そのままよろよろとバイクを路肩に寄せることができた。

 乗用車(確かセドリックだったように記憶している)のフロントバンパーがほとんど外れてしまうような事故だったにもかかわらず、転倒を免れたカタナのダメージは軽微で、クランクケースカバーに小さな穴が開いてオイルがじんわりと滲んできた程度だった。事故相手のドライバーは、バイクとの事故だということで私の身体を心配してくれたのだが、本当に身体は(股間も)なんともなかったので、そのクランクケースカバーを相手の保険で交換してもらうだけで、事後処理は終わってしまった。

 ただこの事故によって、私は、何というか、気を引き締めるきっかけを得たのだった。というのも、実はその二年前、ゼファーを廃車にした事故(詳しくはこちら 「私とオートバイ・その2 ゼファー」)によって、私は北海道旅行に行きそびれていたのだ。

 そう、あの事故は、ある友人ふたりと共に計画していた、「青春18切符」を利用した北海道列車旅行の数日前に起こしたのだった。つまり私はあやうく、再び北海道行きを交通事故によって台無しにしかけたのである。これには、そろそろテントだの寝袋などを買いそろえ始め、少々浮かれ気分だった私も、気を取り直した。

 やはりバイクは気を抜けば痛い目を見る乗り物だった。クランクケースカバーの修理のついでに、バイク屋さんに長距離ツーリングに出掛けることを前提に、各部の点検をお願いした。日常点検ならば自分でもできたが、やはりプロの眼でみてもらいたかった。未経験の長距離走行であるから、機械的なトラブルのリスクはできうる限り排除しておくべきだった。だがもっとも重要なのは、そのバイクを扱う乗り手、であった。ひと月足らずの期間に、数千kmを走るはずだった。その距離を走破し、無事帰ってこなければならない。考えるほどに、それは簡単なことではないと思われた。

 その未体験の長距離走行に向けて、確かに、あの事故はよいきっかけとなった。そうだ、あの交差点のような、見通しの利かない危険な場所を、これから何千となく通過しなければならないのだ。私は遥か北方に向けて、深呼吸するような思いで決意に満ちた一瞥を送った。

 そして迎えたのが、ハイライトが200円から220円に値上がりした1993年の8月だった。7日の午前3時の暗闇のなか、旅の荷物を満載したセンヒャクカタナに跨がり、私は出発した。

 東名高速道路。延々と連なる大型トラックの車列のなか、リアシートの大荷物にふらつきながらも東へ。そして、この旅の最初の難関である、東京、首都高速道路。ジェットコースターのコースにしか思われないような、狭く曲がりくねった道を、トラックだとかタクシーだとかが猛スピードで走り抜ける、恐ろしくなるような道路だ。しかも、迷路のような分岐をひとつも間違えず、選択していかなければならない。ならば首都高など使わず、一般道を走るか。——バカな。東京都内の一般道など、田舎者にはそれこそ悪意ある巨大迷路そのものだ。まともに走れるはずはない。あの首都高が、それでも一番マシな選択なのだ。

 何とかかんとか、無事に首都高を抜け、東北自動車道に入った私は、ふらふらと最初のサービスエリアである蓮田サービスエリアに逃げ込み、ベンチに横たわった。もう夜は明けていた。都内の朝の混雑が始まる前に、東京を抜けよう、という当初の目的を果たしたところで、なにやら力が抜けてしまい、眠り込んでしまった。しかしいうまでもなく、旅は未だほとんど始まってすらいなかった。

 東北自動車道。日本地図をひらき、この名をもつ道路を指でなぞってみてもその長さに驚かされるが、実際に、特にバイクなどで走ってみたならば、この日本という国がいかなる広さをもっているのか、それを存分に思い知らされることとなる。

 まず、スタートの川口から宇都宮までが遠い。だがその宇都宮を通過した時点でも、未だ仙台までの道程の三分の一も消化していないのだと知り、愕然となる。郡山、福島と抜けて、その仙台に漸くたどり着く。もういい加減身も心もくたくたになりながらも、どこかパーキングエリアで地図上の現在位置を確認する。確かに仙台を過ぎた。しかし仙台はまだ、東北自動車道の中間地点に過ぎないのである。延々と続く、単調な高速道路、単調な景色。私はもう、今自分がどの辺りを走っているのか、そんなことを考えるのをやめてしまった。次の100kmを走りきることだけを考えた。そうでなくては、気が遠くなりそうだった。

 初日、私は結局、青森にはたどり着けなかった。日没を迎え、ある、便所しかないようなパーキングエリアで、本当は無論いけないことなのだが、テントを張って寝てしまった。もう高速道路走行が嫌になってしまい、半分ふて寝の有様だった。

 初日からこんなに疲れてダイジョウブか、と我が事ながら心配になるようなテイタラクだったが、そこは二十歳の若者である、一晩寝たならばすっかり元気になり、翌朝はしっかり早起きして、東北道の最後の100kmを走りきり、無事、終点青森インターに到達した。さあ、いよいよ函館港からフェリーに乗り、北海道に上陸だと、意気込んでフェリーターミナルに乗り込み、そして、窓口で出鼻を挫かれた。

 朝もまだ早い時間だというのに、もうその日のフェリーは、最終の20時20分発しか空きがない、といわれたのである。きけば、ねぶた祭からの帰り客のために、フェリーは大混雑だ、とのこと。見回してみれば、確かに、私と同じくフェリー待ちとおぼしきライダー達が大勢、もう諦め顔で、そこらの空き地で思い思いに時間つぶしをしている。これはもう、どうしようもない。

 仕方がないので、私は青森を少し走ってみることにした。地図をひらく。竜飛岬、という文字が眼に入る。石川さゆりの、ごらんあれが竜飛岬〜〜の、竜飛岬である。行ってみることにした。途中、ホンダのモンキーという小さなかわいらしいバイクでツーリング中のひとに話しかけられ、一緒にラーメンを食べなどしながら、二台で竜飛岬に着いた。太宰治の文学碑なども興味深かったが、何といっても、岬の高台から、対岸の北海道がみられたのがよかった。

 北海道へ行きたい。ただその一心で、私はここまで走ってきた。しかし、北海道へたどり着くことは、単なるスタートに過ぎなかった。津軽海峡の向こうに、その大地はたしかにあった。これから、自分はあそこに行くのだ。あちらへ渡ってからのことは、何ひとつ、決めていなかった。つまり、これから何でも好きなように決めて、どこへでも行けるのだ。私は胸の高鳴りを覚えた。これから、自分はあそこを走るのだ。

 函館に戻った。途中居眠りなどしたにもかかわらず、まだ午後三時過ぎだった。しかたなく、街へ出て本屋を探し、どういうつもりかトランボの『ジョニーは戦場へ行った』を買ってきて、暇をつぶした。(ちなみに、この過疎ブログの一番最初の記事が、この『ジョニーは戦場へ行った』についてのものです。おヒマなときにでも、読んでやってください。)

 日没とともに、風が強まった。津軽海峡は荒れ、フェリー埠頭に真っ黒な波を打ち寄せた。出港の時間が迫り、乗船予定のツーリングライダー達が、それぞれのバイクにまたがり、船の搭乗口付近に並んだ。風が冷たい。私もまたその列に加わり、そして、黒々と波立つ海をみつめた。

 この海の向こうに、北海道があるのだ。GSX1100Sカタナと、自分。ここまできた。確かに、我々は今、本州の北端に立ち、海を渡ろうとしていた。

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私とオートバイ・その8 GSX1100S

  到達点  #2 (1992-1994年)




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 1992年12月3日、朝霧高原にて。



 カタナ購入のための下取り車として、それまでの愛車Z400GPをバイク屋にもっていったのが、8月31日。GPの車検の最終日であった。カタナの通関に時間がかかり、車検切れに納車が間に合わなかったのである。

 帰りの足が無くなってしまうので、友人のYに車で一緒に来てもらっていたのだが、その我々ふたりに声をかけたのはバイク屋の社長さんだった。これからちょうどスズキの営業所にカタナを取りにいくので、ちょっと一緒に来て手を貸してほしい、とのこと。社長さんからみたならば、私などは100万を超える買い物をしてくれるお客さん、というよりは、自分の店に出入りしているバイク好きの小僧、といったところだったのだろう。坊主、ヒマなら付き合え、といった具合である。無論私はよろこんで承諾した。

 社長さんの軽トラックに、Yの車でついていくこと数十分、スズキの営業所で我々を待っていたのは、輸送用の大きな箱に入った我が新たなる愛車であった。スチール製のフレームに段ボールをかぶせた、その大きく重い箱(カタナの乾燥重量は220kgほどである)を、我々とスズキのひと数人がかりで軽トラックの荷台に持ち上げ、乗せた。フォークリフトかクレーンはないのかと、ちょっと疑問に思いながらも、私はそのずっしりとした重量を我が身に感じつつ、その作業を手伝った。

 箱に書かれた、「GSX1100SL」の文字。バイク屋のピットで、その外箱がはずされると、スチールのフレームに前輪を外された形でボルトで固定された、カタナの姿が現れた。そこから、納車整備が始まった訳だが、書類の通関にまた時間がかかり、実際に納車されたのは9月9日になってからだった。

 ところで、誰の人生にも、転機、というものは多かれ少なかれあるものだろう。ただそれがはっきりとしたものとして短期間の内に劇的な変化を産むのか、あるいは、わずかずつの変化が長期にわたって続くことで、結果として人生の様相を一変させるものとなるのか、そのあらわれかたには、人により状況により様々あることだろう。

 私は基本、自分の生活習慣を変更することがあまり好きではなく、変化というものを可能な限り避ける傾向にあり、比較的平穏無事というか、平々凡々というか、変化に乏しいつまらぬ日々を送っているのであるが、そのせいか、変化が訪れるときには一気にやってくる傾向にある気がする。

 たとえば我がつまらぬ人生における最初の転機は、小学校3年生になるときの、引っ越し、転校であった。それは単なる環境の変化というに留まらなかった。それまでの、小学校二年生までの私は、幼稚園児から何となく年月だけ過ぎたような、幼少期の意識の薄明かりのなかにいまだぼんやりと過ごしているような、そんな子供だったのだが、この引っ越しが、一気に私を「少年」に変えた。

 ようするに、一転した環境への適応の必要が、私の成長を促した、ということなのだが、その半ば強制的な変化は、私の、それ以前の幼少期の記憶というものを極端に薄れされる、という副産物を産んだ。そう、私は、例えばある幼稚園に通っていた、という大まかな記憶はあるが、そこで起こったことについての記憶がほとんどない。友達もいたのだろうけれど、誰ひとり名前を覚えていない。顔も思い出せない。ただひとり、顔を覚えているクラスメイトは、田んぼの用水路に落ちて死んでしまった、あの小柄な男の子だけであるが、その子の名前は覚えていない。

 しかしまあ、それは余談である。本題にもどろう。このカタナに乗り始めたその一年後にもまた、私の人生における幾度目かの、ある転機を迎えることになる。つまりカタナを納車したその日から、私はその転機に向けて、知らず知らずのうちに準備を始め、そして進み始めていた訳である。ただ無論、当時の私は、そのときに自分の人生に起こりつつあったことになど少しも気付かず気にもせず、その日その日を暮らしていたのだったが。

 納車され、ついに我がものとなった「センヒャク・カタナ」。新しい相棒の第一印象、それは、「金属の塊」、それだけだった。GPにあまりに強い親和を感じていただけに、まるで違うカタナというバイクに覚えた違和感たるや、最初のバイクたるゼファーに乗り始めたときのあの「よそよそしさ」など、問題にならないレベルのものだった。

 セパレートタイプの低いハンドルとバックステップが生み出す、強い前傾姿勢を強制されるライディングポジション。だが車体は、そんな窮屈な姿勢で扱うにはあまりにも重い、空冷の四気筒エンジンとスチール製のダブルクレードル型フレームからなる、前時代的バイクそのままである。ようするに、元来からして扱いやすいバイクではないのである。そんなバイクに、バイク歴一年、大型バイクは初めての初心者ライダーが乗ったのだから、乗りやすく感じられるはずはないのである。

 私には乗馬の経験などないが、聞いた話だと、馬というものは乗り手がヘタクソだとナメてかかるそうである。私はカタナにバカにされているような気がした。「お前さんにはまだ早いよ」と、そういわれている気がした。私の操作に応えてはくれる。しかし文字通りそれは「機械的」な反応だった。GPに感じていたような親和性は、そこにはなかった。不安を覚えた。限定解除試験に合格し、こうして大型バイクを手に入れたが、私の最終目標はさらに、このバイクで北海道へいくことにあった。しかしこのバイクでは、北海道にまでは辿り着けるような気は少しもしなかった。

 ただ、そんなことは端から見たならばわからないこと、ではあった。周囲から見たならば、私は弱冠二十歳にして「限定解除」をし、名車GSX1100Sに乗るライダーだった。当時、特に静岡のような地方都市で、街で大型バイクを見掛けることなど滅多になかった。大型二輪の免許取得が容易になった今では、初めてのバイクがドカティですとか、ハーレーですとか、そんな話は珍しいことではないし、実際、休日に伊豆や箱根といったツーリングスポットに出掛けなくとも、日常的に、近所の幹線路を大型バイクが走っている姿を眼にする。そんな今とは、当時の状況は全く違っていたのだ。

 すなわち、単に大型バイクに乗っている、というだけでそれは「大したこと」であった、ということだ、少なくとも、バイクに乗っている者達の間にあっては。この事実は重要だった。若者にとって、自尊心が満たされる、ということ以上に、重要なことなどあるだろうか。

 だから当時の私が、そこにひとつの「満足感」を得ていたのは確かだろう。結果、それまでのひたむきさ、というか、「上昇志向」が失われた、というものまた事実だった。運転技術の未熟さは、上述のように自覚していた。上手くなりたい、とは思っていたし、練習目的で走ることもあったのだけれど、GPで限定解除試験合格を目指していたころのような貪欲さ、生真面目さはなくなっていた。

 それでも、当時バイクしか「足」をもたなかった私が、通勤にも買い物にも何にでもカタナを使っていた、というのもまた事実で、少しずつだが、カタナというバイクに慣れていった。交差点で砂に乗ってスリップして転んだり、タイトなカーブの続く東伊豆の海岸線の道で大きく重い車体に四苦八苦、後ろからきた250ccのバイクにあっという間に追い抜かれたりなどしながらも、私はカタナで走った。バイクは感覚的な乗り物だ。結局、上達のためには、「乗る」という方法以外にはないのである。

 このバイクで、本当に北海道にまでたどり着けるのか。その不安が払拭されることはなかったけれども、秋は過ぎ、冬がきて年は開け、1993年となった。北海道へ行きたい。不安よりも次第に欲求の高まりのほうが、強く私の胸を支配いていった。

 そう、二十歳にしてセンヒャクカタナに乗る、ということから得られる自己満足に浸っていられることは、心地よいことだった。そして当時非常な「人間嫌い」であった私には、ただひとり、その心地よさのなかにいられる「バイクに乗る時間」というものが、この上ないものと感じられた。だがそれが自分にとって心地よいものであればあるほど、実生活の味気なさ、下らなさ、居心地の悪さとのコントラストが際立つことになった。

 煩わしい人間関係と、本来ならば全く私とは無関係であるような、つまらない事物の動向に右往左往しなければならない実生活の多忙の空虚さ。オートバイに乗っている間は、そんなものからは遠く逃れられた。ならば、その「バイクに乗る時間」だけが、ずっと続く「旅の日々」とは、どんなに素晴らしいものだろうか。
 
 北海道へ行くこと。それは唯一の道であるように思われた。そこにだけ、答えがあるのだと思われた。


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私とオートバイ・その7 GSX1100S


到達点  #1 (1992-1994 年)




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 1991年式
 Suzuki GSX1100S(L) KATANA
 空冷4サイクル直列四気筒1074cc
 最高出力111ps/8500rpm
 (写真はSZ。たぶん。)


 無論私は、合格するつもりで試験に挑んでいた。しかし、こんなに早く合格できるとは少しも思っていなかった。でも確かに、望んでいた道が眼の前に開けた。その景色を前に、私は浮き立った。大型バイクに、乗れるのだ。それは絶好のタイミングといえた。Z400GPの車検が、8月までだったのだ。そのちょうど一ヶ月前の、限定解除であった。新たな愛車をみつけ、乗り換えるには本当に絶好のタイミングであった。

 ナナハン、つまり750ccの中古バイクを、まずは選ぶつもりだった。免許はあっても、未だバイク歴は1年あまりの初心者ライダーであることを、私は自覚していた。中古車市場で、ナナハンは比較的安く流通していた。無論、乗り手が少ないから、であるが、そんな安い中古車を買って、大型バイクのライダーたるに相応しい経験を積むつもりだった。

 ホンダのCB750Fか、あるいは、Z400GPの上級車種であるZ750GPか。当時は、そのあたりのバイクならば、50万ほどあれば充分買えた。とにかく免許の取得が難しく、大型バイクの需要が少なかったので、400ccクラスのバイクよりも高性能であり、新車価格も高額でありながら、ヨンヒャクの中古車よりもずっと安く売られていたのだ。私はそんなお買い得な中古ナナハンを探すため、バイク屋まわりを始めた。

 で、何件目かに、ある全国チェーンの量販店に行った。需要がない、ということは、供給も少ない、ということで、小さなバイク屋では、なかなか大型バイクの中古車は置いていなかったのだ。で、台数のある大きな店に行ってみたのだが、そこで、一台の中古車と出会い、事態は急変した。

 スズキGSX1100S。このオートバイの外見の「特殊性」については、いわないことにしよう。記事冒頭の画像を見て頂いたなら、それで充分だろう。それは1990年に、スズキの70周年のアニバーサリーモデルとして、1000台限定で販売されたSM型と呼ばれるものだった。中古販売価格、89万円。私はしばし、そのバイクの前で立ち止まった。そのシルバーの美しい車体に、見入った。またしても、一目惚れしてしまったのである。

 私はその足で、GPの面倒を見てもらっていたバイク屋に向った。そして、その中古カタナの値段が妥当かどうか、また、買う、という選択の是非について、聞いてみた。程度が良ければ買ってもいいんじゃないか、とか、よその店で買っても整備はするよ、などと店のメカニックのひとは言ってくれた。いよいよ、あのカタナを買うことについて、私が積極的に考え始めたそのときに、横から声がした。曰く。

 「新車のカタナが一台あるけど、どう?」

 それは、ちょうど店に来ていたスズキの営業マンのひとだった。我々の話を聞いて、声をかけてくれたのだが、私はその言葉に耳を疑った。

 GSX1100S”KATANA”。通称「センヒャクカタナ」の販売開始は、1981年のことであるから、それから当時すでに十年以上が過ぎていたことになる。カタナの生産は一旦、1987年に終了したのだが、上述のようにスズキは限定再生産モデルを1990年に、主に日本国内への逆輸入という形で販売した。これはあっという間に完売し、新車のカタナはもう手に入らない、はずだった(当時はまだ、国内メーカーの自主規制によって、国内で販売するオートバイの排気量は、最大で750ccまで、ということになっており、それ以上のスペックのバイクが欲しければ、国産であっても逆輸入という手段をとる他はなかった)。

 だが、新車がある、というのである。スズキの営業マンがいうのだから間違いないだろう。幾らか、と聞けば、120万円、という返答。あるはずのない新車のセンヒャクカタナと、ひゃくにじゅうまんえん、という数字。私の頭は混乱していた。ちょっと考える時間をくれないか、と答えて、私は店を辞した。

 後から知ったことであるが、限定販売であるアニバーサリーモデルの生産が終了したのちにも、スズキはごく少数の、アニバーサリーモデルと同仕様ではあるが、タンクの上の「70周年記念ステッカー」がないだけのモデルを継続生産し、SL型として販売していた、というのが、この「あるはずのない新車」の正体であった。これには、色違いのSSL型というものもあったらしいが、まあともかく、当時の私としては、新車が存在する、という事実だけが問題であった。そして、その120万円という値段も。

 欲しかった。しかし、すぐに購入を決められるような値段ではなかった。やはり、安い中古を探すべきである気もした。あるいは、まだ初心者なんだから、Z400GPの車検を通して、もう一年ぐらい乗る、という選択肢も私は持っていた。翌日になってもあれこれと思い悩んでいた私に、そうとは知らぬ兄が声をかけた。私が限定解除試験に合格したご褒美に、自分のバイクでひとっ走りさせてやる、というのだ。

 私よりも一足先に限定解除していたの兄の当時の愛車は、カワサキのGPZ900R、ニンジャであった。あの、映画『トップガン』でトム・クルーズが乗っていたバイクである。普段はひとに自分のバイクを貸したがらない、兄のせっかくの仰せに、私は喜び勇んで飛びついた。

 私は初めて、大型バイクで公道を走った。大きくずっしりとした車体の存在感と、その巨体をものともしない、大トルクのエンジン。無論おっかなびっくりの初走行ではあった。しかしそれが、やはり400ccのバイクとはまるで別物であることは充分に知れた。そして、それがあまりにも魅力的な乗り物であることも、充分に知れた。

 迷いは吹っ切れた。またしても親に頭を下げ、大幅に足りない購入資金を借りた。GP購入時に借りた分を、あっという間に返済していたことが、私の信用をあげていたようだった。そしてその翌日、私はバイク屋に赴き、正式にカタナを発注した。初心者なんだからまずはナナハンから、などという殊勝な心がけはどこへやら、100馬力オーバーのモンスターバイクを買ってしまったという訳だ。1992年、8月3日のことである。

 ただ、その時点でまだ車体は海外にあった。あくまでも、1100cc、111馬力という、国内メーカーの自主規制の数値を超えた輸出用モデルの、逆輸入、なのである。輸送、通関にはまだ何日も掛かり、それから納車準備、ということになるので、それまでは、車検の最後の月を迎えたZ400GPを乗り続けることとなった。

 まだ、次のバイクを発注しただけで、何も変わっていないはずだった。しかし、あれほどに自分の身体との一体感を覚えていたGPが、何だか、小さく感じられるようになった。車体は軽すぎるように思え、シートの着座位置からハンドルまでが近すぎ、窮屈な気がした。エンジンは物足りなく、頼りなく感じた。

 不思議な違和感だった。不思議な不足感だった。そして、不思議な距離感だった。私の気持ちがカタナへと向かい、移ったとき、もうあのGPとの一体感は失われたのだった。それはあるいは、私とGPと繋がりが極めて「心情的」だったことを、逆説的に証明していたのだといえるのかも知れない。

 8月31日。私は下取り車として、GPをバイク屋にゆだねた。一年を共に過ごしたZ400GPとの、別れであった。


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私とオートバイ・その6 Z400GP


 アイデンティティ #3 (1991-1992年)



 限定解除試験合格、という明確な目的をもって走るために、我が愛車Z400GPは全くもっておあつらえ向きのバイクだ、といえた。

 無論、本当ならば試験のときに乗るものと同じバイクで練習するのが理想なのだが、750ccのバイクなどもっていないし、第一、あったとしても免許がないのだから乗って練習などできない。よって、可能な限り試験車に近いバイクで練習する他はないのだが、GPはまさに、その「可能な限り近い」バイクだったのだ。

 中型限定免許で乗ることのできる最大排気量である400ccのエンジンをもち、しかも、400ccクラスとしては大柄な車格。そして、試験車に似た、オーソドックスなアップハンドルとダウンステップというライディングポジション。それは、いつでも試験を意識して乗ることのできる理想的なバイクだったのである。

 結局、試験で見られるのは、基本的な動作ができるか否か、である。だから、中型二輪の免許を取るときに習ったことと、実は全く違うことを求められる訳ではないのである(波状路走行や一本橋の時間など、課題に違いはあるが)。400ccのバイクも、750ccのバイクも、乗り方に違いはないのだ。ただ、より正確にできるようにならなければならない。

 車体が大きく、重くなる、ということは、小手先のゴマカシがきかなくなる、ということを意味する。少しでもバランスを崩せば、重いバイクはすぐに倒れてしまう。軽いバイクならば、力ずくで回復できた。しかし大型バイクではそうはいかないのだ。倒さないためには、バランスを崩さないことだ。そしてバランスの乗り物であるオートバイのバランスを崩さないためには、オートバイという乗り物の特性を理解し、それに見合った操作をすることだ。即ち、「基本に忠実に」、である。

 乗り始めて一年にもならない初心者ライダーであった私なりに、以上のように考えて、実行することにした。自己流やカッコつけは忘れて、自動車学校で習ったことを思い出した。ブレーキやクラッチはしっかりと4本の指で握り、ステップは土踏まずで踏み、両膝で常に車体をはさみこんだ。スラロームのような動きをするときは、ハンドルをこじらずにアクセルワークで車体の傾斜角をコントロールし、ブレーキングにはちゃんと後輪ブレーキも使った。

 無論こんなことは本当に基本中の基本である。だがそれこそが本当に大切だということに、私はすぐに気付かされた。1991年の年末に二十歳になった私は、翌年の春頃に、まずは腕試しとばかりに、試験を受けてみた。結果は不合格。しかし私がショックを受けたのは、クランクの入り口でバイクを倒してしまったことだった。実は私は、コース内での、試験向けの走行に自信があったのである。少なくとも、中型の教習を受けているときから、コース内でバイクを倒したことなど一度もなかった。さらにいえば、クランクやS字には絶対の自信をもっていた。だがよりによってそこで私はすっ転んだのである。

 やはり緊張していたのだろう。だが転倒は転倒、不合格は不合格である。試験だから緊張してしまうのは仕方がないとするならば、やはり、緊張して身体がいつものように動かなくてもなお、乗り馴れない750ccの試験用バイクをコントロールできるぐらいに、基本動作を身体に叩き込まなくてはならないのである。

 私は基本動作を意識しつつ、しかもこれまで以上に長くバイクに乗る、ということを始めた。バカみたいに飛ばしたりせず、落ち着いて、考えながら走った。全ては限定解除試験合格のため、だった。しかし私は、そうした走りのなかであることに気付いたのである。思えばなぜそれまではそのことに考えが至らなかったのか、不思議ではある。つまりそれまでは、ただ走り回ることに夢中になり、あるいは峠道でバカみたいにスピードを上げることばかりに夢中になり、他のことを考える余裕をもたなかった、ということなのだろう。

 それはなにか。私はバイクを手に入れることで、それまでには考えられないような速さで移動できるようになった。そしてまたバイクに乗ることで、夜、という時間を手に入れることができた。夜の街をうろつくことのできる移動手段を手に入れる、ということで、それまでは寝る時間でしかあり得なかった大きな時間を、活動のために使うことができるようになったのである。バイクがもたらしてくれたこのふたつを、私は楽しんでいた訳だ。新しいスピードと、新しい時間。それがバイクだった。

 手に入れた、速度と、時間。私はあるとき、はっと思い至った。速度と、時間。このふたつがそろったとき、必然的にそれは、距離、というものをも手に入れたことになるのだ、と。

 小学校で習う、算数の問題である。算数の不得意な子供であった私にとって、それはなかなか理解が難しい問題であった。しかし二十歳の私は漸く、それを身を以て実感することで、理解したのだった。バイクがあれば、遠くに行ける……それが、答えだった。

 ただそれは、直ちに何らかの形に、現れるということはなかった。バイクで遠くへいく、というとつまりロングツーリング、ということになるのだが、無論、それはすぐにすぐ実行できるような性質のものではないからだ。しかしバイクというものが、「旅の手段」たり得るものだとして、はっきりと意識されたことは大きかった。

 地図を開く。オートバイで、遠くへ……。若者というものは、得てして極端にはしるものである。細長い日本のほぼ真ん中あたりの静岡から、最も遠い場所、といえば、沖縄等の島嶼部を除くなら、北海道と、九州だ。どちらでもよいのだが、やはりバイクツーリングといえば、北海道、であった。

 ふたつ目の、目標ができた。オートバイで、北海道へ。しかも私は、それに「大型バイクで」という条件をつけた。ふたつの目標は、ひとつにまとまった。限定解除をし、大型バイクを買い、それに乗って北海道へ。それにはまず、あの難関を突破することだ。

 「真面目に」乗ることによって、私は上達しようとした。実際にはどうだったのだろうか。ただいえることは、私と愛車Z400GPとの、何というか、親和性とでもいったものが、大いに高まった、ということだ。つまりひらたくいうと、ノレてきたのだ。

 このバイクのあとにも、私は沢山のバイクに乗ることになるのだが、今思い出してみて、自分なりに一番「乗りこなせた」と思えるのは、間違いなくこのZ400GPである。その性能を全て引き出した、とはいえないのだろうけれど、確かなのは、ある種の情緒的な繋がりをすら、私は感じていた、ということである。

 工業製品であるオートバイについて、「情緒的なつながり」とは、おかしな言い方と思われるかもしれない。だが実際、この頃から書き始めた日記など開いてみると、私は愛車について、「今日はなんだか疲れているようだ」とか、「自分は不機嫌なのに、GPは変にご機嫌だ」だとか、そんな書き方を当時の私はしている。今読むと自分でも可笑しくなるが、その後に乗ることになるバイクについては、こういう書き方は一切していないところをみると、やはり、このGPにだけ感じていた、特別な「何か」があったのだろう。

 あるいはそれは、当時の私の所謂「人間への失望」なるものへの反動として生じたものだったのかもしれないが、何にせよ、バイクに乗る技術というものの上達のためには、どうやら結果としてよい方向に作用したようだった。対話するようにバイクに乗ることは、バイク特有の挙動というものを理解することを助けてくれたらしかった。いつのまにか、私は後輪を滑らせながらカーブを曲がることをすらしていた。

 GPでなら何でもできる気がした。当時すでに爛熟期にあったレーサーレプリカモデルのバイクに比べたなら、その限界性能はお話にならないくらい低い、時代遅れなバイクであるGPだったが、バイク歴1年の当時の私には、きっとぴったりなバイクだったのだろう。その実に感覚的な私の「ノレている」感は、やがて、ひとつの形を得るに至った。

 限定解除試験、二度目の挑戦は、またしても課題走行の失敗にによって不合格となった。急制動で、後輪をロックさせたのである。そして三度目。このあたりから、上述の日記に記述があるので、正確な日付がわかる。三度目は、6月16日だった。またしても失敗。しかし課題走行で失敗することはなかった。ひとつ、前進である。

 続く7月3日、限定解除試験4回目。日記によれば、「手応えはあったのに」不合格であった。ここで少々危機感を抱いたことを覚えている。手応えがあった、ということは、つまり、自分としてはよくできたと思った、ということで、それは裏返せば、明確な「不合格の理由」がわからなかった、ということを意味するからだ。これでは、対処のしようがない。

 十回受けても二十回受けても受からない、そんなひとも実際にいたのだが、そういうひとは、大概、この「自分の何が悪いのかわからない」状態におちいり、そして徒らに回数ばかりを重ねてしまう、というパターンが多い、と聞いていた。自分もそんな状態になってしまうのではないかと、それを私は怖れたのだった。

 そうしたドツボにハマることだけは避けたい私は一思案した。スラロームだとかS字だとかいう課題走行は、はっきりと成功か失敗かが自分で判断できる。そして4回目の挑戦のときに、そこでの失敗はなかったはずだ。だとすると、減点されたのは、交差点だとか直線路だとかを走っているときの、安全確認だとかウインカーを出すタイミングだとか、そういった部分であったということだ。よし、では全体的に、もっと丁寧で、確実な走行をしてみよう。

 そして、7月24日、5回目の挑戦。合格はできなくとも、前回より少しでも進歩できればよいと、そんなつもりで私は挑んだ。全体として、その少々控えめな目的は達成できた、と思えた。ただ、坂道発進のとき、少しだけリアブレーキを離すタイミングがずれ、わずかだが車体が後退したように感じた。オートバイは感覚的な乗り物である。車体のわずかな挙動が、ときにはライダーには大きく感じられることがある。実際にバイクが後退したのか、それとも、サスペンションのちょっとした動きを大きく感じたのか、判断の難しいところであった。

 そんなことを考えながら、私は合格発表を待った。私と一緒に試験を受けた三十数人のひとたちと共に、数字の並んだ大きな電光掲示板の前にたった。アナウンスの後、合格者の受験番号だけが光った。合格者はたったの三人。「合格率は一割以下」、いわれていた通りだ。光のともった、たった三つの数字。そのなかに、「111」、私の受験番号があった。

 二十歳の夏。私は限定解除試験に合格した。


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