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『パリの憂愁』


パリの憂愁 (岩波文庫)パリの憂愁 (岩波文庫)
(1966/01)
ボードレール

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芸術と自然 

 先日、ボードレールの『悪の華』のなかの、『旅のいざなひ』という詩をとりあげたが、実はボードレールは、同じ題名でもうひとつ、詩を書いている。散文詩集、『パリの憂愁』に収録されている、散文詩『旅への誘い』がそうだ。ちょっと題名が違うが、これは単に翻訳の違いで、原題は共に、『L'Invitation au Voyage』である。

 この二篇、題名が同じだというばかりではなく、主題も全く同じであり、散文詩のほうは、韻文詩のほうの、詩人自身による、最も的確、かつ最も美しい文章であらわされた解釈であるかのようだ。先日とりあげた、韻文詩のほうのルフランが、散文詩のほうではどう表現されているのか、比較してみるのは面白いと思う。


 韻文
 
  かしこには、たた序次(ととのひ)と 美と、
  榮耀(えいえう)と 靜寂(しじま)と 快樂(けらく)。

 (鈴木信太郎 訳)



 散文

 これこそは真に黄金の国、そこにすべては美しく、富み、静かに、また人々は礼譲に厚い。そこに栄華はととのいのうちに自分の影を映して悦び、そこに、生は吸う一息にもかぐわしく美味である。……
 (福永武彦 訳)


 散文(別訳)

 そこではすべてが美しく、豊かで、物静かで、実直な、真の「桃源郷」。そこでは奢侈(おごり)が秩序(ととのい)のなかに己を映して楽しむ。……
 (阿部良雄 訳)

 
 ただここにこだわっていると、記事の内容がまた同じになってしまうので、今回は別のところに注目したいと思う。


 不思議な国、「芸術」が「自然」にまさるように、すべての国にまさった国、そこに「自然」は夢想によって改造され、また修正され、美化され、鋳直されている。
  (福永 訳)


 ボードレールの美意識の、また別の側面をあらわした部分である。いや、より包括的な表現をした部分、とすべきだろうか。これは、例えば「芸術とは自然の模倣に過ぎない」という考え方とは、真っ向から対立するものだ。

 この一文と、上に掲げた韻文の「かしこには…」とを考え合わせるとき、私にはボードレールが、自然という素材に、「美という秩序」を与えるのは芸術家である、という、並々ならぬ自負を表明しているように読める。無論、彼が、素顔の女よりも化粧して飾り立てた女を好んだ、などというエピソードから、単純にそれを「自然に人間が手を加えたもの」への嗜好だと読むこともできるのだが、「「自然」は夢想によって改造され」云々のくだりなどからは、事はそんなに単純ではないように思われるのである。

 つまり換言するならば、自然というものが美しいとするならばそれは、芸術家つまり人間がそれを美しいものとして表象しているからだ、ということである。スタンダールの所謂「結晶作用」のように、良いと思った対象にどんどん善きものを付加していく、というに留まらず、人間なくして世界は美しくはあり得ない、というところまで彼は考えていたのではないだろうか。

 それは、彼の神秘主義的な世界観とも矛盾しないように思う。神秘主義者とは、神的、超越的なものに対して極めて敬虔でありながら、一方において極めて「傲慢」な一面がある。それはすなわち、その超越者と自分とが、直接交感し得る、と考えている、という部分においてである。それは超越者に対して自分が直接影響を与え得るという確信を抜きにしては得られない考え方だ、という意味で「傲慢」だといえるのであるが、さらに輪をかけてボードレールのように、世界をこのような世界たらしめている存在の前で、その創造行為の一端を、自分も担っていると考えることとは、極めて神秘主義的、というか、度外れて神秘主義的、とでもいいたくなる。

 ただ、彼ボードレールひとりを、というのではなく、もっと大局的に、19世紀から20世紀にかけての文学史、あるいは思想史というような視点から、彼の有り様を俯瞰してみるとき、彼のこうした美意識は、ある種の歴史的必然性をもっているようにもみえる。この点を考え出すとまた非常に混み合ってくるのでここでは詳しく触れられないが、現代文明、あるいは現代文化というものは、本質的に自然を自分の都合のよい形、都合のよい性質に矯正することによって成り立っている、ということを考えれば充分だろう。

 ライナー・マリア・リルケという詩人がいる。リルケを、ボードレールの直接的な後継者だと考えることは難しいかもしれないけれど、次の詩句などは、ボードレールの美意識とその根底において通じるものがあるといえないだろうか。

 
 そうだ、年々の春はおまえを必要としたではないか。あまたの星は
 お前に感じとられることを求めたのだ。
 過去の日の大浪がおまえに寄せてきたでなないか。または、
 開かれた窓のほとりをすぎたとき、
 提琴の音がおまえに身をゆだねてきたではないか。それらすべては委託だったのだ。

 (第一の悲歌)


 ……たぶんわれわれが地上に存在するのは、言うためなのだ。家、橋、泉、門、壷、果樹、窓——と、
 もしくはせいぜい円柱、塔と……。しかし理解せよ、そう言うのは
 物たち自身もけっして自分たちがそうであるとは
 つきつめて思っていなかったそのように言うためなのだ。……

 (第九の悲歌)

 (リルケ 『ドゥイノの悲歌』 手塚富雄訳)



 これほどの自負、これほどの使命感なくしては、詩人として、殊に現代以降の詩人として生きることは、きっと彼らにとって不可能なことだったのだろう。常に自意識の重みに押しつぶされそうな彼らには、「詩人であることの必然性」を自らに確信させ、自らを実際に詩人たらしめるために、これほどの大きな「理由づけ」が必要だったのだ。詩人とは、神々の創造行為の一端、その最後の総仕上げを担うのだ、というほどの大きな「理由づけ」が。

 それを神に対して「傲慢」だというならば、やはり現代人が自然に対して「傲慢」だということなのだ。ただ、神秘主義者には、前述のように極めて敬虔な一面がある。ボードレールは同じ散文詩集の他の箇所では、こうもうたっている。



 自然よ、無慈悲な魔女よ、常に私を打ち負かす競争者よ、放っといてくれ! 私の願望を、私の矜持を、この上誘惑することをやめてくれ! 美の探求とは、芸術家が敗れ去る前に恐怖の叫びを洩らす決闘なのだ。
 (『芸術家の告白誦』)



 芸術は自然に勝る。しかし自然は「常に私を」、すなわち芸術家を「打ち負かす」のである。彼の「傲慢」は、自然の偉大さを知ったうえでのものであった。実際、彼は「人の子」として、不遇のなかで死んでいった。しかし彼の詩は、人の生き得る時間をはるかにこえて、生き続けることとなったのである。


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