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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『方法序説』


方法序説 (岩波文庫)方法序説 (岩波文庫)
(1997/07/16)
デカルト

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疑うこと


いきなりですが、今回の「人生を凌ぐ一行」。


  「「私は考える、それ故に私は有る」というこの真理……」
   (『方法序説』第四部  落合太郎訳)

   
 デカルト、『方法序説』のこの一行。「Cogito,ergo sum」というラテン語の形で有名な、デカルト哲学の標語ともいうべき一語だ。ただ、もともと『方法序説』はフランス語で書かれており、そして他ならぬこの「フランス語で書かれた」ということ自体からして、この書物の歴史的意義を大きく高めている重要な要素なので、本当ならばラテン語表記という「中世的」な表現に「後戻り」させず、原文通りのフランス語で「近代的に」著すべき、ということでフランス語表記するならば、「Je pense,donc je suis」、ということになる。

 日本では、上記の訳文を、さらに標語的に「我思う故に我あり」という形にしたものが広まっている。これまた「口語体」をわざわざ「文語体」的に著した感がある。そしてまた日本語の、とくに文語の「思う(思ふ)」という言葉には、じつに様々な意味だのニュアンスだのが含まれるので、言葉が包括的になる、と同時に多義的で曖昧なものにもなってしまうきらいがある。

 するとどういうことになるのかというと、この「コギト」を拡大解釈し、自分に都合のよい形にして持論の援護に使ってしまうような輩が現れる、なんて事態になったりするのだ。例えば、こんな感じで。



 端的にいってしまうならば、つまりは「Cogito, ergo sum」、あの有名な「我思う、故に我あり」なのだ。本当に、すごい言葉だと思う。それは人間が、地上で唯一、自らを「思う」ことによって自らの存在を証明し得る存在であることの宣言であり、神々だとか、自然だとかいう、太古的支配者に対する凱歌である。

 そう、デカルトは確かに、近代以降の人間というものを、この「コギト」によって正確に位置づけた。人間の精神は、太古的、集合的なものから離れ、自我をみつめ、自我から発し、自我へと還る路を見出し、歩き始めた。

 しかしそれはまた、人間が地上で唯一、自らを「思う」ことによってしか、自身の存在を確かめられない、ひどく孤独な生き物になってしまった事をも同時に意味した。近代における「自我の発見の喜び」は、やがて、肥大化し、しかも寄る辺のない自我、という「現代的病理」となった。



 1600年代のヨーロッパを生きたデカルトの言葉に、なにやらインチキ実存主義みたいな意味をむりやりなすり付けて、現代文学の問題にしてしまう、こんな乱暴を働くのは……スミマセン、私です。なにを隠そう、これはこのブログの過去記事からの抜粋でした(この記事です。「ドストエフスキー 『地下室の手記』 過剰な自意識をごまかす現代的方策」 お暇でしたらどうぞ)。

 ただ、自己弁護させて頂くなら、我々はどうあがいても、デカルト本人には勿論、17世紀のフランス人にもなれないので、21世紀の日本人の立場からしかこの「コギト」に立ち向かう他はない訳で、しかも哲学研究を専門にやっている訳でもないのだから、この「コギト」に限らず過去の古典だの標語だの格言だのについて、自分なりに受け止め、感じ、考えることは決して間違ったことではないし、返ってそうあってこそ過去の偉大な精神の遺産というものを、我々各個が現代を生きるための糧とできるのではないか、と私は考えている。

 しかしだからといって何でもかんでも自分勝手に解釈してしまってよいとも勿論いえない。それでは単に過去の偉人の名を借りて自説を強弁するだけになってしまう。例え完全にそれをすることは不可能だとしても、やはりある言葉の本来もっている意味、というものをできる限り尊重するという態度も、一方において大切だ、とは私も思っている。

 と、いうことで今回の「一行」も、標語的にではなく、もう少し本文の流れに沿った形で考えてみることにする。

 そもそもこの『方法序説』という題名、本来は『かれの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を求めるための方法の序説、なおこの方法の試みなる屈折光学、気象学および幾何学』という長ったらしいものなのだが、これではあまりに長過ぎる、ということで省略したものだ。

 ようするにこの書物には、真理とは何か、みたいなことを語るというよりは、その真理を探究する(即ち哲学をする)ための「方法」とは、いかなるものであるべきか、ということが書かれているのである。だから「我思う」も、その方法論の文脈のなかにおかれた時に、その本来もつ意味といういうものがはっきりしてくるのだと私は思う。

 具体的には、とにかくまずは、最初の一歩から間違えたりしないよう、全く疑う余地のない、確実なものから始めるために、疑わしさを含むものは徹底的に排除してしまおう、ということで、あらゆるものを疑ってみたところ、なんだか全てが疑わしいようだが、その「疑っている自分」だけは、確実に、疑いなく存在しているといえるだろう。なにせその自分の存在がなければ、そもそも「疑う」という行為の主体が失われてしまう訳だから。よし、それでは、この「疑っている私は、存在している」というところから始めてみようじゃないか、というのが、かなり大雑把だが、この本のいわんとしているところである。

 (ここで注意すべきは、デカルトはあくまでも「疑っている、という行為がある以上、その行為者たる私の存在は確実である」ことをいっているのであって、「私が疑っている(我思う)という行為によって、私の存在が存在たらしめられる」とはいっていない、ということである。これは似ているようでまるで違う。後者のような「存在論的な」議論は、デカルトはしていないのである。)

 つまり、この本の主題である「方法」という観点からみるならば、「全てを疑う」という方法から、「懐疑論者らの無法きわまる仮定をことごとく束ねてかかってもこれを揺るがすことのできない」第一原理として、「コギト」を得ることができた、ということである。

 「全てを疑う」ことによって、「懐疑論者」の批判を退けることができる第一原理を得た、とは、何だか矛盾した記述であるようにも一見思われる。だが、このデカルトがここで行った懐疑と、所謂「懐疑論者」の懐疑との違いをみることこそが、この書物のキモ、といえるのだ。

 ただ疑うことばかりを事とし、究極的には「判断の留保」に行き着く他はない、「懐疑のための懐疑」をもてあそぶのがここでの所謂「懐疑論者」だとするならば、デカルトの懐疑は、第一義的には「先入見の排除」のための懐疑であり、目的として「疑い得ない何か」を得んがための懐疑、ということで、「方法的懐疑」と呼ばれるものである。

 私は、第一原理としては無論「我思う故に我あり」でよいと思うが、デカルト哲学を端的にあらわす標語としては、この「方法的懐疑」という言葉こそ相応しいのでは、と思っている。デカルトの、この真に科学的といえる「方法」こそが、彼の哲学をして近代的思考というものの発端たらしめ、さらに現代にもなお彼の哲学を学ぶ価値のあるものたらしめているのだと思うからである。

 つまり、デカルト哲学の現代的意義、ということであるが、この「方法的懐疑」というものこそ、私は、現代を生きる我々に足りない部分であると考える。無批判に信じ込んでしまうか、あるいは感情的感覚的に毛嫌いし、最初から否定するために疑いをその対象に向けるか、そんな態度が目立つように思うのである。

 例えば、原発について。原発推進派は、翻って「原発を止めなければならない理由」について、真剣に考えてみたことがあるのだろうか。逆に反対派は、原発を止めてはならない理由について、考えてみたことがあるのだろうか。即ち、お互いに、自分の考え方や、相手の考え方について、批判的な態度を忘れていないといえるだろうか。例えその考え方が「論理的」だったとしても、その自説の論理性に、もし「感情的に」固執することがあるならば、それは決して批判的態度とはいえないだろう。

 「方法的懐疑」が必要なのは、もしかしたら、特に自分について、なのかもしれない。それは最も難しい事だ、ともいえるが、幸い、デカルトの『方法序説』は、こういう言い方は誤解を招きそうで少しこわいが、決して難解な書物ではない。ラテン語ではなくフランス語で書かれたこの書物は、理性というものは誰にでも平等に分け与えられているものであり、それが正しく導かれたならば誰であれ必ず最も善きものにすることができるのだ、という人間性への限りない信頼を前提に書かれた書物である。つまり、一部のインテリではなく、万人を対象にしている、ということである。だから、現代人たる我々にも、この書物から、多くの、そして大切なことを、学ぶことができるはずなのである。
 

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