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『共産党宣言』


マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)
(1971/01)
マルクスエンゲルス

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働くということ、再考

 「働かざる者食うべからず」。失業保険を受給する生活などをしてみると、こんな言葉がなんだか大きな意味を持ってくる。勿論、失業保険というものは、元来自分が保険料を支払っていたものであり、いざ失業してしまったときにそれを受け取ることに、何等後ろめたさなど感じる必要はないものだ。この点、身体も元気で働けるくせに働きもせず、昼間っからぶらぶらしていたとしても、最近話題の生活保護の不正受給などとは全く性質が違うものなのではあるが、やはり、働いていない、ということには、どうも、腰の落ち着かなさが伴うものだ。

 ただ、この「働かざる者云々」という言葉、聖書の一説が元になった言葉で、それがかの「スターリン憲法」において、「働かない怠け者」をというよりは、「他者の労働を搾取することによって生きる有産階級」を否定する意味においてとりいれられた、ということを聞いたのだが、本当だろうか。

 その真偽はともかくとして、こうして失業者の状態から、再び「労働者」となったこの機会に、スターリンの名前なども出てきたこともあるし、働く、ということを考え直す意味も込めて、この『共産党宣言』などを読み直すのも悪くないな、と思い至った訳だ。 前回の記事にも書いたとおり、とにかく時間がないので、この薄っぺらい本ぐらいしか読めない、という事情もあるが。


 「ヨーロッパに幽霊が出る、共産主義という幽霊である。」


 この有名な一文で始まるこの本は、19世紀から20世紀にかけて世界を席巻し、21世紀となった今なお、その残滓を国家的規模でみることのできる共産主義というひとつのイデオロギーについて、要綱的に簡潔にあらわされた、ある意味では『資本論』以上にこの思想を象徴するような著作であるようにも思える。まあ、私は『資本論』など読んだことはないけれど。

 で、久々に本書を読んでみて思うことは、この本の著者たちは、実際資本主義というものの赤裸々な姿を、それも特にネガティブな部分について、かなり鋭く見抜いていたのだな、というものだ。私が最初にこれを読んだのは、バブル景気の余韻がまだ残り、世の中はその二日酔いにふらついていた頃だったのだが、資本主義の欠点、というものがあらわになってしまった今現在のほうが、この本のもつ慧眼について、何だか身に染みて思い知らされる気もする。

 例えば、こんな箇所。

「生産のたえまない変革、あらゆる社会状態のやむことのない動揺、永遠の不安定と運動は、以前のあらゆる時代とちがうブルジョア時代の特色である。」

「かくも巨大な生産手段や交通手段を魔法で呼び出した近代ブルジョア社会は、自分が呼び出した地下の悪魔をもう使いこなせなくなった魔法使に似ている。」



 あるいは、ここなど。


「労働者は、自分の身を切り売りしなければならないのであるから、他のすべての売りものと同じく一つの商品であり、したがって、一様に競争のあらゆる変転に、市場のあらゆる動揺にさらされている。」

「労働の不快さが増大するにつれて、その割合で、その賃金は減少する。それどころではない、機械装置や分業が進むにつれて、労働時間増加を通してであれ、一定時間に要求される労働の増加や機械の速度の増大等を通してであれ、それだけ労働の量も増加する」

「(労働者は)毎日毎日、機械によって、監督者によって、なかでも製造家たる個々のブルジョア自身によって奴僕化される。この専制は、営利が自分の最後の目的だとあからさまに公言されるようになればなるほど、ますますけちな、ますます意地きたない、ますます腹立たしいものとなる。」



 こんな箇所を読むと、何だか、著者たちの主張する「共産主義」というものの正当性について、ちょっと信じてみたいような気がしてくる。いや実際、かつて「労働者の権利」というものが確立されていなかった頃の労働者たちは、自分たちを「搾取」する資本主義経済社会というものの構造的な欠点を、この本が見事に看破していることに喝采をおくり、そして「共産主義」という名の理想を信じたのだろう。

 そして現在、資本主義はいわば爛熟期を迎えた感があり、それはごく少数の「持つ者」と、絶対多数の「持たざる者」との格差を、どうにもならないほどに押し広げる、という形で、その構造的欠陥をますます露呈しつつある。しかもそれは我が国だけにとどまらず、全世界的な規模で起こっている。少なくとも先進国といわれる国においては、どこも状況は似たり寄ったりといえるだろう。

 それはあるいは、「共産主義」というひとつのイデオロギーにとっては、史上最大のチャンスだ、といえるのかもしれない。かつてソビエト連邦をはじめとする共産主義国が世界中に樹立され、資本主義経済国を震撼させた時代には、共産主義者のみならず、資本主義国家の人々もまた、自らの属する社会に夢をもっていた。だから、共産主義から自国を守ろうという強い力が働いた。しかし今は違う。夢を持ち得るのは資産を持つ者のみ、だとしたならば、誰も将来に希望などもたないだろう。ならば革命をと、そう考えるのは決して不自然なことではない。数年前、『蟹工船』などが突然流行したのも、そんな機運のあらわれのひとつだったのかもしれない。

 だが現実的にみるならば、「共産主義」といわれても、やはり「今更」感は拭えない。それに、何といっても我々にとってそれはイメージがあまりにも悪すぎはしないか。ソ連に北朝鮮、中国共産党。この選択肢は、ちょっと、選ぶ気になれない。

 そしてそうした感覚的嫌悪のみならず、私は、少なくともこの本で主張されている形での「共産主義」は、ソ連や東ヨーロッパの歴史をみるまでもなく、実現不可能な「理想」だと思っている。


「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。」


 これまたこの本を象徴する、有名な一文。これによって著者たちは、自らの思想に歴史的必然性を与え、その正当性を主張しようと試みる。しかし私は、まさにここにこそ、この本の主張の決定的欠陥を見出せると思う。それはどういうことか。


「自由民と奴隷、都市貴族と平民、領主と農奴、ギルドの親方と職人、要するに圧制者と被圧制者は常に対立して、ときには暗々のうちに、ときには公然と、不断の闘争をおこなってきた。この闘争はいつも、全社会の革命的改造をもって終わるか、そうでないときには相闘う階級の共倒れをもって終わった。」


 その階級闘争というものを具体的には、このようにこの本では説明される。確かにその時代時代において、階級間の対立、というものはあっただろう。しかし支配者を打ち倒し、新しい支配者となったのは、あくまでも「新しい支配者」であって、決して旧体制下における被支配者ではなかった。つまりひとつの例をあげるならば、封建領主を打倒して新しい時代の新しい支配者になったのは、農奴ではなくブルジョアだった、ということだ。

 だとしたらば、たとえ今の資本主義経済の体制が打ち倒されたとしても、新しく支配者となるのは、新しい「何者か」であって、所謂「プロレタリア独裁」ということにはならない理屈ではなかろうか。いや、実際ソ連でも中国でも北朝鮮でも、労働者が支配者となった、なんて話は聞いたことがない。新しい、王でも皇帝でもない、得体のしれない独裁者が生まれたばかりだ。

 そう、共産主義の失敗の最大の原因は、最初から最後まで、それが資本主義に対するアンチテーゼとして位置付けられてしまった、ということにあると私は思う。労働者を、資本家の搾取から開放する、という大義名分のためには、そのイデオロギーを「階級闘争の歴史」という文脈のなかにおくことによって、その主張のみならず、「革命」という闘争をも正当化する必要があったのかもしれない。しかし、あらゆるアンチテーゼは、まずもってテーゼが確立されていなければ存立し得ないものだ。つまり、こうした論法では、資本主義がまず一大勢力としてなければ、共産主義の存在理由がなくなってしまうのである。

 それに、あらゆるヒエラルキーとは、常に支配者にとって都合の良いもの、である。だから、プロレタリアがプロレタリアであり続けている以上は、結局、ブルジョアにとって都合のいいもの、であり続ける他はないのである。勿論、中国共産党も、北朝鮮の共産党も、自分がブルジョアだとは口が裂けても言わないだろう。しかしあの金持ち連中は、「株式会社中国」を、あるいは「北朝鮮株式会社」を支配する、ブルジョアに他ならないのではなかろうか。

 そして、私は自分を顧みる。冒頭、「また労働者になった」なんてことを書いたが、こうした意識、すなわち自分はプロレタリアであると疑いもなく自覚する意識こそは、ブルジョアにとって都合のいい働き手として、すっかり資本主義の枠に嵌め込まれてしまっている証拠だといえるのではなかろうか。

 いや、私は共産主義者では全くないが、だからといって資本主義を全肯定する気も毛頭ない。特に、新自由主義的な、競争に勝つことが正義であり、そのなかでもし「ワーキングプア」的な立場に追い込まれたとしてもそれは労働者の「自己責任」だ、などいう、一方的で横暴な言い草を認めようなどとは少しも思わない。しかしその自分が、自らを「労働者」などと呼ぶことによって、現代的ヒエラルキーの身勝手な支配者たちにとって都合のいい存在に、いつのまにやら成り下がっているのだとしたら、これは情けない話である。

 我々にとって、長年「当たり前」であったところの資本主義経済社会というものが、こうしてその限界を露呈しつつある今、われわれは、資本主義でも、そのアンチテーゼである共産主義でもない「第三の道」を、模索すべきであるように私は思う。そしてその道は、まず我々の「働くということ」についての考え方、あるいは、「働く者」としての意識の在り方について、今一度根本から考え直すことによって、その端緒を得られるのではないか、と思っている。

 長くなってしまったので詳しくはここでは書かないが、私は、働く、ということに、雇用契約などというものによってかよらずか、「権利」だとか「義務」だとかの観念が伴うようになってしまったことが、そもそもの間違いであるように思う。働く、ということは、元来、義務でも権利でもない、生活の一部、日々の営みの一部であったはずではなかったかと、そういいたいのだ。

 具体的には、所謂「家事」というもの、掃除洗濯や晩御飯の準備、住まいの手入れや子供の世話など、そうしたものが、我々の本来の「仕事」なのであり、物を売ったりだとか作ったりだとかということは、そうした生活の基調となるものを可能ならしめるためにある、「手段」のひとつにすぎなかったはずである。このことに、我々は立ち返るべきではないか、と私は思うのだ。

 勿論、牧歌的アルカディア的な理想郷に、人類が還れるとは私も思わない。それこそ「今更」な理想論である。しかし、社会の在り方として、経済活動ではなく、人間の生活というものを中心に据えたものは得ることはできると思う。そしてそれは、具体的な方法、というよりは、我々の考え方の変化にこそ、実現への鍵が隠されているものだ、と私は思っている。

 以上、あるプロレタリアが、日々の労働の合間に書きなぐった読書感想でした。


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