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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『共喰い』

文藝春秋 2012年 03月号 [雑誌]文藝春秋 2012年 03月号 [雑誌]
(2012/02/10)
不明

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キワモノか、正統派か

 少し前、芥川賞受賞者の記者会見が話題になった。何やら半ギレ状態の受賞者が、もらっといてやる、みたいなことをいって、選考委員の石原慎太郎都知事に当てつけた、あの会見である。

 私はこの田中慎弥という作家を、他の多くの現代作家と同じく知らなかったのだが、あの会見が話題になったことで知るに至り、今回、こうして文芸春秋などを、普段は買いもしないのに買い求めるにまで至ったのだった。きっと私のようなニワカ読者は少なくないだろうから、出版社としてはあの会見はバンバンザイというところだろう。

 では、田中慎弥という作家自身にとっては、どうだろうか。多くのひとが彼を知ったことで、受賞作であるこの『共喰い』の単行本の売れ行きも多少はよくなったことだろう。しかしそれでもやはり、彼にとってはあの会見はマイナスの意味が強かったのだと思う。

 なぜなら、あれではある種のキワモノ作家として、世間から色眼鏡でみられかねないからだ。今回、この『共喰い』を読み、私は、この作家が本当に実力のある作家だと思った。だからこそ、彼がキワモノとしてみられるとしたらそれは残念なことだと思うのだ。

 私自身、色眼鏡をかけて読みはじめた、といえるのかもしれない。前述のように、私はあくまでもあの記者会見によって、この作家に興味を抱いたのだから。そしてその色眼鏡は、読みはじめてすぐに外すことができたのかといえば、これもまたそうはいかなかった。

 気の滅入るような「川辺」の風景の細かい描写だとか、主人公の両親の設定だとかによって、最初、暴力だとか、性的衝動だとか、秘めたる性癖だとか、露骨な性描写だとかいった所謂「人間の暗黒面」を執拗に描き、ただそれをもって「文学」だというような、そうした類いの作品のように思われたからだ。

 しかし読み進めていく内に、それは「素材」ではあっても「主題」ではないことに気づいた。そしてはじめはちょっとしつこいというか、細かすぎると思われた、風景や細部の描写にも、それぞれ意味があるようだ、ということにも気づくに至り、次第に読み応えというものを感じることができた。

 「川辺」と呼ばれる、ある川の河口近くの岸辺のちいさな街が、物語の舞台だ。時代は、昭和六十三年の七月、とされる。つまり、だいたい作者が物語の主人公と同じ十七歳だった頃、ということになるのだろうが、思い切って時代設定を昭和五十年代だとか、四十年代にしてしまっても悪くなかったように思われる。

 つまり、それは舞台設定のみの問題ではなく、作品全体の印象だとか、表現の手法だとかいう意味でもこの作品は「昭和」的な雰囲気を持っている、ということだ。あるいはそれを「古い」という言葉で言い表すこともできるだろうし、それはそれで間違ってはいないと私も思う。しかし、それはこの小説が「正統派」であることをもまた意味する。

 そう、この作品には伝統的な意味での日本文学らしさがある。奇を衒うことで読者の興味を惹くようなことはないが、それでも読者を先へ先へと引っ張っていく力を、この文章は持っている。

 舞台となる、あまり裕福といえない人びとが暮らす「川辺と呼ばれる街」。逃れ難く押し込められたようなこの小世界の閉塞感を、象徴するかのような、川の描写。流れを失い、すえたような臭いを放つ腐水となって、上流から流れ着いた汚物に満ちて淀むその様は、まさしく、父親の血とともに、この街に逃れる術もなく見通しのない青春を送る主人公の境遇そのままだ。

 そうした舞台をありありと表現し、そしてそこに、ある約束されたような破滅に向けて、様々な細部が、もつれ合い反発し合いながらも収斂していく宿命的な物語を編み上げていく筆力は、かなりのものだと感じられた。確かに少しばかりくどいかな、と思わされる描写もないことはなかった。しかし冗長さを生むところまではいかないし、言葉遊びに酔っているような印象も受けない。逆に、それは文章の密度というか、緊張感を保つ働きをしているように思われた。

 ある選考委員は、その選評に、「歴代受賞作と比べても高い位置を占める小説である、と思われた。」と書いている。私は芥川賞受賞作品というものをほとんど読んだことがないのでなんともいえないが、そうした相対的な評価をせずとも、この作品を、少なからざる時間を割いて読む価値というものは充分にある、と思う。

 という訳で、好奇心から手にしたこの作品ではあったが、思わぬ佳作に出会うことができ、私としては実に有意義な読書となった。とにかくこの密度の濃い文章に私は惹かれた。これ以上に文章に「完璧な表現」というものを求めるとしたら、あるいは「詩」である必要があるのではないか、とさえ思った。

 こうした文章は、文章を書くということ、つまり言葉の芸術であるところの文学的表現、というものへの真摯で誠実な姿勢なくしては、生み出せないものなのだろう。この作家はインタビューによると、手書きで原稿を書き、この作品については三回書き直したそうだ。ただ「商品価値」だけを求めて書かれたような類いのものとは、やはりモノが違うのだ、というべきなのだろう。この作家のものを、他にも読んでみたくなったし、また、この先小説家としてどう進んでいくのか、追ってみたいとも思う。

 そして、あの東京都知事へのあてつけ。あれもまた、文学というものへのこの作家の誠実さがいわせた言葉ではなかっただろうか。少なくとも「書く力」を持っていたはずのかつての芥川賞作家が、文学とは無縁の世界に生きていながら、そのくせ選考委員などをやってる、そうした「不誠実さ」が、彼には許せなかったのではないか。・・・と、私はそう信じたいのだが、実際はどんなものだろうか。

 さらには、芥川賞、というものについても、私は興味を抱かされた。少なくともこういう作品を選ぶことのできる賞であるということを、こうして知ることができたからだ。芥川賞受賞作なるものも、今後読んでみようかな、と思う。とりあえず、この雑誌にはもうひとつの受賞作である、円城塔の『道化師の蝶』も収録されている。これも、読んでみよう。

 ところで、この小説の舞台の中心となる「川」だが、これに近いような川が、私の記憶にもある。私は幼年期を、旧清水市で過ごしたのであるが、その清水市の港である清水港に流れ出る川に、巴川、という川がある。この巴川の、一九七〇年代の様子が、どうもこの小説に出てくる川のイメージと重なるのである。まあ、七〇年代といえば、高度経済成長のツケともいうべき公害が社会問題化した時期であり、どこの川も酷く汚れていたのだろうけれど。

 そしてこの巴川、実はあの『ちびまる子ちゃん』によく出てくる、まさにあの川なのである。『ちびまる子ちゃん』といえば、他ならぬこの一九七〇年代を舞台にしたマンガなのであるが、どうも、作品中の巴川は、かなり美化されて描かれている印象を受ける。ちびまる子ちゃんが住んでいた、すなわち作者であるさくらももこの生家のある街の巴川とは、まさに河口近くの酷く流れの淀んだ辺りであり、『ちびまる子ちゃん』の川よりは、『共喰い』の川に近かった、というのが実際のところであった。

 最後に、ひとつだけ苦言を。この『共喰い』という題、なんだか作品にそぐわないような気がしたのは、私だけだろうか。それこそ、ムリに「キワモノ」であろうとしているかのような印象を得たばかりだ。第一、何が、どう「共喰い」なのか、私にはよくわからなかった。・・・なんで? どなたか、おしえてくれませんか?

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