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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『ライ麦畑でつかまえて』

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)
(1984/05)
J.D.サリンジャー

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理由なき反抗

 このところ、ちっとも読書感想を書いていなかった。このブログは、あくまでも「読書ブログ」なのだが、プラレールだとか何とか、そんなことばっかりだった。いや、本を読んでいない訳ではないんですよ。ただ、その感想を記事にしきれていないだけで。・・・うむ、これではいかん。ここらで、ちょっと気をひきしめよう。

 何度か過去にも書かせていただいたが、私はこれまではほとんど、英米文学を読んでこなかった。で、最近になって、これではいかんと(「いかん」ことばかりだ)読むことにしたのだが、私には、アメリカ文学のなかで、「俺ってこんなのもまだ読んでないんだよな」と思い続けていたものが、三作、あった。勿論、他にもまだ山ほどあるのだが、そのなかでも特にこれは、と自分で思っていたものが三作品ある、ということだ。

 すなわち、フィツジェラルドの『グレート・ギャツビー』、ダニエル・キースの『アルジャーノンに花束を』、そしてこの、サリンジャー、『ライ麦畑でつかまえて』だ。

 『グレート・ギャツビー』と、『アルジャーノン』は、昨年ようやく読み、その感想の記事なども書いてみた。そしてようやく、この『ライ麦』も読むことができた、というところだ。

 ただ、私がこの『ライ麦』を読まなかったことには、実は理由らしきものがあった。まあ、実に下らないというか、馬鹿馬鹿しい理由なのだが、本当にそれが理由なのだから仕方がない。

 この作品は、若者のバイブル的な扱いをよくされるのであるが、まさに、私が主人公と同じ年頃にあり、あるいはこれを自身のバイブルとしてもおかしくはなかったころ、私は、大きな勘違いをしていたのだ。

 この、『ライ麦畑でつかまえて』という邦題、何だか、恋愛小説みたいだとは思われないだろうか。思わないですか。・・・皆さんはどうあれ、若き悩み多き日々にあった私は、この題名だけをみて、すっかり、これは少女趣味の甘ったるい恋愛小説なのだと思い込んでしまっていたのだ。そして、まあこれは読まんでもよかろう、ということにしてしまったのだった。

 そして、この小説が少女趣味の恋愛小説なんかではないことを知ったのは、もう「若者のバイブル」と聞いて飛びつくような、そんな年齢は過ぎた頃だったし、私の『英米文学は読まない病』もかなり進行していたので、もう、ドイツだのフランスだのの文学ばかり読んで、この本になど見向きもしなくなってしまった、という次第だ。

 ちょっと調べてみたら、『危険な年齢』とか、『ライ麦畑の捕手』なんて邦題もあるらしい。どっちがいい、などとは一概にはいえないが、『ライ麦畑でつかまえて』では、やはり、なんだか年若い乙女が、恋人に甘えながら懇願するセリフような、そんなイメージが・・・わかないですかねえ。村上春樹は、そのまま、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』としている。芸が無い、といえなくもないが、少なくとも、私にとってはこちらの方が、おかしな誤解に基づく偏見など抱かずにすんだかもしれない、ということで、ありがたかったのは確かだろう。

 さて、題名のことはこれぐらいにしておこう。読後の印象としては、正直なところ、心にぐっとくるものはあまりなかった。やはり、これはごく若い頃に読んでおくべき本だな、と思った。四十歳の中年男が、共感したとかしないとか、そういうことを論じることができる作品ではないし、そういうことを論じる「べき」作品でもないだろう。

 そう、読み手の理解力の成熟度云々の話ではなく、その主題そのもの、あるいは素材そのものからして、真に「若者向け」であるような文学作品というものはあるもので、これなどはその典型的なものだ、というべきだろう。そしてもし、その年代をとうに過ぎた、私のような読者がこういう作品に触れようというのならば、それ相応の「やりかた」というものはあるのだと思う。

 「常識」をわきまえた「大人」としての立場から、この物語の主人公の行為を非難することは、簡単なことだ。典型的なプチブルの家庭の子どもが、自分の気に入らないことにぶつぶつ不平をいっているばかりの、甘ったれた根性だと断じ、文句ばかりが多くて少しも生産的でない彼の言動を否定することは簡単なことだ。しかし、こういう作品は、そんな読み方をするべきではないのだ。

 確かに、主人公の少年ホールデン・コールフィールドは、極めて「恵まれた」環境にあるといえる。幾つもの学校を追い出されながらも、その度に次の学校へ通わせてもらっており、眼をかけてくれる先生はいるし、親は少なくないお金を持たせてくれる。こうした環境にありながら、大人たちや友人たち、あるいは社会常識のごときものに対して、「インチキ」だのなんだのと文句をいい、勉強もせずにまたしても退学させられておきながら、親にもらったお金でニューヨークの街をぶらぶらすることは、甘えだ、といわれても仕方の無いことだろう。だが、この物語は、そんな「評価」を求めて書かれたものではない、ということもまた確かだろう。

 そう、描かれたのは、とにかく周囲の「インチキ」が眼について仕方がない、あの多感な時期の若者の姿そのものなのであって、作者はなにも、この作品において何かの思想だの意見だのを主張しようとしている訳ではないのだ。だから、もし主人公のホールデン少年に「共感」できる読者がいたとしたならば、もう、彼と同年代の若者たち以外にあり得ない、といってしまってよいのではないかと思う。

 いつだったか、村上龍の『69』という本についての記事にも書かせていただいたが、こうした若者の反抗心というもの、すなわちあの自らの「甘え」のことなどまるっきり棚にあげた上での「理由なき反抗」に、あれこれと「論拠」だとか「動機」だとか「必然性」だとかを無理矢理ひねり出して擦りつける必要など全くないのだ。

 赤ちゃんは泣くのが仕事だ、という。それは赤ちゃんの、情緒の発達だとか、心肺機能の発育だとかのために重要な意味をもつからだ。これとほとんど同じ意味で、思春期にある若者は「反抗することが仕事」だといえるのである。へんな理屈をくっつけて正当化するまでもなく、もう「反抗」するという行為そのものが、すでに正当性をもっているのだ。

 その「反抗」のあらわれかたは、勿論様々だろう。バイクだの、ギターだのをもってそれをなす若者もいれば、文学や哲学に何かを見出していく者もあるだろう。ただ、そうした具体的な何かではない、若者たち皆の胸に疼く、共通した何ものかを、きっと、この『ライ麦』はもっているのである。だからこそ、時代を超えて「若者たちのバイブル」であり続けているのだと思う。

 だから、我々「大人」が、このホールデン少年ひとりを捕まえて、そのいちいちの行動に、「大人の価値観」から難癖をつけることほど、ナンセンスで愚かしいことはないだろう。この作品の是非を論じる資格を持つのは、若者たちだけなのだ。

 しかし、我々が、実際に一人の若者の「反抗」に出会ったとしたならば、どうするべきだろうか。泣く赤ん坊を無理に泣き止ませるべきでないように、「反抗」する若者は、その「行為の正当性」故に、とがめるべきではないのだろうか。

 否だ、と私は思う。彼らの「反抗」は、他ならぬ、我々「大人」に向けられているのだからだ。我々としては、「一般常識」だとか、「社会通念」だとかをわきまえた「インチキ」な「大人」として、真っ向から若者に立ちはだかるべきだ。

 そうあってこそ、若者の「反抗」は、真に「反抗」たり得るのではないだろうか。無論我々にも「若者」だった過去があり、彼らの反発心を理解できない訳ではない。しかし、訳知り顔で変に若者に取り入るような態度が、彼らの「仕事」を全うさせることにつながるのかといえば、そんなことはないだろう。

 我々自身がかつて、大人たちに「反抗」し、ある部分では大人たちに打ち負かされ、ある部分では意地をはり通した、それと同じように、新しい世代の若者たちもまた、我々と対決すべきなのである。そうあってこそ、彼らから吹く風は、我々の淀んだ空気を押し流す力を得ることができるのだと思う。そしてさらにいってしまうならば、現代社会のこのどうにも拭い難い閉塞感は、実はこの世代間の対決がきちんとなされていないせいではないか、とすら私は思う。

 などといってはみたものの、いざ、自分の子どもたちが第二次反抗期にはいったとき、さて私は、父親としての役割をきちんと果たすことができるのだろうか。現在「魔の二歳児」といわれる第一次反抗期にある娘にさえ、あたふたと手をやいている私が・・・ああ、不安だ。

 ただこの『ライ麦』は、子どもたちには「相応しい年齢」に読ませてやりたい。これに共感するにせよしないにせよ、この本を読まずに大人になってしまうことは、やはりひとつの損失だと、馬鹿みたいな思い込みによって読みそびれてしまった私は思うからだ。まあ、その頃になったら、書棚の眼につくところに置いておくとしよう。

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