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乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『狼王ロボ』

狼王ロボ シートン動物記 (シートン動物記) (集英社文庫)狼王ロボ シートン動物記 (シートン動物記) (集英社文庫)
(2008/06/26)
アーネスト・T・シートン

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自然保護と美意識

 子どもの頃、家の居間の本棚に、『シートン動物記』がシリーズでひと揃い、並んでいた。確か、『ファーブル昆虫記』も何冊かあったと思う。当時すでにとても古い本だったので、たくさんいる歳上の従兄弟たちの誰かの所からまわってきた本だと思うが、私は『ファーブル』よりも『シートン』が好きだった。そしてその中でも印象深かったのが、『オオカミ王ロボ』と、『灰色グマの一生』だった。

 先日、全く別の本を買いに本屋に行き、そこでたまたま、この『狼王ロボ』の文庫本をみつけたときには、思わずひとりでにっこりしてしまった。たまらなく懐かしかったのだ。手に取り、ページを開いてみれば、なんと『灰色グマの伝記』の文字。間違いなく、あの幼いころの愛読の二編だ。探していた本はみつからなかったが、この本だけ買って、満足して帰宅した。そして早速読み始めた。

 小学校4年生か、5年生の頃だったと思う。私は夏休みの宿題の読書感想文の題材に、『オオカミ王ロボ』を選んだことがあった。何度も読んだことのある本だから、感想文を書くのも楽だろう、という計算だ。そして実際楽チンだったのだが、楽チンすぎて、私はちょっと子どもらしからぬことまでやってしまった。

 効果、を狙ったのである。まずは、こういう本を読んだならば、普通の子どもならばどういう感想文を書くかな、と考えた。主人公のロボという名のオオカミは、最後には人間に捕まって死んでしまう。まあ、普通なら、この強く賢いオオカミの王に同情し、かわいそうだとかなんとか、そういうことを書くのだろう、と私は思い、ならばと、徹底的に主人公をこき下ろすことにしたのだ。

 「人間が大切にしている家畜を殺し回るような、そんな悪いオオカミは殺されて当然だ」、というようなことを、私は延々と書き連ねた。その実、本心ではあの強くたくましいオオカミ王に、限りない愛着を抱いているのだ。なにせロボは、愛読書の主人公なのだから。読者の反応を考えつつ文章を書いたのは、私にとってはこれが最初のことだった。まあ、残念ながら、担任の先生には特に目立った反応はみられず、狙った「効果」は得られなかったのではあるが。

 しかし今回、改めてこの『狼王ロボ』を読んでみて、著者シートンの「立ち位置」の微妙さについて、気付かされた。「オオカミがかわいそうだ」だとか、「オオカミなんか殺してしまえ」だとか、いかにも小学生が考えつきそうな、そんな単純で一面的な価値観ではそれは捉えられないものだったのだ。

 それはあるいは、時代背景、というものの影響も強くあるのかもしれない。『ロボ』は、1890年代のシートンの実体験を元に書かれた、とある。100年前の、人間と「自然」との関係は、確かに、現代のそれとは違っていたのだということだ。

 端的にいってしまうならば、それは、自然というものが、今よりも我々人類にとって直接的な「脅威」である度合いが高かった、ということだ。19世紀末、すでに「人類」対「自然」の勢力争いの大勢は決していただろうけれども、まだ、少なくとも北アメリカ大陸の原野では、「自然」の抵抗は充分に「人類」の命だとか財産だとかを脅かす力を持っていた。

 狼たちは人間の家畜を襲い、殺戮を欲しいままにするが、しかし、人間はそれに対して手も足もでない、という状況が現実としてそこにあったこと、あるいはまた、巨大で気性の荒い危険な熊がある広大な地域を支配し、そこに立ち入れば、ほかの熊のみならず人間でさえもが殺されてしまう、という状況さえも、現実としてそこにあったということが、シートンのこの著作から知ることができる。ハンターたちが総力を挙げて、捕らえ、殺すつもりで動物たちに挑みながら、敗北してしまうのだ。

 そこでの争いは、つまり対等で、双方にとって命がけのものだった。そういう状況においては、例えばシートンが狼狩りの専門家として全力を尽くし、その上でロボという狼を生け捕りにし、死に至らしめたことを、「オオカミがかわいそうだ」というような感情論、というより感傷的な同情心によって責めるのは、全く的外れなことだといえるだろう。

 要するに、現代的な意味における「動物愛護」だとか、「自然環境保護」だとかの精神を、そのまま、19世紀末のアメリカに当て嵌めるべきではない、ということだ。当時の人びとが、少なくとも我々よりは、自然というものを危険視する正当な理由をもっていたことを忘れ、一方的に我々の価値観を押しつけるのは、公平性に欠けるというものだ。ただしかし、シートンが、狼王ロボを捕らえ、殺してしまったことに、後ろめたさを感じていること、これも確かだ。

 ブランカという美しい雌狼が、ロボの妻であることを見抜き、まずはそのブランカを捕らえることによって、頭がよく用心深く、どんな罠にもかからなかったロボを狂わせ、罠におびきよせることは、勿論、プロの狼ハンターであるのシートンとしては、その優秀さを証明することではあり得るだろうが、しかし、何も後ろめたさなど感じるべきことではないだろう。

 だがシートンは、荒野の王者たるロボの気高さの前に、自身の取った手段の「卑劣さ」を恥じる。無論文面にそれを直接的にあらわしている訳ではないが、しかしそれは一読すれば明らかなことだ。

 「力を奪われたライオンや、自由を奪われたワシ、連れ合いを失ったハトなどは、すべて傷心のあまり死ぬという。ロボの身には、今やこの三重の苦しみが同時に襲いかかったのだ。いかに頑強なロボといえども、この三重苦を一身に受けて、それに耐えきれるものであろうか?」

 ここでシートンが感じている後ろめたさとは、つまり「文明という圧倒的な力によって動物を屈服させたこと」に対するものではなく、相手の気高さに比して、自身の取った手段のあまりにも卑劣であったことに対するものなのだ。この違いは重大だと私は思った。なぜならそこで問題とされているのは、「倫理」ではなく、「美意識」であるからだ。ロボが可哀想だとはシートンは感じない。自分のやり方は汚いやり方だったと感じているのだ。

 このあたりのことは、むしろ、併録されている『サンドヒルの雄ジカ』のほうに明らかだといえるかもしれない。この物語の主人公は若きハンターであり、ある大きく立派な雄ジカを狩ることに夢中になり、何年もかけてその獲物を追うことによって、様々な経験を重ねて優秀な狩人として成長していく。

 はじめ、若き狩人はちっとも獲物に近づけない。賢い雄ジカは追っ手をあざ笑うように逃げていく。しかし狩人はその終わりのないような追跡の内に多くを学び、そして最終的に、雄ジカを追いつめ、自分の射程に獲物を捉えるのだが、彼は、雄ジカに向けられ、あとは引き金を引くばかりの銃をおろすのだった。

 「ああ、何という美しい動物だろう!(中略)ぼくらは長い間、狩るものと狩られるものとして敵対しあってきた。しかし今、その関係は変ったのだ。ぼくらはこうして今仲間として、顔を合わせて立っている。お互いに言葉は通じないが、心や感情はわかりあえる。」

 彼のこうした感動を、単なる感傷だと笑うのは簡単だ。しかし、我々現代人が、絶滅危惧種などといわれる動物たちに対して抱く憐憫の情と、それを根拠に展開される自然保護の主張などと比較したなら、さて、いったいどちらがセンチメンタルだというべきだろうか。

 相手を目の当たりにし、その美しさ故に、あるいはその気高さの故に相手を殺すことを思いとどまるということ。「かわいそう」だとか、「残酷だから」だとか、「守ってやらなければ」だとかいった、「倫理的」な動機とくらべて、この「美意識」の力強さといったらどうだろう。より動物たちを、自然というものを愛させ、それを破壊することを思いとどまらせるのは、どちらだろうか。「同情」だろうか、「敬意」だろうか。もし後者だというのならば、「美意識」こそはその源泉たるべきだとはいえないだろうか。

 なぜならそれは同時に、自然の「危険な」側面、即ち、家畜を殺すオオカミや、縄張りへの侵入者とあらば人間でも殺してしまう灰色グマなどとしての自然に対しても、ある「敬意」をもって相対することを意味するからだ。例え相手を殺すことになったとしてもなお、その「敬意」は失われることはないだろう。彼らは常に「美しい」のだから。

 こうした意味では、シートンの価値基準というものは、多分に「19世紀的」だといえるのかもしれない。しかし、とかく「優越者」としての自然保護を、即ち、自らを「保護者」としての立場おいて、そこから主張される自然保護をばかり訴えようとする我々に、自然と向き合うための別の視点の存在を、彼の著作は教えてくれているのは確かだろう。彼に賛同するのか否かは別としても、だ。

 子どもころの愛読書との再会は、私にとって、思いのほか色々と考えさせられるものとなったが、しかしその根底には、著者シートンの、動物たちへの限りない愛情があることは確かであり、そしてその愛情は、文面に隠れなくにじみ出ている。そして、印象的な言葉。

 「これこそわが生涯の最良の日々。そして今こそわが生涯の黄金時代だ。」『サンドヒルの雄ジカ』)

 たとえ一時の思い込みであってもいい、心の底からこんな言葉が溢れ出るような、そんな瞬間を味わえたならと、私は「感傷的に」そんなことを思った。

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