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『アルジャーノンに花束を』

アルジャーノンに花束を (1978年) (海外SFノヴェルズ)アルジャーノンに花束を (1978年) (海外SFノヴェルズ)
(1978/07)
ダニエル・キイス

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活字のロールシャッハ・テスト

 初めて、読んだ。著者ダニエル・キイスは、SF作家ということになっており、故にその著作であるところの本書も、SFと分類されている、らしい。よって私が今回、古本屋の100円コーナー(またか! ということなかれ)で買ってきて読んだ版も、早川書房の「海外SFのヴェルズ」というシリーズのうちの一冊、ということになっている。

 ただ、普段SF小説なるものを読み馴れない私にとっては、SF、といえばそれはスターウォーズだとか猿の惑星だとかのことなので、これをSF、といわれてしまうことには少なからぬ違和感を覚える。

 無論、現代医学においてもなお、知的障害をもつひとへの外科的手術によって、その障害を取り除くことなどは不可能なのであり、そうした意味ではこの小説を「空想科学小説」に分類することは間違ってはいないだろう。しかしスターファイターやライトセーバーと較べてしまうならば充分に「現実的」であり、そればかりか、敵将と恋におちるシラーのジャンヌ・ダルクと較べてもなお「現実的」だということで、一般的な所謂「純文学」において許される「虚構」の範疇を超えるものでもない、と私には思われるのだ。

 しかし、SFだから、とか、SFではないから、とかいうことは本来どうでもいいことである。その作品の持つ価値というものを見損ないさえしなければよいのであって、ジャンル分けなどは、そうした観点からはかえって邪魔にすらなり得るものでしかないだろう。

 だから、特に所謂「純文学嗜好」の私のような人間にとっては、この作品のような「SF」を読むことは良いことだといえるだろう。SFである、という理由だけである作品を読もうとしなかったとするならば、それは自身に不利益をしかあたえない愚かしい行為だとということを、充分に知ることができる、そんな作品であるからだ。

 33歳にして幼児並みの知能しかもたないチャーリィ・ゴードンが、ネズミのアルジャーノンと共にある手術を受け、天才的な知能を持つに至るが、やがてまずアルジャーノンに、そしてチャーリィにも変調が現れ、アルジャーノンは死に、チャーリィは元通りの「知的障害者」に戻ってしまう、というこの有名な物語。物語自体は単純だ。しかし、それを読み、解釈することは、そう単純にはいかないように、私には思われた。

 冒頭、まず、プラトンの引用から始まるのだが、そこからして私は迷わされた。それは、『国家』の第七巻からの、つまり有名な「洞窟の比喩」のあたりからの引用なのだが、さて著者は、この「洞窟の比喩」を、何らかの形で読者の念頭におくことを目的にこれを冒頭に掲げたのだろうか。それとも、単純にこの引用文の文字通りの意味だけを考えて、これをここに置いたのだろうか。

 というのは、この文章、読んでみたならばすぐにわかることだが、「洞窟の比喩」そのものを語っている部分ではないからだ。「洞窟の比喩」は『国家』の514A辺りで語られるのだが、引用されているのは、同じ章ではあるが、その少し後の518A辺りの部分だ。

 もし著者が、まさに「洞窟の比喩」を思い出させようとして、それの語られている章の内の、本書の内容に最も相応しい部分をえらんで、それを掲げたのだとしたなら、著者は、他ならぬ「知る者と、知らない者との対比」を描いたことになる。「洞窟の比喩」とは、ざっくりいうならば、勿論イデアの何たるかを語るものでもあるが、同時に、イデアの何たるかを知る者と、知らない者との違いをあらわしたものでもあるのだからだ。

 そしてそういう観点からこの『アルジャーノン』を読み解くことは可能だろう。「人の世」というものを、「知らない者」であったチャーリィが、手術によって「知る者」となり、そしてまたもとの「洞窟」へと帰っていく物語であるのだから。

 しかし単に引用文だけをみると、事情は異なってくる。そこで語られるのは、同じく眼がくらんでまごついている人が笑われるにしても、闇からきて光の中でまごついているのか、光からきて闇の中でまごついているのかでは、笑われ方が「違う」だろう、ということだからだ。

 それがどう違うのか、あるいは、そのどちらが「哀れ」であるのかは、問題ではない。この場合問題なのは、そのどちらがまだしも「良い状態」であるのか、という「判断」が働いている、ということだ。

 無論、著者が「洞窟の比喩」そのものではなく、あえてこの部分を引用しているからには、この文章のもつ意味をもって全てとすることの方が自然な見方だといえるのだけれど、しかし、著者は少なくとも本文中では、知的障害者である状態と、桁外れの天才である状態と、そのどちらが「良い状態」であるか、などという「判断」はしていない。むしろ淡々と、その知能の極端な変動に、そして「知る者」としての自分と「知らない者」としての自分という強烈な対比に振り回されるチャーリィを、客観的な視点から描くことに徹しているように感じられる。

 私としてはこんな具合に、ここでいきなり躓いてしまうのだが、さらにまたその著者の「判断の保留」が、この物語に多面性を、あるいは多義性を与えているようだ。そう、私にはこの物語に、あまりにもたくさんの側面がみえてしまい、何だかちょっと混乱してしまっているのだ。

 この物語によって、著者ダニエル・キイスは、一体なにをいおうとしたのだろうか。例えば、このチャーリィ・ゴードンというひとつの特異な現象を眼の前にした、その周囲の人びとの反応を、主に描きたかったのだ、という見方もまた可能だろう。

 実際、知的障害者チャーリィが働いていたパン屋の同僚たちの反応などは、非常に興味深い。からかい、嘲笑する相手でしかなかったチャーリィが、自分たちよりも「おえらいさんの、物知りの、利口もの」になったとき、彼らは、今度は自分たちが馬鹿にされていると感じ、チャーリィを追い出してしまうのだが、やがてまたチャーリィが元の障害者に戻ったとき、今度は彼を暖かく迎え、彼を嘲るものから彼を守ろうとする。こうした「身勝手」に、我々は自らを顧みてやはり考えさせられることは少なくないだろう。

 さらには、チャーリィを実験台にした大学の教授たちの反応なども面白いが、やはりなんといっても注目に値するのは、チャーリィの家族たちだろう。幼い頃のチャーリィの知的障害を、あるがままに受け入れようとした父親と、あくまでも「普通の子」として育てようとした母親。さて、そのどちらが「正しかった」といえるのだろうか。

 チャーリィの記憶の中での描写では、父親だけが、彼を受け入れてくれていたように感じられ、母親の彼への仕打ちは、妹ノーマのことも含めて許し難いように思われる。しかし、天才となったチャーリィと再会したときの、家族のそれぞれの反応を思うと、事はそう簡単には判断できない。

 息子を息子と見分けることすらできなかった父親に対し、少々気がふれていながらも息子を息子として受け入れた母親と、諸手を上げて兄との再会と兄の「回復」を喜んだ妹。幼きチャーリィとの接し方は、父親のほうが優しかったかもしれない。しかし、本当にチャーリィのことを強く想っていたのはどちらだったのか、私はそれを考えずにはいられない。知的障害者とどう接するべきなのか、ここにはそういった根本的な問題が含まれている。あるいは父親も母親も、どちらも「正しかった」とはいえないのかもしれない。

 また、思い切って主人公をアルジャーノンとみてしまうこともまた可能なのではないだろうか。チャーリィと同じ手術を受け、高い知能を得たネズミのアルジャーノン。しかし彼は結局、学者たちの実験材料でしかない。チャーリィの物語は、ただ、このアルジャーノンのような実験動物たちの「心」を、象徴的に代弁するものに過ぎないのではないかと、私はそんなことも思った。

 勿論、物語というもの、特に優れた物語というものは、いつでも多面的で、多義的ものだが、この『アルジャーノン』には特にその要素が強く感じられた。いっていれば、この物語そのものがひとつの「ロールシャッハ・テスト」であり、ここに語られる様々な事象、特に知的障害者のような「弱者」との接し方について、我々は問われ、試されるのではないだろうか。チャーリィが求めた如く、「彼ら」を「人間として」扱うということがどういうことなのか、端的にいうならばやはり問題はここに落ち着くのだろうけれど。

 しかし何にせよ、この、ただ物語だけを提示し、多くの問題を含んでいるに関わらずはっきりとした判断を示さない著者の態度が、この物語の魅力を増していることは確かだろう。いや、実は著者は、本当にただ興味深い物語を提供しただけなのであって、よくいわれるように「最後の二行で涙を流す」ような読み方こそが、「正しい解釈」の仕方なのかもしれないのだが。

 余談だが、主人公チャーリィと深く関わることとなる二人の女性、すなわちアリスとフェイに、私は、村上春樹に出てくる女性像を思い出した。特にフェイなどは、そのまま『ノルウェイの森』に出てきても不思議でないような気がした。こんなことはとっくにどこかで指摘されていることかもしれないけれど。

 ともあれ、SFで、ベストセラーだということで、実はあまり期待しないで読みはじめたのだったが、なかなか手応えのある読書となった。これが100円とはお買い得、というところだ。これまでほとんど読んでこなかったアメリカ文学だが、なるほど、やはりなんだかんだいってもアメリカという国はすごい国だなと、そんなことも思った一冊ではあった。

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