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『かもめのジョナサン 完成版』

 

かもめのジョナサン完成版かもめのジョナサン完成版
(2014/06/30)
リチャード バック、ラッセル マンソン 他

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 物語の重心


 去年一年間、このブログをいわば「サボっていた」私だが、その間、本も読んでいなかったのか、というと、そうでもない。たくさん読んだ訳ではないが、何冊かは読んだ。そしてその内の幾つかについては、記事を書こうとはしたし、またその内の幾つかについては、実際記事を書き始めてもみた。

 結果的には、無論、すべて途中で投げ出してしまったのであるが、その未完の記事のなかに、『かもめのジョナサン』があった。これについては以前にも記事を書いたことがあったのだが、私の今の境遇と照らし合わせて、少々思うところがあって読み返したのだった。ざっくりいうと、「自由」について少し考えてみたかったのだ。しかし、他ならぬその「自由」な時間の絶対的な不足のために、数行書いたところで頓挫、結局それきりになってしまった。

 ところが最近になって、この物語についてのある注目すべきニュースにたまたま接した。三章からなる『かもめのジョナサン』であるが、実は未発表の「第四章」があり、それを追加した「完成版」が、最初の版の1970年の出版から43年がたった昨年2013年になって発表され、その日本語訳もまた、出版される、というものだった。

 発売日、近所の本屋さんに行ってはみたものの、置いていない。田舎町の本屋とはいえ、それなりの売り場面積のある店だったのに、こんな有名な作品の新版を置いていない、ということは、つまり売れる見込みがない、ということで仕入れなかったということだろう。

 これが現代日本の文化というものの現実なのだなあ、などとひとりで情けない思いなどしつつ、中心街のもっと大きな本屋に行くのも面倒なので、Amazonで注文した。これまた日本の文化の現状をあらわしている。消費者が本屋を利用しなくなったので、本屋としても、あんまり売れそうもない本など仕入れる余裕がなくなった、ということだ。その結果、我々消費者が本屋でぶらぶらと本を物色する楽しみがどんどん失われていく。なぜなら、店頭には誰もが知っている、売れるのが確実な話題の本ばかりが並ぶようになるからだ。それがどれほど我々にとって不利益なことか、よく読書をするひとにはすぐに理解できることだろう。

 話がそれた。『ジョナサン』である。正直、心配ではあった。少なくとも、尻切れトンボな感じは少しもなく、きっちりと完結していたのが『旧版』である。それに後から一章加えるとなると、物語の全体のバランスが崩れてしまうのではないだろうか。殊に、簡潔さがひとつの特徴であり、魅力であり、生命線である、『ジョナサン』のような作品においては。

 もしこの『完成版』が、一章を加えることで、40年前のベストセラーに新たな「商品価値」を与えようとの意図のもとに生み出されたものであったならば、それは最悪の事態である。無理な改変は必ず作品のバランスを破壊する。『旧版』が傑作であったならばなおさらである。文学は論理式ではなく、一個の有機物なのだからである。

 だが私のそんな心配は、まさしく杞憂というものだった。「全四章」が本来の形であり、この『完成版』はその本来の形に戻しただけだ、と考えれば当然なのではあるが、通読してみて、全く不自然なこともなく一個の作品として存立し得ていることはすぐに知れた。だがだとすると、おかしいのは『旧版』のほう、ということになる。最後の一章を欠いた『旧版』が、どうして、物足りなさも感じさせることなく、あれほどの「傑作」として完成し得ていたのだろうか。

 その理由を、今の段階で私ははっきりと指し示すことはできないけれど、新旧のふたつの版の間には、一体どんな違いがあるのか、それを考えてみることはできそうである。両者の違い。本当に、単に第四章の有無だけが両者を分けるのだけれど、これによって、物語のもつ性質に、きわめて大きな、そして興味深い変化が生まれていると、私は思った。

 『旧版』については、私は一度記事を書いている。そこではジョナサンをツァラトストラになぞらえてみたりもしたのだったが、ようするにそれは、ジョナサンという一羽のカモメの、自己実現、あるいは自己超克のための、求道的な物語であった。

 それはあくまでも「ジョナサンの物語」であり、彼が、第一、二章において自分が学び得たことを、第三章で若いカモメたちに教え、フレッチャーという、新たな教師たり得るいわば自分の後継者を見出し、生徒たちの前から姿を消したところで、物語は幕を閉じる。三人称で書かれた物語ではあるけれど、視点は終始ジョナサンにあり、彼から物語が離れるときが、物語の終わりであることはごく自然だし、必然である。

 だが、それに続く第四章は、「ジョナサン以後」の、カモメの群れの物語、ジョナサンの教えの受容の物語である。つまり、ジョナサン抜きで、ただ彼の「影響」だけが残る舞台で、物語が進行するのだ。この第四章という、いわば「異質」な章。この章が加わったことによって、最も大きな影響を受けたのは、私は、実は第三章である、と思った。無論その後に一章加わったからといって、第三章の内容自体に変化が生まれる訳ではない。しかし、第三章が、物語全体の内にもつ「意味合い」が変ったのだ。

 第四章が「異質」だと私は書いた。しかし実は、「旧版」においては第三章こそが、第四章と同じ意味で「異質」であった。最初の二章は、あくまでもジョナサン自身の物語である。ジョナサンの、変化と成長の物語である。しかし第三章では、最早彼は変化も成長もしない。彼が、他者に変化や成長を促す立場になる。物語は、もうすでにジョナサン「だけ」のものではなくなっているのだ。

 だが「旧版」は、全体的にはあくまでも「ジョナサンの物語」だ。第三章という「ジョナサンと他者との物語」も、やはり「ジョナサンの物語」のなかで、ジョナサンが経験するひとつの出来事だと感じられる。物語も、そしてそれを追う読者の視点も、ジョナサンと共にあり続ける。しかし第四章という、ジョナサンが抽象化された上での「他者たちの物語」が加えられることで、第三章が、「他者との物語」としての性格を強めるのである。そして結論をいってしまうならば、それによって、作品全体が「ジョナサンと他者との物語」へと変質している。

 単純に、力学的に考えてみるのもこの場合面白いかもしれない。「旧版」においては、純粋な「ジョナサンの物語」としての第一、二章が、全体の三分の二をしめることによって、「他者との物語」であるところの第三章をも巻き込んで、全体を「ジョナサンの物語」たらしめていた。しかし「完成版」においては、ほぼ純粋に「他者の物語」であるところの第四章が加わることで、こんどはこちらが第三章を巻き込んで、全体を「ジョナサンと他者との物語」、つまり後半の性質のほうへと大きく傾けさせる結果を生んでいる。「他者」と関わる章の「分量」が増すことで、そちらのほうに物語の重心が移動しているのだ。

 勿論これによって、物語の主題が変わる訳ではない。全体が謂わんとしていることは新旧ともに同じである。だがその表現方法が変わることで、当然、読者が受ける印象は変化することになる。私にはそれは、読者である私と物語との、距離感の変化として感じられた。

 「ジョナサンの主観」という視点で、物語が進行する「旧版」は、読者もやはり主観的に読む。自分をジョナサンになぞらえて、あるいは、自分にとってジョナサンとはいかなる意味をもつのか、そんなことを考えながら。この風変わりな物語が、自分にとっていかなるものなのか、読者の興味は多様ではあっても、畢竟そこに収斂するのではあるまいか。

 しかし「完成版」には他者が関わってくる。これによって我々の視点もまた客観的な方向にシフトする。ジョナサンのような存在が、ある共同体のなかに現れたとき、その共同体はどのように反応するのか。こうした新たな視点が生まれる。そのとき、ジョナサンとは最早読者にとっては客体である。

 「旧版」においても無論、ジョナサンは群れのカモメたちとの摩擦に出会っていた。しかしそこで問題にされたのは、「他者の抵抗にあったときのジョナサンの行動」であった。「完成版」では違う。「ジョンサンのような「天才的」な存在と出会ったとき、普通のカモメたちの集団である群れ社会はいかなる反応を示すのか」、それが問題となる。上述の新しい視点とはこういうことだ。

 物語の主題は変わらない。だがその重心が変わり、視点が変わったことで、その物語を感受する読者たる我々にとって、この物語が意味するものが変化した、と、それが私の「完成版」の読後感である。新旧どちらがよいのか、それを決めることはできないし、多分、それを考えることに大した意味はないだろう。ただ、それぞれにはそれぞれの、役割、のごときものはあるのではなかろうか。

 私は、若い読者がはじめてこの『ジョンサン』を読もうというのであれば、迷いなく「旧版」のほうをお勧めする。若いひとには、周囲との関係もさることながら、まずは自己形成が大切だと思うからだ。ならば『ジョナサン』は「主観的」に読まれるべきだろう。ジョナサンのいう「飛ぶこと」とはいったいどういうことなのか、若者はまずそれを想うべきだからだ。

 しかしその若者も、やがて社会に出て他者と関わらずにはいられない。多数者の内にあって、そこで生きるということとは、クサいいいかたではあるが、自分の思想が試されることである。それまではただ自分のなかでのみ、想い悩み、育んで来たもの。その結論であるところの自分という人格が、いよいよ実社会において試験されるのである。それまでの自分には考えもつかなかったような高邁な精神や、根深く揺るがし難いような旧習。自分と対立する正義、あきれるほどの不条理。そうしたものと出会い、勉強部屋で生まれた自分の思想を、人生を生きるための支柱たるに耐え得る、本物の哲学へと鍛えあげていくのである。

 そんな段階にあるときには、私はこの「完成版」を読むべきだと思う。何やらエラそうなことを書いたが、私もまだまだ、勉強部屋の思想から抜けきっていない。近頃ではとくにそれを思い知らされる。そんな私には、この「完成版」はぴったりであった。日々の生活の煩雑さに翻弄される我々とは、つまりは「群れのカモメ」である。そんな我々が、再びあの「ジョナサン」をみつめようとするならば、その視点はまさに、この「完成版」と共にあるのではなかろうか。

 いろいろ書いたが、結局今回は、物語の「構成」のことだけで終わってしまった。冒頭でちょっと触れた、この物語の主題のひとつたる「自由」についても、また考えてみたいと思っている。


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『ONE』

ONE(ワン) (集英社文庫)ONE(ワン) (集英社文庫)
(1996/12/13)
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パラレルワールドとショウペンハウア

 現代の物理学、特に量子論が、「パラレル・ワールド(併行世界)」というものの可能性を見出していることを私が知ったのは、つい数年前のことだった。科学雑誌の『ニュートン』で、「誰にでもわかる量子論」みたいな記事を読んだのだ。

 筋金入りのド文系脳である私には、ナントカカントカのネコなどといわれても、わかったような、わからないような、という感じではあったし、私的には、やはり「神はサイコロ遊びをしない」というアインシュタインの方に惹かれはするのだが、考え方は面白いな、とも思った。

 で、この『ONE』は、その「パラレル・ワールド」を題材にした作品だ。勿論これは物語であり、科学論文ではないから、「パラレル・ワールド」というものが実際にあり得るのか否かということの科学的な論証など一切抜きに、いきなり一個の否応ない現実として、その不可思議な世界を主人公たち、ならびに読者の前に突きつける。

 あらすじは、というと、飛行艇でロサンゼルス空港に向っていた壮年期のパイロット夫婦(リチャードとレスリー)が、突然、閃光とともに超次元的な世界に迷い込み、そこから眼下に広がる夥しい数の「パラレル・ワールド」に次々に舞い降り、それぞれの世界で、自分の分身たちの、自分とは異なる人生を目撃し、そこから、「パラレル・ワールド」とは実はひとつ(ONE)の事実、ひとつの「愛」の、数限りない様々な姿に過ぎないのだ、ということを知るに至る、というものだ。
 
 つまりそこに何を見出していくのか、というのが物語の骨子であるから、「パラレル・ワールド」というものはここでは主題ではなく素材であり、主題は、もっと「倫理的」なものだ、ということができるだろう。そして私は、この物語において語られる倫理観には、ショウペンハウアとの共通点が多くあるように感じられた。

 人生において、日々刻々繰り返されるものであるところの、選択、というもの。その度に世界は分岐し、「併行」する別世界が、同時的に生まれていく。結果、それぞれの様々な人生を送る、様々な「私」が生まれる。レスリーと出会わない人生を送るリチャードも、米空軍パイロットとして1962年にキエフに水素爆弾を落とすことになるリチャードも皆、同じリチャードなのであり、そればかりか、モスクワでイワンとして生活する男や、はてはフン族の王アッティラに至るまで、皆、同じひとりの人間の、数限りない選択のはての姿だ、ということを、主人公たちは知る。

 それはつまり、究極的には、全ての大元はひとつなのだ、ということを知る、ということなのであり、それによって、互いに争うことやいがみ合うことの無意味さを知り、さらには、選択によっては、ひとは如何様にもなり得るのだ、という可能性を見出すことができるのだと、この物語の主張とはそういうことなのであり、だからして、その「大元」を「愛」と名付けたのだと、私は読んだ。

 そして一方のショウペンハウアの倫理学は、というと、かなりざっくりした見方になってしまうが、この「眼に見える世界」とは、我々という「主体」が勝手につくりあげたマボロシに過ぎず、本当に「ある」といえるのは、我々を我々たらしめているところの「意志」なるものだけなのだ、という彼の形而上学を前提として成り立っている。

 つまり、この世というものは、ある盲目的な衝動ともいうべき「意志」が、「私」という主体に表象させているものに過ぎないのだから、客体として自分の外に認識されているものも、いわば「私」とその本質、あるいは「出所」は同じなのである。だから、それら「客体」の一部に過ぎない「他者」と争うことなどは愚の骨頂であり、もし、「「我」は「彼」である」というこの形而上学的真理を認識し得ていたのならば、ただ静観することだけが「正しい生き方」であることは明白である、と、まあ私流に解釈するならば、こんな具合である。

 (彼の哲学に、仏教的なものを見出すことは容易だし、実際彼も、多いに仏教思想から影響を受けていることを自ら認めている。この辺りのことも考え合わせると、「パラレル・ワールド」を考える上で、もっと興味深い視点が得られそうなのだけれど、煩雑をさけるために今回は割愛する。でも、面白そうだなあ。)

 「生きる」ということへの、積極性という点において決定的な違いのある両者の考え方ではあるけれども、世界というものを、もしくは世界というものの多様性を、実はたったひとつの「何ものか」の、多種多様な「あらわれ方」の違いによって説明し、その多様性を超えて、根源的な「一なるもの」を観じることに、ある倫理観の論拠を見出そう、という姿勢には、かなりな共通点を持つふたつの考え方だと、私は思う。

 だとすると、この『ONE』という作品の倫理観、というものは、量子論という比較的新しい考え方による(多分に「通俗的」な解釈ではあるが)、「パラレル・ワールド」というものを「形而上学的」に前提しているにもかかわらず、本質的には実はそれほど新しいものではない、ということになる。勿論こういうものは、新しければよい、という類いのものではないことはいうまでもないが。ただ、それが「19世紀的」であるとするならば、当然、それに対する「反論」もまた、すでに唱えられていることになる。

 ショウペンハウアの倫理学を、端的に言い表す言葉として、「同情」という言葉がよく用いられる。「我」と「彼」との、形而上学的な同一性を想う、というところにその本質がある、ということで、なるほどこれは適切な言葉だと思う。そして、この「同情」に基づく倫理学というものを真っ向から否定しようとしたのが、他ならぬ、ニーチェだった。

 「神は死んだ。人間に對する同情の故に、神は死んだ。」
  (『ツァラトストラかく語りき』 第二部「同情者」 竹山道雄訳)

 ショウペンハウアを否定し、乗り越えていくことは、ニーチェの宿命ともいえるものだった。このツァラトストラの言葉は、ショウペンハウアを強く意識して書かれたものだとみて大過なかろうと思う。

 世界の根源というものが「愛」であろうと「意志」であろうと、そしてまた、「表象」の世界が客観的な現実存在としてあろうとなかろうと、実際に我々が実感できるものとして確かなのは、認識主体の違いによって、世界は違ってみえる、ということだ。この「違い」を「錯覚」だとして無視しようとしたのがショウペンハウアだった。しかしこの事実は、むしろ全的な相互理解というものの困難、あるいは不可能をこそ証明するのではないか。

 私は、ニーチェの所謂「神の死」というものを、このように解釈した。「神の視点」という全ての人に共通な視点、即ち皆で共有できる価値基準なるもの。「我」と「彼」との形而上学的同一性の認識。そんなものこそが幻想であり、脳裏からぬぐい去るべきものなのだと、「神の死」という象徴的な言葉によって宣言したのだ、と。そして付言するならば、私はこの「神の死」の宣言によって、我々ひとりひとりが、どれほど孤独な存在として、寄る辺なくこの世界に投げ出されているのか、それを思い知らされ、戦慄したものだった。

 『ONE』の感想のつもりが、なんだかニーチェの話になってしまったが、勿論、物語としてこの本はとても良くできているし、その倫理観に賛同するのであれしないのであれ、いろいろと考えさせられる場面も多くあった。

 特に、主人公が、空軍の若きパイロットとしての自分に対し、戦争という国家的出来事における個人の責任について問いかける場面。「命令されて」、「軍人の義務として」、何十万の市民が生活する街の真ん中に核爆弾を投下するとき、さてそのパイロットには、何十万人の命を一瞬にして奪ったことの責任はないとえるのかどうか。あるいは、「やつら」から自国の平和を守るのだと息巻いていた男に、さて、実際に戦争が起こってしまったことについて、責任がないといえるのかどうか。幸いなことに、戦争に直接関与せずにすんでいる今のうちに、我々はよく考えてみるべきことだろう。

 あるいはまた、ル・クレールと出会う場面。そこでは宗教というものの「負の側面」が語られる。中東の問題などは、我々に宗教的な対立というものがいかなる悲劇を生み出しうるかを教えてくれる。しかし、争いの元となるからといって、全ての宗教を否定することが、争いの根絶に繋がるのだろうか。宗教の存在によって避けられてきた争いというものもあったはずではなかったか。

 宗教の問題、というと、我々日本人にはどこか他人事のように感じられるが、それは本質的には「異文化間の争い」と同じ構造をもっているのであり、善かれ悪しかれこれほど「グローバル化」の進んだ現在にあっては、我々にとっても決して他人事とはいえないのではないだろうか。中国、あるいはロシアという異文化の大国と、我々は否応なくご近所付き合いをしなくてはならないのであるから。

 こんな具合に、この物語には様々な現代的問題意識が込められている。このリチャード・バックのものを読むのはこれが三作品目であるが、この作家は、単に問題を提起するのではなく、「私はこの問題についてこう思う。では、あなたは?」というような問いかけをしてくるように感じられ、好ましい。

 文学的完成度、という点では私は『イリュージョン』や『かもめのジョナサン』のほうを高く評価したいが、「今そこにある危機」についての具体的な問題に取り組んでいるのは、間違いなくこの『ONE』だろう。どれを、ということではなく、この三作全てを読み通して、リチャード・バックという作家の考え方に近づいていく、というのが、一番よい理解のしかたなのかもしれない。

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(2009/05/20)
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自由論

 これは、少し前に『かもめのジョナサン』を読んで以来、ずっと読みたいと思っていた本だ。とても面白い作品だった。読み終えてしまうことが残念に思える本に出会ったのは、本当に久しぶりのことだ。

 本作は、『かもめのジョナサン』から七年後(1977年)に発表されたそうだ。扱われているテーマは、本質的には『ジョナサン』と同じだ、といっていいだろうと思う。そして、本作のドナルド・シモダをジョナサンに、リチャードを例えばフレッチャーに置き換えることは容易だし、そうした見方をするならば、本作と『ジョナサン』との類似性はさらに増す。しかし、作品の雰囲気にはかなりな違いが感じられた。

 『ジョナサン』のもつ、求道的な、ストイックなものが希薄なかわりに、「ファンタジー」らしさが増したのだ、とでもいうべきだろうか。かもめに仮託された物語のほうにシリアスさを、人間を描いたほうに「おとぎ話」を感じられた、というのも面白い話ではあるが。

 物語らしい物語がある訳ではない。遊覧飛行で日銭を稼ぎながら各地を旅する飛行機乗りであるリチャードが、あるとき、同業者で、しかも「元救世主」であるシモダと出会い、一緒に旅を続けるうちに、自らも「救世主」として目覚めていく、というもので、確かにちょっと風変わりな世界観ではあるが、複雑な物語性で読者を引き寄せる、という類いのものではない。

 それどころか、多くの場面は、どこか謎めいた「対話篇」のごときものとして展開され、その対話の内に、シモダがリチャードを啓発していく、という形が、作品の骨格とでもいうべきものを組み上げていく。

 そして結局、この作品が気に入るのか気に入らないのか、を分けるのは、その対話において語られるもの、即ち、この作品中における、「救世主であるということはいかなることか」というものが、気に入るのか否か、というところにかかってくる部分は少なくないと思われるのだが、まあ、いってしまうならば私はそれが「気に入った」、ということだ。

 「世界は私の表象である」という言葉を、私は『ジョナサン』の記事のなかで援用した。ここまで極端な主観主義ではないとしても、世界というものは、我々自身の「解釈」によって、いかようにも変化しうるものだ、という考え方がこの作品にはみられるのだが、つまりは、この考え方が「私好み」なのだ。

 ただ、この辺りのことについては、それこそ「好みの問題」になってしまうし、この作品の魅力は、その「世界観」にばかりあるとも思わないので、もう少し別の側面から、考えてみようと思う。

 飛行場でない、つまり飛行機にとっては本来的でない場所に着陸、もしくは不時着したことによって、主人公が不思議な人物と出会う、という点において、この物語はサン=テグジュペリの『星の王子様』と、ある種の共通点を持つ、といえるのかもしれない。飛行機というものには、何か非日常的なものがある。この乗り物が、こんなにも一般化し、当り前のものとなってしまった現代でさえ、それを感じることはある。

 例えば、私の住む街から北海道までは、道のりにして大体800kmぐらい離れているのだが、私はこれまでに経験した三度の北海道ツーリングにおいては、三度とも、バイクで高速道路を自走して北海道を目指した。津軽海峡以外では、カーフェリーも、飛行機も使わなかった(バイクを空輸することは可能だし、実際そうやって遠方から北海道に来るライダーもいます)。

 すると大体、一晩かけて本州をひたすら北上し、翌日のフェリーで津軽海峡を渡る、というような走行スケジュールとなるのであるが、これによって、800kmという距離がいかなるものなのか、身をもってじっくりと思い知らされることになる訳だ。

 よって私にとって、北海道とは、簡単には行くことのできない遠い遠い場所であり続けていたのであるが、妻と結婚し、新婚旅行を、ということで北海道にいったときには、さすがに飛行機を利用した。するとどうだろう、羽田から旭川まで、まさにひとっ飛びであった。東京の雑踏の中を、旅行荷物を抱えてふらふらしていた我々が、二時間後には、もう「遠い遠い北海道」の山中で、車を走らせていた。

 それはもう、頭では理解できても、感覚的にはまるきり受け入れられない出来事のように感じられた。現実の世界、日常の世界から、あっという間に憧れの世界、非日常の世界に放り込まれたような感覚である。ふたつの世界をつなぎ、かつ隔てているはずの、あの800kmが消えてなくなったのだ。まさに、「イリュージョン」であった。

 本来「地を這うもの」にすぎない我々が、空を飛ぶ、ということには、なんだか得体の知れない側面があるのだな、と私はそのとき思った。だとしたら、もしその飛行機が、本来着陸すべき飛行場なる場所に降りずに、広大な牧草地のまっただなかだとか、はてしない砂漠のど真ん中だとかに降りてしまったとき、なにやら予想もつかない、おかしな世界に迷い込んでしまったとしても、何の不思議もないと、そんな気がしないだろうか。まるで、タイムトンネルの真ん中で、ドラえもんのタイムマシンから飛び降りてしまったときのように、だ。

 さらにまた、こうして「場所ならぬ場所」に、気分次第に着陸してしまう、ということには、「自由」というものを感じることができる、という側面もあるだろう。つまり、定められた発着所や、定められた航空路に縛られず、自分の意志で着陸場所や航路を決める、という意味においてである。そしてあるいは、この側面からこそ、この作品の本質に近づけるのではないか、と私は思う。

 工具を空中に浮かせたり、水面を歩き、地面に潜ったりということができるドナルド・シモダだが、そうした「奇跡」には象徴的なものであること以上の意味は持たせるべきではないだろう。もしくは、そうしたことは、「自由」というものが持つ様々な意味の、ある限定された一部であるにすぎない、と考えるべきだろう。

 この作品はファンタジーだ。だから、壁を抜けたり、給油なしで飛行機を飛ばせたりということも起こるだろう。だがここに語られる「自由」というものそのものには、幻想も「奇跡」もないのだと私は思う。

 なるほど、シモダの語る「自由」論は、極論といえるものかもしれない。だが大切なのは、彼が「人は自由であれ」とは言わず、「人は自由である」と言う、ということだ。彼は、自由であるためにあれをしろ、これをしろとはいわない。人は何をするのも自由だという。これほどに、全的に自由を認めてしまうことには、ある危険が伴わざるを得ない。つまり、他者の自由が、自分の自由を侵害する可能性がある、という危険だ。そして実際、その危険は彼の身において現実のものとなってしまう。

 しかし彼は、そうした危険をも承知の上で、ひとが「利己的」であることを肯定し、それは善いことだという。つまり彼は、そのひとの利己心というもの、ほとんど本能的といっていい利己的意思とでもいったものの内にこそ、「善意思」というものがあるのだと信じているように私には思われた。そして、ひとは自分が自由であることを知れば知るほどに、その行動は結果的に他者をも利するものになっていくのだ、と。

 この作品の内に、リチャード・バックが語るところの自由論に、賛同するにせよしないにせよ、自由であるということはいかなることなのか、少なくともそれを考えるきっかけには充分なる作品だとはいえるだろう。そして、これほどまでにひとを「隷属的なもの」として扱おうとするこの現代社会にあって、自由について考えることは大きな意味のあることだろう。

 自由論、といえば、J・S・ミルのものが有名だが、この作品には、ミルの著作のような論理性は勿論ない。しかしこの小さな物語において語られる自由論は、決して浅はかでも短絡的でもない。平易な言葉で、ささやかな物語で、著者は、哲学論文の大著にも劣らない自由論を展開している。文学的表現、というものがいかなるものであり得るのか、この作品は、それを思い出させてもくれている気がする。

 そして私は、飛行機で旅をするふたりの姿に、またしても旅ごころをくすぐられ、遠方への憧れに胸を締めつけられた。ドナルドとリチャードの「自由」を目の当たりにして、それに憧れるということ。結局それが、この作品の楽しみ方として最も「正しい」のかもしれない。


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(1977/05)
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「かもめらしさ」とは何かを問う

 多くを語らないことによって、多くを考えさせる小説、というものがあるとするならば、この作品はその代表的なもの、といってよいだろう。

 この風変わりな物語について、何かを語ることは、よって非常に難しい。この物語に触れたことをきっかけに、我々が思うことはきっと多いだろう。しかしその思いを導いてくれる言葉が、この物語にはあまり多くはないからだ。

 例えば『魔の山』について、あまり深く理解できなかったとしても、我々は「読書感想文」を書くことはできるだろう。なぜならそこには言葉があふれているからだ。そのうちの幾つかを拾ってきて、自分なりにつなげていけば、大体文章としての体裁を保ったものを組み上げることは、手間さえかければそれほど難しいことではないはずだ。

 しかし、この『かもめのジョナサン』のような作品では、そうした「ごまかし」のしようがない。ここに語られるあまりに大きなことを、本文から拾ってきた言葉を組み立てることによって語ろうとしたならば、きっと、それは単にもう一度『かもめのジョナサン』を組み上げる作業にしかならないだろう。

 何かを書こうと思うのならば、材料は自分で用意しなければならない。この物語について語ることの難しさとは、つまりそういうことだ。我々は、本当に「自分で考えること」を強いられるのである。

 と、なんだか自分でハードルを上げてしまった感じだが、まあひとつ、やってみよう。
 
 最近、私のふたりの子どもが、共に大きな成長のステップを踏んだ。先日一歳になったばかりの息子は、どこにもつかまらずに立てるようになった。二歳半の娘は、ついにウンチ(失礼しました)をトイレですることに成功した。まだまだ一人前になるためには、様々なことをできるようにならなければならないのは勿論だが、こうして、着実に成長をみせてくれることは、親としてはやはり悦ばしいことだ。

 しかし、この「成長」というもの。これは一体、どこまで続くものなのだろうか。あるいは、どこまで続ける「べき」ものなのだろうか。例えば私の息子は、今はまだ、立った、とはいってもレッサーパンダの風太クンよりも不安定だが、やがてもっとしっかり立ち、歩きはじめ、そして駆け回るようになるだろう。

 そして、その走りはどんどん速くなる。本格的に、例えば陸上競技の100メートル走の訓練を受けたならば、さらに速くなっていくだろう。勿論、「人類最速の男」になるためには、持って生まれた才能、というものが必要だろうけれども、私の息子が持つ潜在能力を目一杯まで引き出す、ということは可能なはずだ。しかしここにひとつの疑問が生まれる。さて、我々はそこまでの成長を、目指すべきなのか否か、ということだ。ときには、他の重大な何かを犠牲にしてまでも。

 この物語の主人公であるジョナサンは、それをしようとした。さて、自分はどのくらい速く飛べるのか。彼はあらゆる方法を試み、そして、かもめとしては常識はずれな速度で飛ぶことができるまでになった。だがジョナサンを、他の「普通の」かもめたちと違う、特別なかもめにしたものを、単にこの飛行速度だけに見出そうとしたならば、この物語を読み違えることになるだろう。

 かもめは食うために飛ぶのだ、という父親の言葉に逆らい、彼はただ飛ぶために飛ぶ。より速い、より高度な飛び方を、ただそれ自体を目的として、求めていく。「食うために飛ぶ存在としてのかもめ」というものを超えて、「高次のかもめ(作中ではひかり輝くかもめとして象徴的に描かれる)」とでもいうべきものへと高まっていく。

 その様子に、私はツァラツストラの「人間とは克服すべき或るものだ」という言葉を思い出した。しかしジョナサンが、ニーチェ的な超人(超かもめ?)のごときものになるのは、「速度」というものには限界がある、ということを知った後のことだった。

 「われわれの肉体は思考そのものであって、それ以外のなにものでもない」

 ジョナサンがそれを学び、物質の移動の速度、という意味での速さというものを「克服」したとき、「高次のかもめ」たちが住む世界からまた、「食うために飛ぶかもめ」たちの住む低い世界へと降りていくことを彼は欲する。彼は、自分が学んだことを、求めるものに教えたい、と願うのだ。それはまさに、ツァラツストラ的な「没落」の路に他ならない。

 そしてジョナサンは弟子たちに教え始める。彼は「飛び方」を教える。それは「食うため」の飛び方ではない、彼が至り得た高みへと、弟子たちをも至らしめるための手段としての飛行法なのだ。だから、速く飛ぶことが最終目的なのではない。より高い世界に生きることが目的なのだ。

 ところで、「われわれの肉体は思考そのものであって云々」という言葉、これはいうまでもなく極めて「主観主義的」な言葉であり、「世界は私の表象である」という究極の言葉とほとんど違いがないように私には思われる。主観主義というものは、事物を全て相対化してしまうものなのだが、ジョナサンには、「社会」というものとのバランス感覚がある。

 それは本文中では「愛すること」という言葉で端的にあらわされ、ここでもツァラツストラ的にいうならば「与える徳」とでもいうべきもので、前述のようにそれは、未だ低次にとどまっているけれどもしかし高きを求めるものたちに、教える、という形をとることで社会との繋がりを保つ役割を担う。かつては、「食うため」ではなく「飛ぶため」に飛ぶ彼を追放した「社会」を、彼は教え導こうというのだ。

 これは実は、弁証法的な方法、といってしまってよいのではないだろうか。背反する二律がある。「食うために飛ぶ」ことによって社会を、つまりかもめという種の存続を守ろうとする力と、かもめという種を「克服」し、遥かな高みにあろうとする力と、である。誰もがみな、ジョナサンのようになれる訳ではない。しかし彼によって、かもめという種は高められるのだ。それは「止揚」という形をとったある種の「進化」だといえないだろうか。

 ここで私は、またひとつの疑問を抱く。リチャード・バックはパイロットだ。我々はもうひとり、パイロットであり、作家でもあった人間を知っている。サン=テグジュペリだ。彼の『人間の土地』に、こんな言葉がある。羚羊について、彼が柵の中に子どもの頃から飼い、育て、人に馴らし、「猛獣たちに食い殺されるあの悲惨な運命から保護」してやったと信じた羚羊についてだ。曰く。

 「やがてその日が来る、その日、きみは、彼女たちがその小さな角で、砂漠の方角に向って、柵をしきりに押しているのを見いだすだろう。
  (中略)
 彼女たちは、羚羊になりきり、自分たちの踊りが踊りたいのだ。時速三十キロメートルのスピードの、まっしぐらな遁走が味わいたいのだ。(中略)金狼どもが待ち伏せているぐらい、なんのその、もしも羚羊の本然が、恐怖を味わうことにあり、恐怖だけが、余儀なく自己を超越させ、最大の跳躍を成就させるものであるなら! ライオンどもが待ち伏せていようと、なんのその、もしも羚羊の本然が、白日のもと、猛虎の爪の一撃に引き裂かれて果てることにあるのなら!」


 サン=テグジュペリは、「本然」という言葉を使った。そして、もし羚羊の「本然」が、ライオンに食われることにあったとしたならば、羚羊は柵の中に守られているよりも、荒野でライオンに食われることを望むだろう、というのだ。

 そこで、人間の、あるいはかもめの「本然」とはなにか、と考えるとき、私は、ジョナサンのしたようなこととは、一体、われわれの「本然」にかなったことだったのだろうか、と思うのだ。

 つまり、背反する二律があったとして、それは常に「進化」のために「止揚」されなければならないのか。あるいは「進化」とは、「常に」アウフヘーベンという形でなければいけないのか。もしもかもめの「本然」が、いまあるかもめ、「食うために飛ぶかもめ」であることにあるのならば、例えジョナサンのように生きることも可能だったとしても、「食うために飛ぶ」ことに徹することこそ、かもめとしての本来性にかなった生き方だといえるのではないか。「人間的、あまりに人間的」に生きることこそが、人間の「本然」ならば、「超人」のことなど思わずに、「人間的に」生きることこそに、我々が本来求めるべきことなのではないか、ということだ。

 あるいはまた、こうもいえるのではないか。例えそこに背反する二律があったとしても、その背反それ自体が、その事物の在り方の「本然」であるならば、無理に「止揚」されるべきではないのではないか、と。

 そして、私は最初の疑問にたちかえる。つまり、我々はどこまで成長することを目指すべきか、ということだ。結局それは、我々の「本然」というものがどこにあるのか、ということにかかってくるのだろう。例えば人間は「超人」を、かもめは「偉大なかもめ」としてのジョナサンを求めることが「本然」だ、と考えることもまた可能なのだからだ。

 しかし、我々人間というものは、かもめや羚羊たちほど単純ではない。われわれの「本然」のなんたるかについて、人類はもう何千年も考えてきたのだし、多分、その答えが得られることはないだろう。なぜなら、その答えそれ自体が、常に変化しているものだろうからだ。

 そう考えると、我々にできることといえば、自身の可能性を追うこと、これのみではないだろうか。つまり、何をすればよいのかわからないならば、何ができるのか、を考えるということだ。ジョンサンも、まずは「飛ぶ」ということの可能性を追い求め、その結果として、ある高みへと至り得た。我々も、もし走ることができるのならば、どこまで速く走れるのか、やれるところまでやってみる、これしかないのではないか。

 と、何だか結局あっちこっちから材料をあつめてきたような文章になっていまい、しかもその結論として、「とにかく頑張りましょう」みたいなことになってしまいました。いつにも増して、シリメツレツですみません。まあ、それだけ解釈がムズカシイ作品だ、ということで御勘弁ください。

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