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『ソフィーの世界』

ソフィーの世界―哲学者からの不思議な手紙ソフィーの世界―哲学者からの不思議な手紙
(1995/06)
ヨースタイン ゴルデル

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悪しき哲学書か、よき教養小説か

 この本が世界的なベストセラーとなったのは、1990年代中頃のことだ。日本でも売れた。私が持っているのは、普及版という、あまり上等でない装丁で、上下巻に分けられてそれぞれ1000円で売られていたものであり、文庫ではなくこんなものが販売されたということがまた、この本の商業的な成功を物語っている、といってしまってよいだろう。

(私の持っている版の下巻の帯には、「日本で175万部の大ベストセラー」とある。これは実際大した数字だ。ちなみに世界中では、2300万部以上売れたらしい。)

 私はつまり、二十代のちょうど中頃にこの本を読んだ訳だが、当時私は、半分(普及版の上巻)だけしか読まなかった。後半を読む気にはなれなかった。気に入らなかったからだ。

 何が気に入らなかったか、といえば、哲学を「簡単に」理解しよう、あるいは理解させようとして扱う、その姿勢そのものが我慢ならなかった、というところだ。哲学者の書いた本は、まず例外なく、理解が難しい。しかしその「難しさ」もまた哲学なのである以上、それを回避して、要約されたものをずらずらと羅列することは、哲学というものに関わろうとする正しい態度だとは思えなかったのだ。

 そして、こんな形で哲学を「簡単に」してしまった本が世界的ベストセラーになどなってしまい、多くの人びとに読まれることで、哲学というものがおかしな形で誤解されることもあるのではないか、などと、二十代半ばの若者はなかなか殊勝な心持ちで、数千年に渡る人類の精神的遺産について心配などしていたという訳だ。

 だが、難しく考えることが哲学か、といえばそうではないのだし、「簡単に」できるものならばしたほうがよいのでは、と今では思う。勿論、その簡略化によって、本来あるべき形が歪められるべきではないけれども、しかしどんな方法であれ、最初から、例えばプラトンの哲学を全て理解し尽くすことなどできる訳もなく、まずは「簡単に」理解できるところから理解する他はないのだから、その取っ掛かりとしての簡単さを得るためというのならば、いきなり『法律』だの『国家』だのを読み始めるよりも、むしろ入門書的なものから始めた方がよい、という場合もあり得るだろう。

 と、いうことで、久しぶりに読み直してみた。読み直してみて、この本、実はなかなか良い本だったと、今更ながら気付かされた。要するに、この本に何を求めるべきなのか、それが問題なのだろう。

 主人公である十四歳(間もなく十五歳)の少女ソフィーのもとに、アルベルトという哲学者からの手紙が届くところから物語は始まり、古代ギリシアの自然哲学から順に、いろいろな哲学者の哲学についての「講義」が続いていく形で、物語は進行していくのだが、その劇中の「講義」から、本気で哲学を学ぼう、などと思うのならばそれはさすがにできない相談だとしかいえないだろう。かつての私は、まさにそれを求め、この本を否定したのだったが、しかしいくら同じ短距離走の選手だからといって、陸上部の中学生に、ボルトの世界記録を破ることを求めるべきではないだろう。

 それに、この「講義」は、「哲学」の講義であるよりはむしろ、「哲学史」の講義ではないだろうか。ひとつひとつの「講義」を、それぞれ、たとえばプラトンとかアリストテレスとかの哲学の概略を述べているものだ、としてみると、やはり少し物足りない気もしてくるが、講義全体をみて、それを一連の「哲学史」の講義だと解釈しようとするとき、それはなかなかわかりやすい、よくできた講義だと私には思われた。

 勿論、最初からバートランド・ラッセルの『西洋哲学史』を読みこなし、西洋哲学なるものの概観を把握できるものならばそのほうがいいに決まっている。しかし前述した通り、最初は誰でも簡単なところから始めるしかない訳で、そのための「入門書」が求められるようなときには、個々の哲学者についてあまりに細かくまたは広範に触れることなく、「哲学史」的視点から必要と思われる部分だけに選択的に触れていくこの『ソフィーの世界』のほうが、ラッセルの著作よりも、あるいは優れてさえいる部分も少なくないような気もする。

 一方、この作品のもうひとつの側面、即ち多分にファンタジックな「物語」としての『ソフィーの世界』は、どう評価されるべきだろうか。二十代の頃の私には、この「物語」が、この上なく邪魔に感じられて仕方がなかったのだが、それならば、それこそラッセルでも読むべきであって、この本を読むべきではないだろう。この本は、あくでも小説なのであり、「古代より現代に至る政治的・社会的諸条件との関連における哲学史」、みたいな副題がつく本とは違うのだ。

 さらにいってしまうならば、今の私は、この本の魅力はむしろこの「物語」のほうに多くあるのだとさえ思っている。冒頭、アルベルトからの手紙によって、「自分は誰なのか」、というラジカルな「問い」を、自分自身に向けて投げたソフィーだが、物語が進行するにしたがって、自分が「存在する」ということの疑わしさに、さらにとらわれていく。

 そう、この物語は、「自分とは何なのか」、「世界とは何なのか」という、哲学のはじめともいうべき「問い」から離れることがない。まさにこの「問い」を追い求めるためにソフィーは「哲学」を学ぶのであり、そしてそれは「答え」を得よう、というよりはむしろ、正しく「問う」ことを知ろう、という努力だ。

 正しく「問う」こと。私はここで、フォン・エッシェンバハの『パルチヴァール』を思い出す。「正しい問い」を発することが重要な意味を持つこの物語は、ドイツ教養小説の伝統の先駆ともいわれる。そう、十五歳の誕生日を眼の前に、「問う」ことを学ぶソフィーのこの物語もまた、教養小説と呼ばれて然るべきものではないだろうか。

 「物語」において、ソフィーの「存在」が、あやふやに、頼りなくなっていくに従って、哲学講義のほうも、より現代的な、実存主義的なものに近づいていく。はじめは、何だか取ってつけたようなものだった「講義」が、次第に、「物語」との関わりを深めていくあたりは、なかなか見事な構成だといえよう。

 そして最終的に、「存在」を「存在たらしめているもの」との対決によって、自らの「存在」の何たるかを、自ら見出していくソフィーは、まさに「存在論的」ともいうべきであり、最早、最初の手紙を受け取ったときのソフィーではないのだ。

 こうして「教養小説」として『ソフィーの世界』を観るとき、私には、「講義」の部分よりもむしろ、「物語」の部分のほうこそが真に「哲学的」だと思われ、それだからこそ、「物語」の部分に私は、より多くの魅力を感じたのだった。

 勿論、「物語」としての面白さ、それも兼ね備えていることはいうまでもない。少なくとも、読者を先へ先へとひっぱっていくだけの魅力は、充分に持った物語だと思う。たとえ「講義」が煩わしくなってしまったひとでも、この物語のために読み進めよう、と思えるのではないだろうか。かつての私のような読者でなければ、の話だが。

 (この訳本の監修者である須田朗が、巻末の「解説」において、サルトルはあるのにハイデガーが取りあげられていないことについて、「この本全体にハイデガーの考え方が生かされているのではないか」と書いている。私のいいたいことも、つまりは大体、同じようなことだ。)

 何にせよ、哲学、というと、ヘーゲルだのウィトゲンシュタインだのを深く専門的に研究すること、だという先入観を払うには、誠に良い本だ、とはいえるだろう。誰かの哲学を学ぶことは、実はまだ本当に哲学を学んでいるとはいえない段階にある。大学で覚えた哲学用語を並べてカント哲学について講釈しているひとよりも、星空を眺めながら、「うちゅうってなんだろう」と漠然と思っている小学生のほうが、よほどカントに近いところにいるのだから。

 そしてさらに私は、またしても、「教育」というものについて考える。先日の『エミール』の記事のなかで、私は、何が正しく、何が間違っているのか、それを知っているとはいえない自分に、はたして自分の子どもたちを教育することなどできるものなのか、という、泣き言じみたことを書かせていただいた。それに対する答えのひとつ、ともいうべきものを、今回の読書で、得られたような気もする。

 我々が子どもたちに教えるべきことは、あれは正しい、これは間違ってる、ということではなく、あれは正しいのか間違っているのか、自分で考えること、なのではないだろうか。言い換えるならば、いつでも、それが正しいのか間違っているのか、自分で「問うてみる」ことをこそ教えるべきなのではないだろうか。

 そう、ちょうど、アルベルトがソフィーに教えたように、だ。正しく「問う」こと。それはつまり、自分で考え、判断するということだ。そして「正しい問い」には、すでにその解答が含まれる。1足す1、という計算式には、すでに2という解が含まれるように。しかし、いきなり2という数字を押し付けられるよりも、1と1とを加えるということを自ら考え、そして2を得るに至ったほうが、2という数字についての理解は深まるだろう。

 だが、ににんがし、にさんがろく、と暗記させてしまうほうが、どれほど簡単だろうか。自分で、2がふたつあったら、いくつになるだろうか、という問いを立てさせ、その答えを求める、ということを「教える」ということとは、それに較べてなんと困難なことだろうか。私はアルベルトのように、ソフィーたる我が子を導けるのだろうか。・・・ん? アルベルトのように? なんだ、そうか、この『ソフィーの世界』を子どもに読ませればいいのか。よし、将来のために、古本屋に売ったりせずに大事にしまっておこう。

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