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『流刑の神々・精霊物語』


 反自然の「現代性」




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 岩波文庫 『流刑の神々・精霊物語』 ハインリッヒ・ハイネ著 小沢俊夫訳
 ISBN4-00-324186-X



 ハインリッヒ・ハイネは、文学史的に分類するならば、19世紀のドイツロマン派に属する詩人、ということになるのだろうけれど、以前にも書いたが、なかなかそう一筋縄ではいかない作家で、相変わらず私にとっては魅力的であり、また捉えづらい作家である。

 ただ、今回読んだこの作品は、「ロマン派的」という枠に収めやすい、という点では判りやすい、といえるかもしれない。少なくとも、ここで扱われているものと主題を共有している、ミシュレの『魔女』を読む為の準備的な書物として、まずはこれから、という心持ちで読むことができるくらいには、理解はしやすい本である。しかし無論それは、この本を軽々に扱ってよい、ということを意味する訳ではない。繰り返すが、その主題はミシュレの『魔女』と共通している。

 即ち、ヨーロッパへのキリスト教伝搬の歴史、である。

 ハイネはそれを、このふたつの論文、というよりはエセーのなかに、ユーモラスで軽やかな筆致で描いている。読者は、殊に我々のようなヨーロッパに生まれ育った訳でもなく、また、彼の地のキリスト教徒でもない「部外者」は、それを何か面白い昔話の紹介のように読んでしまいたくなる。しかし彼は確かにここで、キリスト教の歴史の暗黒部分、キリスト教がその勢力を急激に広めていた時代に犯した罪を、我々に告発しているのである。

 キリスト教が、この本で主に対象とされているゲルマン族やケルト族に伝わったのがいつ頃なのか、正確に指し示すことは困難だけれど、少なくとも、それ以前にはすでに、ゲルマン族もケルト族も、それぞれが独自の文化を高度に発達させていたことは確かである。

 無論当時の西洋の中心はローマ帝国にあり、ローマ人からみたならば他のどの地域も「蛮族の地」、「未開の地」と呼びたくもなっただろうけれど、ヨーロッパの北の果てにも、完全に自律し、そして何百年でも持続可能な独自の文化が、確かにいくつもあった。そしてそれぞれが、それぞれの価値観、世界観を抱いていた。そしてそれを象徴的にあらわす宗教もあった、妖しくも美しい文学的表現を伴って。

 そう、ここでいう「文学的表現」とは、単に叙事詩的神話のことをいっているのではない。もっと広義の、世界を神話的存在に充たされたものとして表象するということ、つまり自分たちを取り巻く世界が、自分たちのみならず「精霊達」の住処でもあるのだと信じる、ということをいっているのである。

 樫の森を抜ける生命の風が吹く、ニンフェやウンディーネ、コーボルト、ヴァルキューレなど、こうしたまさしくロマンチックな存在に充たされた古来のヨーロッパを、アルプスの彼方から、根本において反宇宙的で、生というものを罪悪と考えるキリスト教がやってきて支配しようというとき、それら先住の精霊達を、新参の禁欲主義者は無論無視する訳にはいかなかった。

 カトリック教会は彼らの存在を否定しなかった。むしろ積極的に彼らの存在を肯定し、利用した。そう、本来きわめて論理的、思弁的な宗教であるキリスト教が、無学であるどころか「野蛮」ですらあるヨーロッパの異教徒たちに、自分たちの「正義」を理解させる為に、精霊たちを「悪魔」として対比させたのである。

 これは実際巧妙な方法であった。そして福音書に語られるたとえ話にもひけをとらない、正確な比喩であった。つまり、事実生命やその営み、即ち「自然」というものの象徴である精霊達は、キリスト教的観点からはまさしく「反キリスト者」の僕と呼ぶべき者達であったのだから、そこには微塵の嘘もなかったといえる訳だ。

 その結果、精霊達は明るい地上を追われ、地下の暗闇の住民として細々と生きる存在と成り果てた。自然は善悪の彼岸にある。だから彼らもまたそうだった。しかし自らのみを正義とする者にとっては、善悪の彼岸にあること自体が悪であった。精霊達は悪魔となった。

 こうした「流刑の神々」の現状について、ハイネはここに語っている訳であり、『精霊物語』の後ろの方に挙げられたタンホイザーの物語は、確かにそれを端的に表わしている。だがやはりハイネは詩人でありすぎはしないだろうか。その表現はあまりにロマンチックでありすぎないだろうか。というのは、それは単なる「教義」にとどまることなく、そしてまた「物語」に語られるばかりでもなく、実際に、ある残酷な出来事として、歴史上に具現してしまったからである。

 そう、またしても繰り返すが、このハイネの小品は、ミシュレの『魔女』と主題を共有している。そして『魔女』のほうで扱われる素材は、他でもない、所謂「魔女裁判」なのである。

 カトリック教会の所謂「三位一体(父・子・精霊)」には、女性的なものが欠けている、とは心理学者のユングが指摘したところである。神的なものを形作る「聖数」は本来「4」であるべきであるのだが、ここでは第四の位格であるはずの「ソフィア」がいない、というのだ。これはキリスト教の神学が、強い「男性的原理」に支配されていることを意味する。

 (ソフィアの代役としてのマリア、それも聖母マリアだけでなく「マグダラのマリア」を含めての「マリア」についても、実に興味深く、しかもここで扱われている事柄に極めて関係深いのであるが、ここではあまりに煩雑になる怖れがあるので触れずにおく。しかし機会があれば是非考えてみたい事柄である。)


 だがミシュレのいうことを信じるならば、古来の「自然崇拝」の宗教観の世界では、霊的、神的なものと関わるのは主に女達であった。子を産む女は生命の秘密に通じ、かまどを扱う女はあらゆる薬草に精通していた。女は自然の一部であった。女は自然に問いかけはしない。「問う」のはいつでも男である。女はただ行うのみだ。自然そのものと同じく、彼女等はむしろ「答え」なのだから。

 よって、カトリック教会がそうした女達を「魔女」として排斥しようとしたことは、ヨーロッパの古い神々に教会がしたことと、「自然の排除」という、同じ構造もをもっているのであり、そうした意味ではそれを理解することは(賛同はできないにしても)比較的容易いことである。

 しかしここで気をつけるべきことがある。高橋義人氏が著書『魔女とヨーロッパ』の序文、それも最初の一行目から指摘している通り、所謂「魔女狩り」というものが「暗黒の中世」の産物であって、近代科学なるものの誕生がそれを終わらせたのだ、という一般的な認識が、誤解である、ということだ。

 
 確かに魔女狩りは中世末期に始まり、十八世紀の啓蒙主義の時代にほぼ終わりを告げた。しかし魔女狩りが猖獗をきわめたのは十六・十七世紀のことで、魔女狩りがその頂点を迎えたのは、一六〇〇年のことである。十六・十七世紀——それはルネサンスやバロックの時代であると同時に、コペルニクス、ガリレイ、ケプラー、ニュートンの世紀、「偉大なる近代科学」の誕生の時代だった。

(『魔女とヨーロッパ』冒頭)


 即ちそれは意外なほどに最近の出来事なのであり、「暗黒の中世」の盲目性、蒙昧性が産んだ狂気だというばかりではなく、むしろ、確かに現代文明の直接的な前段階であるところの「近代科学」の時代に活性化されたシロモノである、ということである。

 そう、古き良き時代の「女たち」に、「魔女」の名を与えて排斥したのは確かにキリスト教であったかもしれない。そして異端審問から火あぶりまでの「システム」を完成させ、運用したのも確かに教会であろう。そして魔女狩りは、「近代科学」の台頭に教会が危機感を抱き、それを強めたせいで、盛んになっていったという側面もあっただろう。だが新時代の科学的思考もまた、自然を「客観視」することは知っても、それを「敵視」することをやめることはできなかったのも事実だ。近代に入って「都市化」していく社会環境は、「暗黒の中世」の支配者たちと同じ論理的背景をもっていたといい得るのである。

 ハイネの著作を読む我々は、ハイネとともに、麗しき精霊達を悪魔と呼んで暗闇に追いやったキリスト教に腹を立て、ロマンチックな思いを太古の森に馳せることができるのかもしれない。だが「魔女狩りの近代性」を知った以上は、我々現代人がむしろ、自らの「正義」のために「悪」を排斥する者達に近いことを、まずは思うべきではないだろうか。

 そうだ、我々は逆に、現代的合理主義の立場から、他ならぬキリスト教について、その考え方が古く、非合理的で、偏狭だという理由で、換言するならば「科学的でない」という理由で、その教義を一個の誤謬であるとみなしてはいないだろうか。その歴史の暗黒面故に、キリスト教が西欧世界の発展に大きく寄与してきたことさえも、十把一絡げ的に全否定しようとはしていないだろうか。それを過去の遺物と呼び、現代科学の滑稽な反対物として、排斥しようとしていないだろうか。

 そうであるならば、我々は、かつて古きヨーロッパでキリスト教が犯したと同じ過ち、また近代の黎明期に起こった半狂乱の魔女狩りと同じ過ち、そして人類の歴史上において数限りなく繰り返されてきた同じ過ちを、またしても犯していることになる。

 この小さなエセーを読むことで、我々は未だ、それほど進歩している訳でも、啓蒙されている訳でも、充分に「客観的」である訳でもなく、偏見と先入見と排他性と狭隘な倫理観に充ちており、紀元後の最初の千年紀の人々とそれほど変わってはいないのだと自覚させられるべきなのだろう。そしてまた、一見、組しやすそうに思えても、やはりハイネは難解であると、あらためて思い知らされるのである。


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『ファウスト博士』

ドイツの文学〈第2巻〉ハイネ (1966年)ドイツの文学〈第2巻〉ハイネ (1966年)
(1966)
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ハイネという詩人

 これはゲーテでも、トーマス・マンでもない、ハイネが書いた「ファウスト」だ。もう十五年以上も前に小さな古本屋でみつけてまとめて買ってきた、三修社の『ドイツの文学』という全集のなかのハイネの巻に、このタイトルがあったことを知ったのは、つい最近のことだ。つまり、私の「積ん読」本の山のなかに埋もれていた一冊、ということだ。

 私は、ハイネが好きだ。初めて彼の作品に触れたのはごく若いころだったし(たしか、新潮文庫の『ハイネ詩集』だった、と思う)、『歌の本』にはお気に入りの詩が幾つもあるし、『流刑の神々』には、特にヨーロッパの宗教観についての私の視野を、大きく広げてもらった。しかし、私にとってこの詩人は、いまだに、なんだかとらえどころのない、どう評価すべきかイマイチよくわからない、そんな詩人であり続けている。

 文学史的にいうならば、ドイツロマン主義を代表する詩人、ということにでもなるのだろうけれど、なんだかノヴァーリスなどとくらべると現実主義的で皮肉屋だし、かといってもっと写実的なシュティフターあたりと同じ括弧でくくるのもやはりシックリこないし、まあ、それがハイネの独自性だといってしまうとそれまでなのだが、だからといってその「独自性」がどこにあるのか、それもまたはっきりわからない、と、こんな感じだ。

 今回読んだ『ファウスト博士』、これもまた、なかなか面白かった。バレー台本ということで、文学的な装飾のあまりない、ほとんどあらすじのような作品なのだが、それが逆に想像力をかき立ててくれるようで、ゲーテの『ファウスト』のような壮大さはないとしても、これもまたひとつのファウスト物語として、楽しむことは充分できる。

 しかしまたしても、これでハイネを「判断」することはできなかった。なるほど、ハイネにはこんな面もあるのか、とは思ったけれど。もう、あきらめて作品そのもの「だけ」を楽しむことにしてしまおう。大体それが、文学作品と向き合うための、本来の姿勢、とういうものだ、とひらきなおって。

 (そういえば、松岡正剛氏も、その『千夜千冊』のなかで、「ハイネは謎だ」みたいなことをいっていた。氏の謂うところの理知的な「謎」よりも、私の「わからない」は感覚的なものといえそうだが、文学史的な流れの中におさまりきらないような、ハイネの才能の「突発性」を捉えきれずにいる、という点では、もしかしたら氏と私とには共通する部分があるのかもしれない。)

 この作品において、まず注目すべきは、というか嫌でも注目させられるのだが、やはり悪魔の名前が「メフィストーフェレス」ではなく、「メフィストーフェラ」、すなわち女であることだろう。

 物語冒頭、ファウストが「悪魔呼び」のまじないをすると、まず現れたのは「赤い炎に包まれた虎」だった。ファウストがそれを追い返すと、次に現れるのは「巨大な蛇」だった。しかしファウストはそれにむかい、「地獄の精霊がもっと危険な形をとって現れることができない」のを嘲る。すると大蛇は退散し、次に現れたのが、「女の悪魔」メフィストーフェラだった。

 虎よりも大蛇よりも「危険な形」を、「女」とするあたりは、いかにもハイネ、というべきだろう。そういえば、手塚治虫の『ファウスト』のメフィストが、やはり「雌フィスト」という女だった。あるいはこのハイネの『ファウスト』からヒントを得たのか、などとも考えたが、まあそれは推測にすぎない。とにかく、このメフィストーフェラの存在が、このハイネの『ファウスト博士』の独自性を生んでいる大きな要因であることは間違いないだろう。

 最終的には「永遠にして女性的」なものによって、高みへと引き上げられ、救済されるゲーテの『ファウスト』と違い、最初の契約通りに地獄へと引き摺りこまれてしまうハイネの『ファウスト博士』では、やはり悪魔は「女」でしかありえなかった、といったところか。

 こうしたいいかたには女性の方々は立腹されるかもしれないが、やはりハイネのみならず、大概の男にとっての「女性的魔性」というものは、説得も強制もできない、「ダメなものはダメ」で押し切られてしまうような、そんなどうにもならない、否応のない恐ろしいものなのであり、この「メフィストーフェラ」は、「女性性」のそうした面の象徴であると、私には思われた。

 そして、この「どうにもならない」という徒労感、とでもいったものが、物語の全体を基調として貫いている。ファウストは、メフィストーフェラの導きのもと、みっつの恋をする。まずはヨーロッパ的な、すなわち「ロマン的」な「ワルプルギスの夜」において、魔女である公妃との恋を演じる。初めはその恋に夢中になるファウストだったが、やがてその「ゴシック風な乱雑」に嫌気がさし、「ギリシア風な調和」、そしてその象徴であるヘレナに憧れ、ヨーロッパを後にする。

 舞台はエーゲ海の島へ。そこに展開されるのは、真にギリシア的というべき「彫塑的な浄福」。ファウストはそこでついに、恋と美と悦楽の象徴ともいうべき女性たるヘレナと出会い、古典的な響宴を堪能する。しかしコウモリに乗ってあらわれた、嫉妬にかられた公妃の闖入をきっかけに、すべては崩壊する。

 メフィストーフェラが杖を振るうと、神殿は廃墟と化し、ヘレナもまた、骸骨のようなミイラとなる。あるいはこれは、古典的調和というものは結局、懐古的な幻想にすぎないのだと、ゲーテの古典主義を揶揄しているのかもしれない。何にせよ、自らの理想の顕現ともいうべき幸福を失ったファウストは、公妃の胸に剣をつきとおすと、また黒馬にまたがり、メフィストーフェラとともに島を後にする。

 そして第五幕。「純粋なすなおさ、しとやかさ、美しさに魅せられて」、市長の娘に結婚を申し込み、受け入れられたファウストは、

 静物的生活のうちに、魂を満足させる家庭の幸福というやつを見いだした。

 この皮肉たっぷりの言葉とともに、ファウストは、ハイネが生きた時代の主人公たる「市民階級」というものと、和解し、道徳的平和のなかに憩う路を選ぶ。

 高慢な精神ゆえの疑惑や熱狂的な苦痛の享楽は忘れさられ、こうして内面の浄福感に輝くかれは、教会の塔のうえに立つ風見の金鶏そっくりである。

 一市民として生きることこそ真の幸福とばかりに、ファウストが教会に向けて婚礼の行列をはじめたそのとき、メフィストーフェラはあらわれ、胸元から「契約書」を取り出す。ファウストのいかなる抗議も、またいかなる嘆願も、彼女は聞き入れようとはしない。やがて地面がひらき、身の毛もよだつ地獄の怪物たちの登場とともに、蛇に化身したメフィストーフェラは、最初の契約通り、ファウストを絞め殺し、その命を奪う。

 こうして何もかもは徒労に終わる。ファウストは何一つ得ることなく、女悪魔はきっちりと求めたものを得る。恋においてもまたこの通りだと、恋愛詩人たるハイネがそういって肩をすくめているように思えるのは、私だけだろうか。

 あるいは当時の時代精神ともいうべきロマン主義にも、絶対権威ともいうべきゲーテ的な古典主義にも、そして勿論小市民的なけちくさい価値観にも組せず、斜にかまえて皮肉に笑う姿こそ、なんだかハイネという詩人の本当の姿であるようにも、私にはみえた。

 そして私にとってのハイネという詩人は、なんだかさらに、とらえどころがない相手になってしまったような気がする。書かれてあることはきっぱりとしていてわかりやすいのに、どうしてこう判断しづらいのだろうか。

 この『ファウスト博士』という作品、私がざっと調べた範囲では、この『ドイツの文学』第二巻に収録されているもの以外に、邦訳されているものはみつけられなかった。巻末に「昭和41年9月1日 第一版印刷」とあるから、もうきっちり45年も前の本だ(ちなみに定価は520円!)。発行部数がどのくらいあるのかはわからないが、本屋にいってすぐに手に入る、ということはまずないだろう(アマゾンでは、手に入りそうですが)。しかし読んでみたならばとても面白い「ファウスト」なので、岩波文庫か、ちくま文庫あたりでぜひ、新訳でもいいから出版して頂きたいものだ。

 そしてその巻末には、さっぱりとまとめられた「ハイネ評」みたいなものを付録していただくと、私的にはとてもありがたいのですが、それはムシがよすぎるというものでしょうか。

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