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スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『ホビット』

ホビット―ゆきてかえりし物語 [第四版・注釈版]ホビット―ゆきてかえりし物語 [第四版・注釈版]
(1997/10)
J.R.R. トールキン

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利己主義者たちの物語

 トールキンの『指輪物語』、これは有名だ。何年か前に映画化されたので、その知名度は一段と高まったことだろう。その、ピーター・ジャクソン監督の『ロード・オブ・ザ・リング』という三部作映画、私としては、非常に良くできた映画だったと思っている。

 『指輪物語』を最初に読んだとき、これは実写であれアニメーションであれ、映画としての映像化は、かなりの駄作が生まれることを覚悟しない限りは、ほぼ不可能だな、と思ったことを覚えている。厚めの文庫本にしてたっぷり九冊、そしてそこに詰め込まれた壮大な物語世界。それは三次元的な広がりにとどまらない、創世神話から連なる歴史的背景という、第四次元的な深さまでをも合わせもった、とてつもない世界だったからだ。

 もし映像化しようとしたとしても、この世界観を描くだけでもう精一杯で、そこを舞台に繰り広げられる大掛かりな叙事神話的ドラマや、さらにはその物語を彩る登場人物たちの細やかな心理描写などには、長くても三時間ぐらいの劇場公開映画の規模では、とてもではないが手をまわすことはできないだろうと思われた。

 しかし最初から三部作で構成し、しかもその三本の、それぞれが超大作といえる規模の映画を一度に撮影するという、当時としては荒技といっていい方法で、ピーター・ジャクソンは見事に映画化してみせた。そしてその完成した作品の出来栄えは、確かに文句のつけようのないレベルのものだった(私見では)。

 しかし今回は、『指輪物語』ではなく『ホビット』を読んだので、映画のことはこれ以上深入りしないことにしよう。私としては、文庫本九冊を読んでいる暇なんかない、というひとならば、この映画を観れば充分じゃないか、ぐらいには思っている、とだけ言っておこう(映画だけでも、三本観れば休日が一日つぶれますが)。

 この『ホビット』は、『指輪物語』の前史、という位置にある物語で、『指輪物語』を読むにしろ、あるいは映画を観て済ませるにしろ、やはり先に読んでおくべきだと、私は思う。読んでいなくとも『指輪物語』を楽しむことはできるのだろうが、しかし、その物語の中核といっていい小道具である「ひとつの指輪」が、どうして、ホビットなる種族の内のひとりの手に渡ることになり、そしてあの壮大な物語が始められることになるのか、それを知っているか知らずにいるかでは大きな違いがあると思われるからだ。

 実際私は、この二作を順番に読んだ。と、いうより、この『ホビット』を読んだことをきっかけに、あの超大作を読んでみようという気になった、といったほうが正確かもしれない。確かに、この『ホビット』は、遅読のために大作を読むことが人並み以上に大仕事になってしまう私を、文庫本九冊に挑戦しようという気にさせるに充分なものだった。

 『指輪物語』に比べ、この『ホビット』は、かなり「子供向け」だといえるだろう。物語自体も単純だ。はるか西方の地で暴れ回るドラゴンを倒し、奪われた宝を取り戻すための旅に、なぜかホビットという牧歌的な種族の、決して勇敢でも若々しくもないビルボなる人物(?)が巻き込まれ、その道中にさまざまな事件が起こる、というもので、あの『指輪物語』のような複雑さとは縁遠い。

 そして、物語全体の雰囲気、といったものにも、この二作では随分な違いがある。世界中の「善きもの」、あるいは「美しきもの」が、闇の勢力の前に滅亡の危機に瀕するなかでの、救いのみえない旅と、その果てにある絶望的な戦い、という具合で、もうとても「子供向け」とはいえないのが『指輪物語』の世界観だが、『ホビット』のほうは、基本的には「さあ、竜をたおして先祖伝来の宝を取り戻すぞ」という以外に目的も動機づけもないわけで、なんというか、根底を流れる「お気楽さ」というものが、物語から明るさを決定的に奪うことはない。

 とはいっても、テンポのよい物語進行や、その物語が進むにつれて、旅の一行を襲う困難の次第に増す深刻さや、それにともなう形でクライマックスに向けていよいよ高まっていく緊張感などで、読者をぐいぐいと惹き込んでいく描き方は、さすがに『指輪物語』の筆者だと思わせるものであり、

 「人の一生のなかで『ホビット』をはじめて読むのはたまたま幼年期であるかもしれないが、この最初の機会は、大人になってからその後幾度となく読み返すきっかけにすぎない。」

 というC・S・ルイスの、この物語に寄せられた言葉の通り、大人の鑑賞にも充分に応えて余りあるものだということはいうまでもない。それ故にまた、あの壮大な叙事詩たる『指輪物語』の序章としての役割も、充分に果たし得ているのだということもできるのだろう。

 私が何よりも、この物語の魅力と感じているのは、『指輪物語』もそうなのだが、主人公たちが強大で邪悪な敵に立ち向かう、という形を取りながら、単純な勧善懲悪のステレオタイプに陥っていない、という点だ。勿論敵は悪い奴だ。しかしながら、主人公やその仲間もまた、純粋な「正義の味方」ではないのだ。

 主人公ビルボ・バギンズ。これは、平和を愛する、といえば聞こえはいいが、つまりは事なかれ主義の、同じように繰り返される日常生活というものをこよなく愛し、それを乱すようなトラブルは一切御免、という類いの人物だ。そしてその仲間である十三人のドワーフたち。これがそろいもそろって自分勝手で、強欲で、不平家、というよりたちの悪いクレーマーだ。そして魔法使いのガンダルフ。彼は実はとても偉大な人物なのだが、それがわかるのは『指輪物語』での話で、この物語の時点では、どうも思わせぶりなペテン師じみた、いかにも怪しげな魔法使いのじいさんにしか見えない。

 こんな連中が、長い道中を、様々な敵やトラブル、つまり人食いのトロルだの、ゴブリンの洞窟だの、巨大蜘蛛の群れだの、敵対的なエルフだのといったものたちとのイザコザをくぐり抜けながら辿っていき、最終的には恐ろしいドラゴンと一戦交えようというのだから、格好よくスマートに事が運ぶはずはない。

 つまり、それぞれがそれぞれのエゴをむき出しにするものだから、内輪もめが絶えない。それが彼らの旅を困難なものに、しかし傍観者たる読者には、実に面白いものにしてくれているのだ。だが、それは実は、この物語の本当の深さの一端であるともいえるのではないだろうか。

 例えば、彼らの敵であるドラゴン。途方もなく膨大な宝の山を奪い集め、それを守っているドラゴンだが、このドラゴンもまた、強欲で我利我利のエゴむき出し、という点では、ドワーフたちと本質的な違いはないのだといえないだろうか。

 だとするならば、この物語は、敵も味方もなく、それを構成する何もかもが「エゴのぶつかり合い」だ、ということができるし、実際、ドラゴン亡き後には、残された宝をめぐって、人間やエルフなども交えた大きな争いに発展するのだ。

 そしてその「エゴのぶつかり合い」というモチーフは、『指輪物語』においては、もっとシリアスな形であらわされる。その物語の中心である、全てを支配する力であるところの「ひとつの指輪」それ自体が、すでにしてエゴというものの象徴に他ならないのだから。

 だがふたつの物語は共に、その「エゴのぶつかり合い」を乗り越える、という形で、最終的には大団円を迎えるわけで、そこにこそ、このふたつの物語が、語られるに足るものとしての価値を見出せるのだ、とまでいってしまっては大袈裟だろうか。

 勿論、トールキンはこの物語を、道徳訓を説くための童話のようなものとしては書かなかっただろうし、また我々読者としても、まずは物語を楽しむべきであって、そこから教訓を汲み取ろう、などということは余分な作業だといえるのかもしれない。

 しかし、文学とはつまり人間を描くものであり、そして我々はそこに人間を読み取るのである以上、何事かを学ぶことができるはずではないだろうか。もし学ぶべきものがあるのならば、やはり学んでおくべきだと私は思う。エゴというものが、我々の社会においてもまた、少なからぬ問題を生んでいるということ、これはまぎれもない事実なのだから。

 まあ、そうはいっても、やはりまずはとにかく物語を楽しむことだろう。こういうエルフだのゴブリンだのが登場するファンタジーを、子供のように楽しむということ、これもまた、我々にとっては大いに学ぶべき大切なことだろうからだ。

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