FC2ブログ

乱読乱文多謝 静岡史跡探訪ver.

スーパーカブと、史跡と、ときどき読書感想文

『大空のサムライ』

大空のサムライ―かえらざる零戦隊 (光人社NF文庫)大空のサムライ―かえらざる零戦隊 (光人社NF文庫)
(2003/04)
坂井 三郎

商品詳細を見る


戦前の日本、戦後の日本

 前回の記事で、日本人は敗戦によって、日本人の古来の「精神性」いうものを自ら否定してしまった、というようなことを書かせていただいたが、今回はそれを、もう少し具体的にみてみる、ということになるのかもしれない。

 この本の副題をみてもわかるように、筆者の坂井三郎は、旧日本海軍の零戦(零式艦上戦闘機、ゼロ戦)のパイロットだったひとだ。この本を読むのは今回が初めてだが、この坂井というひとの他の著作は、読んだことがあった。それも、ずいぶんと昔にだ。

 私が通った小学校の図書室に、『ゼロ戦、坂井中尉の記録』という本があった。それが、私が初めて読んだ坂井三郎の本だった。勿論小学生向けの本ではあったが、そこに書かれていた、実際に戦闘機に乗ってあの太平洋戦争を戦った日本人パイロットによる回想録は、戦争映画などとは違い、生々しい現実味をもって、私の子供心に迫ってきたことを憶えている。

 いま思えば、その『ゼロ戦』という本は、この『大空のサムライ』の子供向け版とでもいうべきものだった。そう、この本は、坂井三郎という、実に60機以上の敵機を撃墜したエースパイロットの自伝であり、実話であって、物語ではない。なので勿論、同じパイロットの著作といっても、サン=テグジュペリようなものを期待してはいけない。

 文学的演出、などは全くない。文章も、一流の小説家のものを読み慣れているひとには、荒削りに感じられることだろう。だがそのかわりに、というよりはそれ故に、臨場感、というか、否応のないリアリティは、『戦う操縦士』の比ではない、と私は思う。まあ、比較するべき二者ではないことはいうまでもないことではあるが。

 ここに描かれるのは、戦闘機のパイロットとして、日中戦争から太平洋戦争までを戦い抜いた、当時の若者たちの生き様、そして死に様だ。しかしこの本は、勇ましい戦記、というよりはあくまでも自伝的な色彩が濃いように、私には感じられる。

 戦争という時代背景のもと、戦闘機の操縦席という、特殊といえばあまりに特殊な環境におかれた、十代から二十代の若者が、いかに生きたのか。私が胸を打たれたとするならば、戦争前期における零戦の大活躍の武勇伝などより、その零戦に乗って戦った者たちの、ありのままの姿だった。

 そう、この本の優れているところは、坂井三郎というひとりの人間が、あの時代をどう感受したのか、それを素直に正直に書き綴っている点にあるのではないだろうか。だからこそ、この本は当時の敵国であったアメリカの人たちにも評価され、世界的なベストセラーたり得たのだろう。ゼロ戦強いぞ日本バンザイという調子では、決してそうはいかなかったはずだろうから。

 確かに、戦争序盤における零戦の活躍には目覚ましいものがあった。日本軍の南方進出の先駆けとして、台湾の基地から飛び立った零戦隊が、アメリカ軍機を相手に連戦連勝で圧倒していく様は、本書の文中に明らかだ。

 しかしその後、叩けど叩けど数を増す敵軍に対し、連日の出撃に次第に疲弊し、だが補給を満足に受けられないために一機、また一機と数を減らしていく零戦隊の様子、それもまた克明に描かれる。そして減っていくのは兵器である零戦だけではない、それを操縦する若いパイロットたちもまた、当然減っていくのだ。そしてこの本においては、そのパイロットたち、即ち当時を生きた人間たちに焦点が当てられている。

 そして我々現代人である読者は、彼らに驚嘆させられるのだ。一体、当時の若者たちのあの揺るぎない意志、忍耐力、責任感、不断の向上心は、どこから来たのだろうか。

 一介の水兵として海軍に入った少年が、飛行機乗りに憧れ、寝る間も惜しんで勉強をして練習生となり、厳しい訓練を経て戦闘機のパイロットとなり、やがて戦場に出ていく。そして実際の戦闘においても、敵に勝利するためには何が必要なのか、それを常に考えることを怠らない。

 アメリカの巨大な爆撃機を撃墜するための戦法を考えてみたり、あるいは燃料をなるべく消費しない飛び方を工夫し、また、有利な位置から先手を取ることの重要性を感じたならば視力を鍛え、昼間の青空の果てにある星をみつける訓練によって、なんと2・5という驚異的な視力を得るにまでに至る。その他、動体視力や反射神経の訓練、さらには素早い判断力の訓練など、必要とあらば何でもする。しかも彼らは、戦いの日々の内に、毎日何人かの戦友を失いつつ、毎日自身の命を敵前にさらしながら、それをするのだ。何という、強さだろうか。

 そうした精進は、敵機60機以上の撃墜という大戦果をもたらしたのみならず、例えば片目の視力を失うような大怪我を負いながらも奇跡的に生還することだったり、あるいは、十五機の敵機に囲まれながらも見事に逃げおおせること、などといった形で、筆者坂井自身を助けたのだった。幸運、それもあるかもしれない。しかしやはり、数少ない零戦パイロットの生き残りである彼は、勝利し、生還するための努力を怠らなかったからこそ、生き残るべくして生き残ったのだ。

 だが厳しい見方をするならば、そうした全てが最終的にもたらしたものとは、ただ、敗戦という事実と、焼け野原と化した日本の惨めな姿、それだけだった、ともいえるだろう。戦争序盤、南方戦線であれほどに活躍した零戦隊のエースも、最後には、硫黄島で全ての戦闘機を破壊され、飛行機のない役立たずのパイロットとして、内地に帰ってくる他になす術がなかった。

 確かに、生き残った、という結果だけでも決して小さなことではない。それはわかる。しかしあれほどの強さをもった人間が、命がけの日々を必死に生き、その結果が、ただ生き残ったと、それだけだとは、何と悲しいことだろうかと、私はそういいたいのだ。これほどの力は、単に「生き残る」ことにとどまらず、「より良く」生きるためにこそ、使われるべきではなかっただろうか。

 こうしたひとたちがもし、戦争のない時代を生きられたならばと、私はそう考えずにはいられない。それはただ、戦争というものに浪費されてしまったものが、経済的な意味での生産活動に向けられていたならば、この国を大いに富ませることになっただろう、ということばかりにとどまらない。なぜなら、浪費されたのは単に社会経済の担い手としての人間力にとどまるものではないからだ。

 忘れるべきでないのは、当時の日本人がもっていた「強さ」とは、戦争という環境が突発的に生んだものでもなく、所謂「軍国教育」なるものがひねり出したものでも勿論ない、ということだ。それは日本人古来の精神性に基づくものであって、特にあの時代に特有のものではなかったはずなのだ、少なくとも敗戦の前までは。

 それは古来より連綿と受け継がれてきた精神性のもつ「強さ」であり、それは目の前の生活に向けられる誠実さや几帳面さ、あるいは忍耐強さとしてあらわれ、やがては伝統文化として華開くような、そうした「強さ」だったのだと、私は思う。

 だからこそ逆説的に、近代技術の発達という点では欧米列強に到底かなわなかったはずの、当時の日本の技術者が、名機零戦を生み出すなどという芸当もやってのけたし、それを操るパイロットたちの絶えざる精進が、その名機の性能を極限まで引き出し、アメリカの戦闘機を圧倒するなどということも可能になったのだが、やはりその力は、向けるべき方向を誤った力だったといわざるを得ないだろう。

 静かな勤勉さであり、ささやかではあっても清冽な流れのような生活秩序への愛すべき傾向であり、自ら足るをもって豊かさだと感じることのできる清廉であったはずの、日本人の古来の「強さ」が、「大和魂」などという名前のもとに、戦争に、破壊と殺し合いのために浪費されてしまったということ、それは単に歴史上の一事件として片付けられない、我々日本人にとっては決定的なできごとだったのではないだろうか。

 太宰治は、日本は戦争に負けたのではなく、「滅んだ」のだといった。敗戦を経験した日本人が覚えたこのような喪失感は、単に物質的な損失ばかりでないのは勿論、人的な損失にすらとどまらない、決定的なアイデンティティの喪失によってしか、説明できないのではないだろうか。日本人が日本人であることの精神的支柱を、戦争を戦うための手段として誤用した、その結果が敗戦であったことにより、日本人は、自らが日本人であることの内的証明までもを失ってしまったのだ。

 戦後、日本は奇跡的な復興をとげ、世界のうちに先進国、経済大国としての地位を得るまでに至った。それははきっと、軍事的強国としての大日本帝国がかつて登りつめた地位よりも遥かに高く、そして尊敬に値する地位だといえるだろう。しかしそれは、かつての日本の復活、ではなかった。全く別の、新しい日本の誕生だといえた。

 そしてそれを担うものであるところの、かつての日本人と、現在の日本人。どちらが優れているのか、その結論はまだ得られないだろう。確かなのは、失われたものはもう二度と取り戻せない、ということだけだ。

 戦争によって断絶されることなく、先人たちとの精神的なつながりを保ったままの日本人として、我々があることができたならば、我々は現在をどう生きていたのだろうか。勿論歴史に対して「もし」を問うのは愚かなことだ。しかし戦争によって失ったものは、きっと、大いに悔やんでしかるべきものだったのではないだろうか。

 筆者坂井三郎が亡くなったのは、平成12年で、つい最近のことだ。撃墜王として有名な彼だったが、決してその戦果を誇ることなく、むしろ、あの激戦のさなかにあって一度も自機を壊さなかったこと、そして何より、三機編隊の隊長として、一度も部下である僚機を失わなかったことを誇っていたという。

スポンサーサイト



PageTop