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『心理療法論』


 弁証法的人づき合いのすすめ


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『心理療法論』 C.G.ユング著 林道義編訳 
 みすず文庫 ISBN4-622-03036-5



 先日、久しぶりに大きな本屋さんに行く用事があった。そこである本をみつけ、買ってきた。


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『赤の書』 ユング著 シャムダーニ編 河合俊雄監訳 
 創元社 ISBN978-4-422-11577-1


 これである。その存在は広く知られていたものの、公開されぬままであったユングの著作で、2009年になってようやく出版されたこの本。この日本語訳は2010年に刊行されており、私もずっと欲しかったのであるが、高いし、しかもこれはちょっと特殊な書物で気軽に読み始められるような代物ではないことは知っていたので、買わずにいた。しかし実際に店頭で手にしてみるともう我慢できなくなり、買ってしまった、という訳だ。

 本屋さんからの帰宅後、ぱらぱらと『赤の書』のページを繰ってみるも、予想通り、というか予想以上の難物であった。とにかくこれは、ユングが自身の心理学について体系的に著したもの、というような「普通の本」では全くなく、あの「二十世紀を代表する頭脳のひとり」と称されるユングが、自分の内的世界を直観的にしるした日記のごときものなのである。よって、この本は読んで理解するもの、というよりは読者がおのおのの理解力を総動員して「解釈」するもの、といったほうがよいだろう。

 しかもその「解釈」のために必要なのは、まさに、ユングがその生涯をかけて築きあげた分析心理学を駆使すること、なのである。これはもう、私のような素人が気楽に手を出せるようなものではないのである。

 しかし折角買ったこの『赤の書』、だからといって手を出さないまま書棚の飾りにしておくのでは、もったいないし、ちょっとクヤシイ思いもある。ということで、いつの日か『赤の書』に挑むために、最近はちっとも読んでいないユングの心理学をおさらいするために、その入門書、というか、心構え的なものが書かれた、この『心理療法論』を久しぶりに読み返すことにした、という訳だ。

 カバーに書かれた紹介文によると、この本は、


 心理療法上の基本的な問題についてユングが論じたものの中から、とくに重要な6論文を訳者が選んで一書としたもの


 である。分量の少ない本なのだが、むっつも論文が載っている。その全てについてここで触れるのはさすがに大変なので、今回は最初の「臨床的心理療法の基本』だけを主に扱うことにしましょう。 

 その表題の通り、この論文において語られるのは、心理療法の臨床の場における方法論、である。それを端的に、ユングはその冒頭においてこう書いている。


 それというのも、心理療法とは、初めのうち理解されていたような単純で一義的な方法ではなく、次第に明らかになってきたようにある意味では弁証法的な手続きだからである。すなわち二人の人間の対話、もしくは対決なのである。


 この数行において語られていることが、すなわちこの小論文の謂わんとしていることなのであるが、これだけではさすがに言葉が足りないので、もう少し、ユングの謂うところを追ってみる。

 初期の心理療法は、「誰かが所期の目的を達成するためにきまりきったやり方で用いる方法」であろうとしたが、それは残念ながら不可能であった、とユングはいう。言い換えるならば、例えば骨折の治療をする整形外科医のようには、心理療法家は治療にあたることができない、ということである。そうではなくて(つまり「単純で一義的な方法ではなく」)、「弁証法的な手続き」が必要だというその理由として、ユングは、心的体系というものは、「個性」と「普遍性」という、背反する二律によって把握されるものだからだ、という。

 もし、人間の心というものがただ普遍的な性質をしかもっていなかったとするならば、いついかなる場合においても、「きまりきったやり方」によって取り扱うことが可能になるだろう。「学」というものは本来、様々な現象を論理的に整理し、得られた反省知を抽象化、すなわち概念化することによって成り立つのが常である。だから初期の心理療法が、対象すなわち人間の心というものの性質を普遍的なものと見なし、その治療の手段を確立しようとしたことは、ある意味では「真っ当な」方法だったのだ。人の心というものが完全にそれぞれ個性的であったならば、すなわち「個人が他の個人とあらゆる点で異なっているとするれば」、「心理学は科学としては不可能になってしまうだろう」とユングは書いている。

 しかし、個人というものは常にいうまでもなくまさしくひとつ限りの、他に類をみないものとしてあらわれる。そして心理療法家が相手にするのは、普遍性を共有したある集団ではなくして、そうした個性的なひとつの人格に他ならない。その事実を無視して、普遍性という一面だけをみたならば、その方法は片手落ちにならざるを得ないだろう。「個性というものは一回限りのもの・予見できないもの・解釈できないもの」だとユングはいう。対象がそうしたものである以上、心理療法家は、従来とは違った方法をとらなければならない。

 
 私は初め弁証法的手続を、ある意味では心理療法の最も新しい発展の段階であると述べた。私はしかしここでその言い方を訂正し、その手続を正当に評価しなければならない。それは以前の理論や実践を単に前進させたというのではなく、むしろそれを完全に捨ててしまって、可能な限り偏見のない態度をとることである。言い換えれば、心理療法家はもはや行為する主体ではなく、個性的な発展の過程を共に体験する者である。


 たとえば整形外科医が、骨折の治療行為の主体ではなく、その治癒の過程を患者と共にするものだ、などといったならばこれは奇異にしか聞こえないであろう。だが心理療法家は他ならぬ「心」を扱うが故にまさにそうしなければならない、とユングはいうのである。


 そこでは療法家は質問者や回答者として、他人の心的体系との関係の中に入り込んでゆき、もはや上位者、知者、裁き人や助言者ではなく、共に体験する者であり、今は患者と言われている人と同じ弁証法的過程の中にいるのである。


 だがこんな風にして、心理療法の方法論を私たちが知ることに意味はあるのだろうか。ユングはまた書いている。


 素人が心理療法のさまざまな技法を無批判に遊び半分に行うのは火遊びと同じであり、厳に戒めなければならない。


 他者の心の深いところに立ち入り、影響を及ぼすことになるその行為は、「手段」が正しいものであればあるほど、その影響力も大きくなるだろう。それだけに、「手段」だけを知り、辿り着くべき正しい「目的」を知らない者がそれを扱うことの危険性は大きくなる。ゲーテの詩にうたわれた、「魔法使いの弟子」を思い出すのが、ここでは一番妥当なことだろう。

 しかしここでユングの述べていることとは、ようするに、療法家は先入観をもたず、患者と対等な立場で、患者とともに「発展の過程」を体験せよ、ということである。これは、治療の場においては成る程目新しい方法と言えるかもしれないが、我々の通常の人間関係においてはどうであろうか。

 ある人物と、先入観を持たず、相手と対等な立場で、共に発展していけるような関係を結べたならば、それは素晴らしいことである。すなわちそれは、実生活における人間関係もまた、弁証法的であれ、と言い換えることができる。

 人間、ある程度年齢を重ねると、自分の経験知から物事を判断しようという傾向が強くなる。それは他者との関係においても同じことで、初対面の人について、これまでに出会ったことのある誰彼に似た感じの人だから、この人もこんな感じの人だろう、だとか、あるいは旧知の人についても、この人はいつもこうだからこういう人なんだ、などと、目の前の人の言動よりも、自分の経験から知られることの方を優先しがちになる。

 さらには、なんとかして相手より優位に立とう、という傾向も、歳を重ねるにつれ、強まるように思う。これではいうまでもなく、弁証法的であることは不可能であろう。横柄な態度、頑固で偏狭な態度はいずれも、老人の悪しき特徴である。

 では実際に、そして具体的に我々はどうするべきなのか。じつは、ユングの心理学からはそれを学び得る、と私は思っている。その端的な、そして根本的な例として今回はこの心理療法における弁証法的手法というものを取り上げてみたが、ユングの心理学は、西洋医学的な技術的な「治療」よりは、東洋医学的に、全体のバランスを整えていくような方向性をもっているので、こうした「実生活への応用」とでもいったものがしやすい性質をもっているのだ。

 「個性」と「普遍性」という心の二面性は、心理療法の手段の上でのみならず、まさに個人の心の問題でもある。つまり、ひとはあまりに個人的に生きようとしても、またあまりに社会的に生きようとしても、いぜれにしてもやはりバランスを失してしまう。ここでもまた、我々は弁証法的に自らの心を発展させていかなければならないのである。

 とかく、その「集合的無意識」だとか「シンクロニシティ」だとかいう概念に注目され、サブカルチャー指向の若者に気に入られることの多いユングであるが、実は、その心理学が語ることが重要性を増してくるのは、四十歳とか、五十歳を過ぎてからである。四十六歳である私が書店の店頭で「赤の本」をみつけ、それを機に、かつて二十代の頃に夢中になったユングをこうして再び読む気になったことにも、あるいは、偶然をこえた意味があるのかもしれない。


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『ヨブへの答え』

ヨブへの答えヨブへの答え
(1988/03)
C.G. ユング

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意識の歴史的変化

 この本を、「紹介する」という形で、何かを書く、ということが、正しいことかどうか、少し不安な部分がある。なぜなら、この本を読むためには、知っておかなければならないことが少なくないからだ。

 いや、決して知ったかぶりをする訳ではないのだが、事実、少なくとも『旧約聖書』の『ヨブ記』のあらすじぐらいは知らないと、もうこの本の題名すら何だかわからないし、そして内容を追っていくにも、ユング心理学のことをある程度知っていないと理解が非常に困難になるだろう。まあ、『ヨブ記』については、本文中で何となく筋を追ってくれるので何とかなるが、やはり、ユング心理学については、何冊か入門書的な、しかしユング自身が書いたものを読んでおくべきだろう。

 それでもなお敢えて、私がこうして記事を書こうとしているのは、この本が本当に面白いと思われるからだ。帯に、「ユングの最高傑作」などと書かれているが、それは大げさでもなんでもないと、私は思う。

 しかし私はユングの専門家などではないし、臨床心理学を本格的に勉強したこともない。だから、私のユングについての知識などたかが知れている。そしてまた、ユダヤ教およびキリスト教という、この本のもうひとつの題材についてもやはり、たいした知識を持っている訳でもない。ただ、聖書を読んだことがありますよ、と、その程度だ(『ヨブ記』だって、エラそうにいうほど、しっかり内容を憶えている訳ではないのです)。

 だから皆さんにご紹介、といっても、本格的な解説のようなことができる訳ではない。できることといえば、この「最高傑作」に触れるための、ちょっとしたお手伝い、それぐらいのものだ。よって今回は、この本で問題とされていることの背景のようなものを、少し考えてみるような形にしようと思う。

 それを信仰するか否かは別として、西洋の文化にとってはキリスト教がきわめて重要なものであることは事実だ。だから、様々なひとたちが、様々なアプローチで、このキリスト教の発生の歴史の解明に挑んでいる。つまり、キリスト教の成り立ちというものについて、『新約聖書』に書かれていることを「信じる」のではなく、史実として一体どういうものだったのか、科学的に解明しよう、というのだ。

 事実としてキリスト教が誕生したのである以上、二千年前に、古来のユダヤ教のなかにある思想的変化があったことは確かなのだろう。その変化の過程を、残された様々な文書を比較検討して、丁寧に辿っていくことがすなわち科学的、文献学的な方法、ということになるのだが、ユングは心理学者なので、こうした方法はとらない。

 「神」、あるいは「神的なもの」とは、人間の心(主に無意識)のあらわれだ、というのが、かなりざっくりしたいいかただが、ユングの考え方だ。だから、この問いに対しても、彼はその「神」に相対する人びとの心の動きを、ひとつひとつ掘り下げていく、という方法をとる。
 
 『ヨブ記』という、この『旧約聖書』のなかでも異彩をはなつ不可解な書物を読み解いていくことによって、人間の心理というものが、キリストの出現以前から以後にかけて、どう変化していったのか、それを浮き彫りにし、そこから、キリスト教の誕生という歴史的事件の、心理的背景を解明しよう、というのが本書におけるユングの意図だ。

 ユダヤ教は非常に古い宗教であり、「バビロン捕囚」の頃に現在あるユダヤ教の形が基礎づけられた、ということはできるかもしれないが、この宗教のそもそもの始まりがいつごろか、などということは、たぶん誰にもいうことはできないだろう。全ての「太古的」宗教と同じく、その発生は人類の発生とほとんど同じころだといってしまっても過言ではないはずだ。

 一方においてキリスト教の成立はというと、それに較べるならばかなり正確に「このころだ」と断ずることができる。つまりそれだけ新しい宗教だ、ということだ。そのキリスト教では、『新約聖書』は勿論、ユダヤ教の『聖書』も、『旧約聖書』というキリスト教的視点からみた名称でではあるが、聖典とされている。(細かくいうと、その扱いは部分的にはかなり相違がみられるのではあるが)。

 それは、教義としては、キリスト教でいう「唯一の神」と、ユダヤ教の「唯一の神」とは全く同じものだ、ということを意味する。だとすると、そこにひとつの疑問が、つまりなぜ、伝統的な宗教がすでに確立されていたところに、キリスト教という新しい宗教が生まれる必然性があったのか、という疑問が生じないだろうか。

 そう、必然性だ。ユダヤ教内の一宗派が、偶発的に主流派と袂をわかち、新しい宗教をひらいた、というだけでは、それはとても世界宗教にまで発展するようなことはなかっただろう。あの時代に、キリスト教が、まさしくあの形で生まれたことには、やはりある強い必然性があったのだ。

 その必然性の正体を見極めるためには、まずはやはり、ユダヤ教とキリスト教との違いをはっきりさせることが一番だろう。その違いこそが、いわばキリスト教の独自性を浮き彫りにし、「ユダヤ教ではない」ものとしての存在理由を物語ってくれるだろうからだ。

 そこで、『旧約』の神と、『新約』の神という、本来「ヤーヴェ」という名の同じものであるはずの神について、注目してみることにする。神というものをいかなるものとしてみるのか、畢竟そこに、宗教というものの性質は左右されるものだからだ。

 『旧約』と『新約』を読み比べてみたならば、その違いははっきりとあらわれる。『旧約』の神は、典型的な「太古の神」の性質を強く持っている。つまり、大昔の人びとが、自然というものを擬人化して「神」と名付けた、あの古代ギリシアや古代ローマの神々、身近なところでは我が国の「八百万の神」などと、多くの点で似通った神だ。

 だからその性質は、ほとんど自然そのものだ。それは多くを恵んでくれるが、また多くを奪いもする。大地を潤す雨を降らせもするが、ときには大洪水でその全てを滅ぼす。善とも悪ともつかない両義性をもった神で、それは人びとにとっては「畏怖」の対象としての、強権的で圧倒的な力としての「あらぶる神」だ。

 一方において『新約』の神とは、つまりはイエス・キリストとしてあらわれたところの「神」だ。正義、というものがそこでは至上の価値をもつ。つまりそれは「絶対善」というものの具現だ。それは「自然」よりは「知恵」(つまり理性)から生まれた神のようにみえる。

 それは道徳的な規範ともいうべきもので、「善」という一義性のなかにあくまでも留まり、その対義としての「悪」は、完全に排斥される。その完全性とはある意味では極端な一面性なのだ。「神」とは一種の道徳的理想像であり、ひとびとにとってそれは超越的な理想の体現としての「憧憬」の対象ともいえるのではないだろうか。

 勿論、こんなにざっくりした印象だけでは、「神」というものの多義性はとても掴みきれるものではないが、しかし新旧の聖書を一読しただけでも、その違いははっきりとみてとれるのだ。『旧約』的神から、『新約』的神への、この変貌。どうして、変わる必要があったのだろうか。

 ユングは、ひとびとの「意識」というもの、そして「無意識」というものの歴史的な変化に、その「神の変貌」の必然性を求める。その詳細は、とても私がここで要約してみせることなど不可能なことだし、この『ヨブへの答え』を読んでいただくのが一番なので、もう余分なことは書かない。ただ、その論のはこびは実に見事であり、そこで主張されることに賛同するか否かは別としても、読むものを夢中にさせずにはおかないものだ、ということだけは、私は請け負うことができる。

 その内容の濃さのわりに、この本は分量的にはかなり小さいほうだ、といえるだろう。それは要点だけが簡潔に論じられているからだろうけれど、そのかわりに、ユング心理学についての基礎的な解説なども一切ないわけで、そのために、前述のように準備的な読書が必要になってしまう。
 
 この本自体は明解ではあるが、そうした意味では少しばかり難解だ、ともいえるかもしれない。私も、今回久しぶりに読み返すにあたり、最近はユングをとんと読んでいなかったせいか、「ユング的視点」を思い出すのに手間取り、初めて読んだときよりも読み進めるのに苦労させられた感があった。

 しかしこの本は、人間の心、というものは、太古から現在に至るまでに、不断に変化し続けてきたということ、すなわち古代人と現代人とは、いやもしかしたら二十世紀初頭の日本人と現代の日本人とでも、同じ「人間」だからといって、意識や無意識のありかたまでもが同じだと考えるべきではないということを、我々に知らしめてくれる。

 さらにまた、「個体発生は系統発生を繰り返す」という、生物発生上の原則が、生理的身体的なものにとどまらず、ユングのいうように人間の心理にもまた適用されるとしたならば、我々個々人もまた、単に経験を積むということにとどまらない、太古的な盲目的衝動からスタートし、それをより近代的な「理性」によってコントロールしていこうという、心というものの基本的なありかたの歴史的変容を、一生の内に不断に経験しているのだということになる。

 つまり、十代の若者の心は、五十歳の大人の心とは、もうその構造からして違うのだ、ということだ。そして「違う」ということをまず認識する、ということこそ、「理解」への近道だとはいえないだろうか。

 こうして、その「とっつきにくさ」を乗り越えさえすれば、この二十世紀を代表する頭脳が生み出した「最高傑作」を、楽しみ、多くの有意義なことを学ぶことができる。しかし、まあ、なにやらこうしてエラソウなことをいっている私も、無論、完全な理解にはほど遠い状態であり、これからも幾度となくチャレンジしなくてはならない、そんな類いの本だと思っている。


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